
昭和17(1942)年、文教地区の象徴的な存在である酪農学園大学の前身である機農学校が開校しました。
この7年後昭和24(1949)年7月には、各種学校・2年制の酪農学園大学部を開設しました。
学校教育法の改正に伴い、短期大学を設立できることとなったため、大学設置審議会の審査を経て、翌年4月、札幌短期大学、天使厚生短期大学、藤女子短期大学、北海短期大学などと共に開校しました。
全国で唯一の酪農学科(定員30名)で樋浦誠を学長に迎え、昭和35(1960)年4月には4年制大学を開学しました。
同大学は、「酪農の基本は教育から」を唱え、「神と人と土を愛する三愛主義」を信条としています。このため、広く全国の酪農家を対象とした通信教育や、夏・冬休みの出張講習にも力を注ぎました。
これらは、今日のエクステンション(学外)活動や地域貢献の先駆けをなしていました。
このうち短期大学の活動の一環として、昭和25(1950)年8月から始まりました「三愛塾」は、「無知からの解放」や「新しい村づくり」を主題に、夏冬休みの2週間、毎回70~80名の受講生を集めました。やがて受講修了生の組織「三愛友の会」が結成され、機関誌野発行など活発な活動を展開するようになりました。
「三愛塾」は、樋浦学長の退任(昭和39)年によって終止符が打たれましたが、その後も有志の手で続行されました。
やがて、「農業基本法」による農政の時代に入り、大規模化、機械化、省力化などの営農環境の変化に添い、酪農学科に加えて昭和38(1963)年には農業経済学科、翌年には獣医学科を新設しました。
なお、同学園は、野幌機農高校と三愛女子高校(昭和33年4月開校・現とわの森三愛高校)を西野幌の一画に擁し、それらが軌道に乗ったことが今日の文教都市の礎石となりました。
(参考)当ブログ2009年3月23日(月)「文教地区の形成」
当ブログ2009年3月16日(月)「文京台の誕生!」
註:江別市総務部「新江別市史」576-577頁.
写真;昭和40年代の三愛女子高校(現とわの森三愛高校)
「新江別市史」576ページ掲載写真を撮影掲載いたしております。
この7年後昭和24(1949)年7月には、各種学校・2年制の酪農学園大学部を開設しました。
学校教育法の改正に伴い、短期大学を設立できることとなったため、大学設置審議会の審査を経て、翌年4月、札幌短期大学、天使厚生短期大学、藤女子短期大学、北海短期大学などと共に開校しました。
全国で唯一の酪農学科(定員30名)で樋浦誠を学長に迎え、昭和35(1960)年4月には4年制大学を開学しました。
同大学は、「酪農の基本は教育から」を唱え、「神と人と土を愛する三愛主義」を信条としています。このため、広く全国の酪農家を対象とした通信教育や、夏・冬休みの出張講習にも力を注ぎました。
これらは、今日のエクステンション(学外)活動や地域貢献の先駆けをなしていました。
このうち短期大学の活動の一環として、昭和25(1950)年8月から始まりました「三愛塾」は、「無知からの解放」や「新しい村づくり」を主題に、夏冬休みの2週間、毎回70~80名の受講生を集めました。やがて受講修了生の組織「三愛友の会」が結成され、機関誌野発行など活発な活動を展開するようになりました。
「三愛塾」は、樋浦学長の退任(昭和39)年によって終止符が打たれましたが、その後も有志の手で続行されました。
やがて、「農業基本法」による農政の時代に入り、大規模化、機械化、省力化などの営農環境の変化に添い、酪農学科に加えて昭和38(1963)年には農業経済学科、翌年には獣医学科を新設しました。
なお、同学園は、野幌機農高校と三愛女子高校(昭和33年4月開校・現とわの森三愛高校)を西野幌の一画に擁し、それらが軌道に乗ったことが今日の文教都市の礎石となりました。
(参考)当ブログ2009年3月23日(月)「文教地区の形成」
当ブログ2009年3月16日(月)「文京台の誕生!」
註:江別市総務部「新江別市史」576-577頁.
写真;昭和40年代の三愛女子高校(現とわの森三愛高校)
「新江別市史」576ページ掲載写真を撮影掲載いたしております。
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