コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

紳助引退騒動

2011-08-24 02:02:00 | 3・11大震災


暴力団と親密な交際があったことを理由に、島田紳助が引退するという。相撲取りの野球賭博でも、暴力団が関与しその資金源になったと非難され、場所中止にまで追い込まれた。ならば東電は、百回、千回、潰さなければならない。数十年以上も原発労働者の口入れに暴力団を利用し、莫大なピンハネをさせて、彼らの資金源になってきたのだから。

(敬称略)
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完璧な原発文

2011-08-24 01:26:00 | 3・11大震災
4月某日

 最近の原発事故隠し、保険金未払い騒
動などをみていると日本人の多くが、ガ
サツ、いい加減になったと判る。
 原子力発電所とは、原爆の次に、あた
りを荒廃せしめる危険をはらむ施設。
 原爆は一瞬、原子力発電所は一生。
 エネルギーのない島国にとって原発の
存在は当然であろう。しかし、安全確保
には金がかかる。
 原発はまことに危険だ。なおコスト高。
 我々の電力は原子力発電に支えられて
いる。電力を使っている以上文句は言え
ない。そして、世間一般は危機管理がゆ
き届き、非常事態など起こるわけがない
と信じ込んでいる。そもそも原発の仕組
みについて知ろうともしない。
 原発に関する事故隠し、未来に対する
犯罪だ。


この文は、今年4月に書かれたものではない。4年前の平成19年(2007年)月刊誌「新潮45」6月号、連載第3回「だまし庵日記」(野坂昭如)中の一文である。野坂昭如は2003年に脳梗塞に倒れ、長いリハビリ生活にあると聞く。

後遺症と回復状態については不明だが、改行なしに続く独特の文体やさんみ(ひがみ・そねみ・ねたみ)の視点から世間を撃つ、かつてのエッセイの切れ味を知る読者なら、この日記はたぶん暘子夫人による口述筆記であり、その口述も相当思うにまかせないのだろうと推測できる。

率直にいって、見る影もない。が、「炭鉱のカナリア」としての作家の直感や予見は、その口述ほどには衰えていないことが、この原発文から充分にうかがい知ることができる。4年前としてはもちろん、4年後の現在においても、完璧な文章といえないだろうか。

(敬称略)


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はじめての金井美恵子

2011-08-23 00:03:00 | ブックオフ本


ブックオフではなく町の古本屋がおもしろいのは、特価本コーナーにあきらかに誰かの本棚の一角が並ぶところだ。持ち主が亡くなったか、引っ越したのか、あるいは介護をするとか受けるとか、何か室内を整理する必要が起きたためか。さまざまな推測ができるが、一人の本読みから売り払われたと思える、傾向の定まった本のまとまりを100円コーナーに見つけることがある。

『チャタレー夫人の恋人』の英日対訳本(これは買った)やサドの『悪徳の栄え』、『O嬢の物語』といった官能小説の古典ばかりが黄ばんだ背表紙をみせたり、廣松渉や黒田寛一といった書き込みが目立つ左翼本がかたまっていたり、保存のよい角川春樹の句集や斉藤茂吉の随筆がならんでいたりする。

蔵書というより、一度は読み込んだことのある愛読書、そんな手垢のついたどこか懐かしい佇まいがあって、未知の著者や分野なのに、つい手にとって頁をめくってみたり、たぶん読まないだろうなと思いつつ、ふと買ってしまったりする。そういうことって、ありませんか?

