昭和37年8月3日早朝からの集中豪雨によって石狩川本流は、ふたたび大氾濫を起こしました。
これは、太平洋上を通過した台風9号の影響でした。
2日から4日までの総雨量は、札幌203ミリメートル、岩見沢212メートル、富良野170ミリメートル、旭川95ミリメートルを記録しました。
台風の中心から約200キロは慣れた石狩川上流部の旭川や雨竜川水系では比較的少なかったものの15キロの範囲内にある石狩川中・下流部は広範囲にわたり集中豪雨となり、石狩川本・支流は乱れに乱れました。
市域の石狩川は、3日早朝から1時間に10~30センチメートル増水しました。
4日午前7時には危険水位を突破、同日午後8時には前年7月水害を上回る7.59メートル(36年7.51メートル)に達しました.
そのたえ、本・支流の全てが氾濫、豊幌はまたも1~2メートルの水に没しました。
『4日夕方、石狩川の古川堤防より溢流が始まり、新幌向川も決壊し、中地区全戸、開拓地の大半が床上浸水の一望の泥海となりました。豊幌小学校も床上1~2メートルまで浸水、図書や教材や貴重なデータは総て廃失した』(部落史「豊幌」)。
5日、篠津運河月形頭首工の決壊で押し寄せた濁流は、美原、篠津地区一帯を襲い、前年同様、国道12号と国鉄函館本線も不通となりました。
4日午後8時をピークに、増水を続けていた石狩川もようやく減水に向かい、7日午後8時には警戒水位にまで戻りました。
しかし、長時間の浸水は、農作物に大きなダメージを与えました。
対雁の脇豊勝は、次のとおり日記にしるしています。
『ああ、夜に入りて益々烈しく大水だ。洪水だ。ああ、ナタネ、ホーレン草の発芽、困ったものだ』(8月3日)。
『大雨、1日通し、畑も住宅も、水、水、水・・・・・。刻々増水して二農場、小豆折角埋め返したのに、大半浸水。余りにも可哀想だと思う。気冴えぬ思いに、農機具の水掃除したり、堆肥場付近の草刈り・・・・・』(8月4日)。
特にひどかったのは、豊幌でした。
同地区は、石狩川上流のショートカットが進み、流速が増したたため堤防の嵩上げが必要となっていました。
また、34年から幌向原野の開発を促すため、治水対策と土地改良を兼ね、幌向川を夕張川に合流させる改修工事も行われていました。
ところが、37年8月水害では、石狩川本・支流の溢水に加え、築堤完成による盆状の地内に内水が溜まり、そのまま1~2週間も水が引かず、それが被害を増幅させました。
また、幌向川改修工事のため夕張川の堤防が切ってあったことが、被害に輪をかけました。
『わしら用水路の土地買収の時、堤防を切って洪水のとき大丈夫かって何度も念を押したじゃん。先に堤防を作ってからなら穴を掘ろうが、何を掘ろうとわしらはなんも文句はいわねぇ。しかし、これじゃ・・・・・』(昭和37年8月14日付北海道新聞)。
農民の怒りは、治水工事に向けられました。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」233-234頁.
写真:昭和37年8月水害(更迭函館本線冠水)
同上書234頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。