江別創造舎

活動コンセプト
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耕馬の活躍

2008年08月06日 | 歴史・文化
 本道開拓とその営農には、その稼働面から当初より馬耕は、必須条件でした。
特に平坦地大農経営には欠くことはできませんでした。

 明治19(1886)年入地した越後村においても植民社は馬を導入し、プラオ、ハローによる耕転を指導するため、試耕場(「棚」といい、旧国道沿の西11号先)を設け、洋式農具による馬耕技術を取得させました。
 植民社の初期の貸付馬は、道産馬(ドサンコ)が主であり、開墾が樹林帯のうちはハローのみの利用で、日常的には物資運搬に用いられました。明治30年代になり、入植者も増え、開墾の進歩と共に普通化され、馬も体格の優れた外来雑種に変わりました。

 明治27(1994)年~28(1995)年頃から江別太越後村の南部で、斉戸岩松は、日高方面から馬を運び専ら仲介業を営み、江別管内ばかりでなく、周辺村まで営業したため、地元の人たちの中にも馬への関心が高まっていきました。
 馬の稼働力が営農の成否に繋がり、競って優れた馬を求めました。
馬を失う時は、生産停止さえ意味しているとさえ言われ、特に農耕地が泥炭地に及ぶに従って、農作業の主役となっていました。
 また、大正初期には、西8号の南、斉戸の隣接で、帰山徳松が大規模な牧場を設けた他、西13号村界でも館川某が小規模ながら牧畜をしたことがありましたが、その成果については詳かではありません。

 大正11年、地元江別太の調査員が町に報告した資料によりますと、馬飼育頭数79頭(牡38、牝40)に達しており、いずれも雑種で濃耕馬49頭となっていました。濃耕馬の需要は、この後もますます増加し、昭和10年代の中期にはピークに達していました。20年代、若干減少のまま30年代の農業機械化の影響を受けるまでは、一農家当たり3~4頭も飼育され、馬は常に農家と共にありました。
 
 農耕馬がこのように重要な位置を占めた背景の一つには、馬耕機具の改良が大きく貢献しており、利用する農家の希望を直接受け、改良プラオやハローなどを生産提供した地元鉄工場の役割も大きかったようです。

(ご参考)当ブログ8月 4日(火)「樹林地帯からの開墾」
     当ブログ7月29日(火)「北海道指定文化財 野幌屯田兵第二中隊本部」
     当ブログ7月 1日(火)「榎本武揚 顕彰碑騎馬像」
     当ブログ6月26日(木)「移民扶助規則2」
     当ブログ6月24日(火)「石狩川沿岸」
     当ブログ6月23日(月)「北越植民社の開拓」

註:江別太開基百年記念事業協賛会 「江別太郷土史」72-74頁引用。
写真:江別市郷土資料館資料複写許可を得て掲載いたしております。

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