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死刑

2006-03-18 13:10:17 | ノンジャンル
死刑には復讐の代行という側面があるのは自明です。

民主主義が排除の論理を持つのは自明であり、それが法治です。
「吊してしまえ!」という「国民感情」の暴走を食い止める手段は法とその手続きにしかないのです。被害者に代わって「復讐」する権利は国家権力にしか許されていません。だからこそ、「推定無罪」が前提となり得るのです。一方、排除の論理を持たないのが全体主義です。国家総動員体制というやつです。この甘美な罠に捕らわれないために、冷徹な法執行が求められているのです。安田好弘弁護士の法廷戦術がその冷徹において遺族の憤激を招こうと、法手続的には間違っていないようです。遺族は遺族に過ぎないのであって、まずその権利を守られるべきはこの場合、被告であることは自明です。いかに鬼畜に等しい所業をなし、改悛とはほど遠い気持ちを持ち続けていようと。そして、そうした一切を認めず、個人的な復讐を晴らす場合、それは法の埒外のことになります。排除の論理を自ら選びとることも、実際にはできます。それでは是非の問題ではなくなります。法治とは是非の判断を国家に委ねることであり、それを斥けるのは一般に反社会的な行為となります。そして、個人的な復讐を果たした個人という問題に留まらないと、排除の論理が発動されます。振り出しに戻ります。
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