江別創造舎

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傑作!コンフラワー号

2017年02月10日 | 歴史・文化

 町村敬貴の到達点は、優秀なホルスタインの種牛を生産することでした。

 戦後、20年10月に勅選の貴族院議員となり、22年から3年間参議院議員となった一時期を除き、365日、朝から晩まで牛舎にいる牛一辺倒の生活が続きました。

 ラスト牧場時代と何ら変わりない生活があれば、ご機嫌でした。
ただ、時間だけは容赦なく流れました。
樽川時代、手塩にかけた種牛を手放したくない、売る、売らないで妻と口論した時からさえ、すでに30数年の星霜を重ねていました。
外見はいざ知らず、偉丈夫敬貴もいささか老いていました。

 昭和31年、農場経営を末吉夫婦に譲りました。
その後に、枚挙に枚挙に暇がないほどの栄誉、栄典が連なりました。
昭和39年4月、戦後第1回の生存者叙勲で勲3等旭日中綬章を受きました。
同10月、江別の初の名誉市民の称号を受けました。
昭和42年11月、北海道文化賞を受賞、などなど・・・・・。

 繰り返しになりますが、これら栄誉はアメリカから優秀な乳牛を輸入し、これをさらに改良育成、全国に供給することにより日本の酪農振興に尽くした功績をはじめ、土地改良、興農公社の設立、デスクカルチベーターなど農機具の改良、あるいは、戦後の食糧難時代、粉食協会を設立、副会長として末利用資源の開発に努めるなど、数多くの業績に対し与えられたものでした。

 しかし、町村敬貴にとって最高の栄誉は、昭和38年11月の第2回全国農業祭畜産部門で、彼生涯の傑作と自負したロベス・アイデアル・コンフラワー号が天皇杯を受けたことでしょう。
ここに種牛づくりは、最高峰を極めたのでした。

 頑健な体で100歳までは大丈夫と言われた町村敬貴でしたが、昭和44年8月14日急性骨髄性白血病のため不帰の客となりました。
享年88歳。
同16日の告別の日、彼を見送る葬列の中に愛牛コンフラワー号もいました。
悲しげに一声低く鳴いたといいますが、それこそ町村敬貴にとり、もって瞑すべきことでしょう。


註 :江別市総務部「えべつ昭和史」850頁.
写真:昭和37年7月 牧童姿の町村敬貴氏
 同上書850頁掲載写真を複写し、江別創造舎facebookおよび江別創造舎ブログに掲載いたしております。



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