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アバターとイングロリアス・バスターズ

2010-05-25 01:33:00 | レンタルDVD映画


スーパーマンやバットマン、スパイダーマンなどのアメリカンコミックスをご覧になったことがあるだろうか。ディズニーのアニメは素晴らしいのに、紙に印刷されたアメリカンコミックスは、日本の劇画の繊細な筆づかいと緻密な構成に慣れた眼には、まるで出来の悪い紙芝居にしか見えない。「アバター」と「イングロリアス・バスターズ」はどちらも、そんなアメリカンコミックスに肌触りが似ていた。

<例によってあらすじに触れますので、未見の人は、この先を読まないことをお勧めします>

「アバター」から、誰でも西部劇のインディアンとジャングルのターザンを思い出すだろう。自然崇拝のインディアンを率いたターザンが、資源簒奪を狙う悪い白人を斥けるわけだが、かつての西部劇映画やターザン映画の引用やオマージュは欠片もない。

「イングロリアス・バスターズ」はもちろん、「ゴーストバスターズ」を下敷きにしている。ヒトラーやゲッペルス、ゲーリングを怪獣にした怪獣退治映画ともいえる。ウド・キアみたいな冷酷狂気のナチ将校がよく登場した、かつてのB級ナチ映画へパロディでもない。

「アバター」や「イングロリアス・バスターズ」が観たい観客に、「アバター」や「イングロリアス・バスターズ」をつくって観せた。それ以上でも以下でもない、冷徹なマーケティングリサーチとその分析の所産のように思えた。



たとえば、映画ファンドの敏腕ファンドマネージャーが、リサーチャーに周到なマーケティングリサーチを命じ、コンセプトワークのミーティングを重ね、過去のヒット作品の要素を詰め込み、キャラクターデザインを発注して、「映画屋」に下げ渡された。

そんな想像を抑えきれない。映画の製作者や監督、撮影、美術、特殊効果、編集といった「映画人」は、そこでははるか下流に位置して、ハリウッドや映画産業などの商業主義とはまったく別なインセンティブが働いている気がする。

端的にいえば、映画の商品価値を限りなく低めることで成り立つ、コンテンツビジネスといったものではないか。映画作品というコンテンツを中心とした関連商品を統合したビジネスではなく、コンテンツビジネスモデルの確立こそが目的ではないか。

ファンドマネージャーが制作側のトップに立つような金融ビジネスであれば、その企画書に盛り込まれたのは、映画のためにいかに金を使うか、あるいは観客をいかに楽しませるかというアイデアではなく、いかに巨額の金を集めるかというアイデアだったはずだ。

そして金融ビジネスの要諦は、いくら儲かるかというリターンより、けっして損はしないというリスク管理にある。大儲けはしてもわずかな損すらしたくないという投資家の強欲に奉仕するためには、バクチのような映画のヒットを当てにすることはできない。

コンテンツとは中味といわれるが、コンテンツビジネスとは、その周辺と派生によって儲けるものだ。好きとか面白いとかいった観客の評価を得て、映画ビジネスは完結するが、好きとか面白いという評判によって、映画コンテンツビジネスは成り立つ。

映画の評価は観客それぞれの主観だが、それに先んじて映画の評判はつくることができる。作られてしまった一本の映画とその関連商品の関係を転倒させて、関連情報と関連商品を映画公開に先んじて準備展開できれば、コンテンツビジネスは勝利する。

少なくとも、現代の映画観客は、映画館の暗闇で2時間の映像体験に身を浸らせるというだけの受容をすでにしていない。各種のイベントやキャラクターグッズの販売、トリビアな話題や知識の消費など、コンテンツビジネスとして映画を楽しむ習慣に親しんでいる。

そうした多角的で多様な楽しみかたができるコンテンツとは、むしろ空虚であればあるほどよい。作家性や芸術性、社会性に突出した映画は、多角的で多様な楽しみかたを許さない。中味が空虚であれば、デコボコや角のない同心円を形作ることができる。

その同心円には金が詰まっている。最大の利益と最小のリスクがそこで管理される。それを彼らは、娯楽とするのである。ようやく、ここにきて、こういうことができる。「アバター」や「イングロリアス・バスターズ」は、バカのための映画であると。

いや、それはもはや映画ではないかもしれない。コンテンツビジネスのあらゆる分野と諸相に、娯楽という「アバター(化身)」を配して、映画を侵食していくものに思える。映画を裏切る映画の化身として、観客の間に入り込み、その頭の皮を剥ぐ、イングロリアス・バスターズ(不名誉な野郎ども)である。

ただし、映画のコンテンツビジネスモデルは、まだ途上だろう。「アバター」や「イングロリアス・バスターズ」は、モデルとしては試作品ではないかと思う。アカデミー賞を権威と思ったことはないが、この2作が最有力候補に上がりながら、主要な賞を与えなかったハリウッドの見識は認めたい。

さて、「イングロリアス・バスターズ」の歴史改竄には、俺も驚いた。ヒトラーについてではない。いまさら、フランスを連合軍側のように描いたことだ。かつてのB級ナチ映画ならともかく、今日では、フランスがビシー政権によって、はっきりと枢軸国側に属したのは常識であるし、国内のユダヤ人排斥について、ナチスドイツに積極的に協力したことも明らかになっている。

「イングロリアス・バスターズ」によって、俺のタランティーノ評価は、北野たけし並みに下落したが、それでも「映画オタク」タランティーノは、驚くべきレジスタンスのシーンをつくっている。膨大な映画のフィルムによって、映画館を炎上させる、あのクライマックスである。俺の記憶する限り、このシーンの引用元となる映画作品はないだろう。

やがて炎に包まれる映画館で上映されているのは、ナチスのプロパガンダ戦争映画である。ドイツの狙撃兵が次々にアメリカの将兵を狙撃していく陰惨なシーンに、ヒトラーやゲッペルス、ゲーリングが腹を抱えて笑い転げている。その映画館が建つのは、ハリウッドと並ぶ、映画の都であったフランスはパリである。タランティーノは、自らの映画の中で、自らのクソを焼いたのである。



ただし、SSのランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)が出ずっぱりという扱いをみるとき、「イングロリアス・バスターズ」は、「アバター」のような映画づくりへのアンチと読むこともできる。ランダ大佐はナチスを裏切るだけでなく、戦争をも裏切る。金と保身しか眼中にないランダ大佐は、つまり戦争以上の悪なのである。逆にいえば、「イングロリアス・バスターズ」は、戦争を絶対悪としては描いていない。

好戦的であろうと、反戦的であろうと、戦争が絶対悪であることは、疑いようのない真理として、少なくとも映画のなかでは描かれてきた。さすがに、タランティーノは、初めてつくる戦争映画にそんな不自由な枷ははめなかった。戦争という時と場所と人(人々)を限定した悪ではなく、普遍的な、あるいは偏在する悪の一表現として戦争があり、悪を糧として生き残ろうとするランダ大佐がいる。

そして、そうしたランダ大佐によって、たぶん戦争は終結し、世界に平和がもたらされる。戦争を裏切ったランダ大佐は、「平和の使徒」と呼ばれることを期待する。戦争や平和は、見かけに過ぎないわけだ。クリストフ・ヴァルツの長広舌に、世界を覆う詭弁と詐術を代表させて、戦争映画というジャンルを無効化するのを狙ったようにも思える。そう考えれば、タランティーノは、映画のための映画という、自らのレゾンデートルを守ったともいえる。

(敬称略)

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