当時、江北中学校3年生であった山下哲也は、渦巻く濁流に飼い牛がつぎつぎと流されていくのを目撃し、惘然となりました。
『8月6日、とうとう堤防が決壊してしまった。父が深夜土のう積みから飛んで帰って来てこう言った。”あの堤防が壊れるくらいだからどんなことになるか判らない”。体が濡れていたせいか声が何となく震えていた。それから何時間たっただろう。(中略)”ゴーッ”という音と共に1メートル位の高さの水が、すぐ近くまで迫ってきていた。(中略)すでに回りは、どこがなんだか判らないほどの水があった。ドラム缶や木材、まわりの物が流れ出した。春に作った堆肥も、山になって次から次へと流れていく。(中略)牛が次から次へと流されていく。悲鳴をあげて一生懸命流れに逆らって泳ごうとしてるのだが・・・』(水害体験作文集)。
また、当時の新聞報道は、『江別市は1/3が水没』と見出し、次のように報じていました。
『石狩川は、ついにそのキバを江別市でもむいた。3カ所で水が堤防を越え、一面を泥海に変えた。空からみると、川と畑や住宅地の区別を辛うじて示すのは堤防上にわずかに見える緑の線だけ。屋根を水面上に出した民家はいまにも窒息死するよう』(昭和56年8月6日付北海道新聞)。
まさに、惨憺たるものでした。
被害総額は、50年8月の約5倍、そして農業被害がその7割を占めました。
より具体的にいうと、前作付け面積の8割近くが被害を受け、なかでも堤防決壊の直撃を受けた美原地区、豊幌地区などの被害が目立ちました。
北海道開発局によると、この56年8月集中豪雨は、確率年で500年に1度の大雨でした。
全道の年間総雨量約1千億トンのうち、8月3日~5日の間に約40億トンが一地方に集中的に降ったのでした。うち、約7割が海に流れ、約2億トンが石狩川水系の堤防から溢れ、約10億トンが農業用水や下水道から溢れた内水反乱となったのでした。
それでは、激特事業の50cm嵩上げなどは効果を発揮しなかったのでしょうか。
当時の北海道開発局河川管理課長は、『この洪水で一番頑張ったのは堤防であると評した人がいたが、まさに同感であった。』(石狩川の流れ)と言い切りました。
美原地区などで頑張りきれなかったのは、何とも残念ですが、本流の治水工事が進んでいたことは事実です。
ショートカットされた本流に嵩高な堤防建設が進んでため、本流の水嵩が増し、かつ流れが早いため、支流の水が本流に流れ込めない。そのため、本流が支流に逆流して支流流域が氾濫したのです。
それが、幌向川の氾濫であり、千歳川、早苗別川の氾濫を現象せしめることになったのです。
この水害から立ち直る間もない同年8月23日、台風15号の永享による豪雨が再び襲いました。
これにより、江別太、美原、八幡など11地区で主に内水による浸冠水が起きたのでした。
また、市街地においても緑町など10街区で雨水が溢れました。
被害総額約6億6千万円となりました。
初句の被害とあわせると、実に63億円余りという甚大なものとなりました。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」444-445頁.
写真:昭和56年8月水害で冠水した豊幌小学校付近の道路
同上書432頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。
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