江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

農民の不安

2012年04月04日 | 歴史・文化

 古田島市政時代からの開発の促進は重要政策の筆頭に掲げられました。
この市の方針は、松川市政にも受け継がれていくことになりましたが、全てことが順風満帆に進んだわけではありませんでした。

 大事業であればこそ、事業区域内の農民の不安も少なくありませんでした。
それまで江別農業改良普及所でも『冷害に無縁ということで、江別は酪農で充分やれるんだと指導してきた。だから造田には最後まで強硬に反対した農民がいた』(元同所長赤坂敏郎)のも当然といえたのです。

 33年6月、美原開拓農業共同組合から議会に、「江別市美原開拓地造田計画に関する陳情が出されました。
 その要旨は、開田計画そのものに反対するものではありませんが、対象地が高位泥炭地であり、かつ有畜混合経営へあと一歩という段階であり、かつ負債整理がこれからという時でもあったことから、(1)造田客土反当り15立坪の投入、(2)造田の3カ年分割施行、(3)前記(1)と(2)が駄目な場合は、造田の一時延期を願う、というものでした。
 これが、同年12月議会において採択されるところとなり、市はその調整に当たることになりました。

 36年には、同じ美原の44戸が、畑をつぶしてまでも造田する必要はない、と造田反対期成会を結成、明渠、暗渠の排水事業だけは負担するが、その他は国営、道営を問わず一切負担には応じないと強硬でした。

 これらの人たちは、赤坂の言ではないが酪農経営で充分採算が立つとの自信がありました。にもかかわらず造田した場合、新たに莫大な借金が生じるのみならず、食糧事情の好転から全国的に食味が問題化しつつあるとき、泥炭地の米で対抗できるか、さらには『当時は手労働だったので、稲刈りや田植えの労働力の確保が心配』(森田正夫)など、造田後の明確な展望を描ききれなかったのです。

註:江別市総務部「えべつ昭和史」229-230頁.
写真:昭和34年5月第2代江別市長松川清
 同上書226頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。

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