目白雑録』『目白雑録 2』(金井 美恵子 朝日新聞社)もそんな一冊だった(すでに3が出ている)。ほかに名前だけは知っている女流作家の小説が数冊いっしょにあり、珍しく中年女性の本棚の一隅から引っ越してきたようだった。

書名には、「ひびのあれこれ」とルビが振ってあり、なんと売る気のない手抜きのタイトルかと呆れたが、少し立ち読みすると、「日日(ひび)」ではなく著者が住む豊島区「目白(めじろ)」だった。「日日」と「目白」はちょっと見、同じ字にみえる。大岡昇平の「成城だより」を踏まえて、しかし、「目白雑録(めじろざつろく)」ではなく、混同しやすい「日日」と「目白」をあえてかけ合わせ、「目白雑録(ひびのあれこれ)」と読ますわけで、手抜きどころか、なかなか凝った書名だとわかる。

もしかすると、「あ、なるほどね」と表紙を眺め直させることで、その美しい装丁に気づかせる仕掛けなのかもしれない。ピンクの地に、ワインのコルク栓や赤の毛糸、小さな人形、小鳥、木の枝、木の実、麻布などが配置されたタブローの写真が表紙になっている(2の巻だ)。ちょっと変わっているけれど、可愛いらしい「あれこれ」。そんなほのぼのとした身辺雑記という内容では、まったくないのだが。

辛口とか、めった斬りとか、あるいは辛辣といえば、著者から、「バカ」「陳腐」と悪口されることは間違いない。悪意のない率直さとでもいおうか。時事トピックも扱っているが、「文壇」や「書評」批判が多い。石原慎太郎や島田雅彦や村上龍、文芸評論家の誰それや政治学者その他を実名をあげて批判しているのに、ちょっとびっくりする。

インターネットの出現によって、匿名で悪口なら誰でも書けるようになった。ときには実名でも書けるだろう。しかし、それなりの有名性がある人が、実名をあげて批判はなかなか書けないものだ。それも自らが属する業界の人々について、朝日新聞社発行の「一冊の本」という書籍情報誌の誌面を借りては。

小説家・金井美恵子の名は知っていたが、その小説は読んだこともなく、エッセイもこの本がはじめてだった。改行が少なく長々と続くというところが似ているだけでなく、どこか野坂昭如のエッセイを思わせる。ちなみに貶すとは反対に、金井美恵子が褒めている、ないしは認めている人たちをあげてみると。

その野坂昭如、深沢七郎、蓮見重彦、中上健次、映画監督では成瀬 巳喜男、マキノ雅弘、田壮壮など。海外の映画監督では、ジョン・フォードを高く評価しているらしく、またサイレント映画の監督やドキュメンタリ映画監督など、俺の知らない映画や監督の話題も頻出するが、その率直で確信的な口調に、観てみたい気分がそそられもする。

俺はその映画が観たくなる感想文や批評がいちばん正しい書き方だと思っている。だから、金井美恵子はいいです。しかし、この人、自分の作品を褒めた書評にも、「まるで、読めていない」と容赦なく噛みついている。

(敬称略)
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さあ、明日から盆明けだ

2011-08-16 22:18:00 | 音楽
ロックファンではないのですが、FREDDIE MERCURY の歌を聴くと元気が出ます。










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アレッ ?! について

2011-08-15 14:28:00 | ノンジャンル


昨日14日のTVニュースを観ていて、「アレッ ?!」と思った。その前に一言すると、天皇制について、俺には特段の考えはない。親と反、いずれでもない、それだけはわかっているくらい。ついでにいえば、いわゆる「日の丸・君が代問題」についても同様で、この問題が教育の場で争われるのは、「教育上よろしくない」と思っている程度だ。つまり、これらについて、俺にはさしたる定見や信条はない、それを前提として、「アレッ ?!」について、少し書くわけだ。

天皇、皇后両陛下が映画「ロック」ご鑑賞
http://www.sanspo.com/geino/news/110813/gnj1108130501000-n1.htm

さて、天皇、皇后両陛下が三宅島大噴火と被災をテーマとした映画「ロック」を鑑賞した。そのTVニュースの流れは、記憶をたどればこうだった。劇場入口近くで両陛下をお迎えする出演俳優たちや犬のロックに、天皇陛下から皇后陛下の順番で、にこやかにお言葉をかけられる。おなじみの映像の後、画面が切り替わってから、「アレッ ?!」がきた。ちなみに今朝から昼までのTVニュースでは、この「アレッ ?!」はなかった(もちろん、全部のTVニュースをチェックしたわけではないが)。

