江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

石狩川花火大会2

2013年03月20日 | 歴史・文化

 江別の夏の一大ページェントとして、長い間市民に親しまれた石狩川花火大会は、昭和35年8月、商工観光夏祭りのメインイベントとして開始されました。

 昭和35年の第1回は、市内の組合、商店などがスポンサーとなり、単発16、仕掛け5、早打ち2、というように極めて小規模なものからの出発でした。
 しかし、38年(36年、37年は水害のため中止)からは、1,500個にのぼる燈籠流しが始まりました。
スポンサーも札幌の大手商社が加わり、以降年々大規模化し、江別の夏の風物詩として人気を呼びました。

 ところが、思わぬところから躓きがきました。
すなわち、石狩川の護岸工事です。さらに一つは、国道12号のバイパス工事です。
それに、交通安全の問題もあり、重兵衛渡し跡から対雁(現・工栄町)の旧対雁小学校跡地へと会場変更を余儀なくされたのでした。

 対雁は、市街地からは遠い。
また、交通の便も悪い。
そして、何よりも有力スポンサーである地元商店街に対し、対雁会場ではなんのメリットもありませんでした。つまり、会場に詰めかける人たちが、その足で商店街に落とす金がなくなったのでした。
加えて、折柄の不況により、市内外のスポンサー協賛金の集まりが不安視されました。

 51年から対雁会場となった花火大会は、56年中止となりました。
翌57年も開催に至らず、ここに20年間にわたり市民に親しまれてきた石狩川花火大会は姿を消しました。それは、前述のとおり治水やバイパス工事に伴うものでした。

 それが直接の因でしたが、商店街と市民を結ぶ架け橋でもあった花火大会の終焉は、商店街のおかれた状況とも無縁ではなかったのです。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」415-417頁.
写真:石狩川花火大会
 同上書413頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。


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