公開中の映画を両陛下が鑑賞する場合、一般の観客といっしょに観るのかどうか、一般の観客を避けて別な上映時間を設けるのか、あるいはその折衷案として、一般客も入れるが、両陛下の席の近辺だけ、警備を含めた関係者で席を占めるのか、もちろん、俺にはわからない。が、たぶん、最後だろうと思う。というのは、両陛下が着席されるとき、その画面に一緒に画面に映ったのが、すべて中年男性ばかりで、すべてダークスーツにネクタイ姿だったからだ。

お盆休みの真っ最中、この炎暑の日中に、スーツの上下にネクタイまで締めて、劇映画を観にいく人が、たとえ一人でもいるとは考えられない。両陛下の着席が映されたとき、ちょっと見、20人近くのスーツネクタイ男が画面に入っていた。席に付かれる両陛下を前から撮っていたから、両陛下の後ろから、カメラなど報道陣の姿を見返している視線も、いくつかあった。「アレッ ?!」はここで起きた。

ちょっと巻き戻すと、両陛下が少し前屈み横歩きに座席へ歩き、着席されるまで、スーツネクタイ男たち全員は、座ったままだった。誰一人、立ち上がって、お迎えする姿はなかった。スーツにネクタイと、真夏に威儀を正している風なのに、座ったままだった。この男たちは、いったい何者なのか。たまたま同席してしまった一般客なのか。自分の財布から金を出して、前売り券や入場券を買い求め、三宅島大噴火にみまわれた犬と島民の感動の物語を観にきたのか。そうではあるまい。

もし、俺が一般客としてまぎれこんでいたとしたら、どうしていただろうか。たぶん、短パンにTシャツ姿だろうが、気がつけばすぐに立ち上がり、両陛下が席に付いたのを確認してから、また座ることだろう。そうしない人がいても別に気にしないが、それくらいは国民統合の象徴である人への礼儀だと思うからだ。かといって、席を立たない人を非礼だと咎める気持ちはない。席を立たない人も国民の内に含んで、統合の象徴だからだ。

いや、国民統合の象徴云々は、見栄を張って嘘を云ったような気がする。それほど深くは考えていないし、考えたいわけでもない。反射神経のひとつのようなものかもしれない。たとえ、入場してきたのが、菅首相一行であろうと、同様な趣旨の公務であれば、俺は席を立って迎えることにやぶさかではない。イギリスのエリザベス女王やアメリカのオバマ大統領、韓国や中国の元首であっても、俺は席を立って迎えるだろう。

それが一般人としての態度と姿勢であり、だからこそ一般人なのだろうと思う。映画館で席に座ったまま、両陛下が着席するのを眺めていた、スーツの上下にネクタイまで締めた男たちは、だからこそ、一般人ではないと思えるのだ。一般人でなければ、いったい何者なのか。何者でもないのかもしれない。スーツネクタイ男たちは、何者でもないように、そこにいて、何者でもないかのように、ふるまった。

ご高齢にくわえご病気を抱えているのにもかかわらず、この間、3.11被災各地の慰問を精力的にこなし、国民が忘れつつある三宅島大噴火被災の三宅島島民を激励するために、映画館に出向かれた天皇皇后両陛下に対して、立ち上がってお迎えしてから座る、そのわずか数分の敬意やいたわりすら示さない。いったい、この男たちは何者なのか。何者でもない、名前も顔もない者たちだ。

これは比喩ではない。影のようなその輪郭をかいま見せたのは、14日のTVニュースの一瞬だった。今日15日のニュース番組でも、両陛下の映画鑑賞は報じられているが、両陛下がすでに着席している場面しか映されていなかった。「アレッ ?!」は、なかった。すでに消されていた。ならば、「アレッ ?!」を消した、何者でもない、名前も顔もない者がいるのである。
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