私は貧乏人のことは、かなり知っています。学校の成績が芳しくない少年についても、よくわかるつもりです。しかし、その逆についてはよくわかりません。
したがって、裕福な家庭に育ち、日本有数の進学校でも優等生をとおした豊田真由子さんがどうして、今回のような暴言や暴行を繰り返すようになったのか、まるで見当がつきません。
それでも、「親友」という田中絵里緒さんの「豊田真由子さんとの関わり」を読んだおかげで、少し理解の糸口が見えたような気がします。
豊田真由子さんと私の関わり
https://www.facebook.com/note.php?note_id=10155518526459066
一読すればわかるはずですが、これはかなり難解な文章です。異様といってもよい。豊田真由子さん擁護を目的として書かれたようでいて、自分への言及が多いというちぐはぐさが目立つが、それは自己顕示欲からもたらされたものばかりではなさそうです。
東大受験をめざす10代の真由子さんを回想しているというより、ほとんど絵里緒さんもそこへ立ち戻っているようです。40歳を越えてなお、「名門校のガリ勉優等生」だった「自分たち」への総括がほとんど「現在形」であることに驚きます。
それほど、当時の家庭や学校での抑圧感は大きく重く、いまもその軛(くびき)から脱していないのでしょう。「先生や親に褒められたい」から良い成績をとるというのは、そう安易に聞き流してよいものではありません。他人の顔色をみて勉強や仕事をすることは、一種の病いに近いものです。
「子どもの仕事は勉強でしょ」という言葉を不思議に思わないほど、日本の進学校における勉強とは、子どもにとって苦役にほかならない仕事になっています。つまり、歪んだ受験勉強が歪んだ仕事観を植え付けていくという負の連鎖のはじまりといえます。
大げさといわれるかもしれないが、それは個人にとって、かなり重大な障害を内に抱え込むことであることに、田中絵里緒さんの文章を読んであらためて気づかされました。私も似たようなところがあるからです。
両親が不仲であったために、「人の顔色をうかがい、いち早く読む」ことに長けた子どもでした。おかげで、たとえば仕事上でいろいろ選択する場面において、その仕事の目的や意義より、人からどう思われるかを先に考える傾向を自覚しています。
閑話休題、それはさておき。田中絵里緒さんの回想する親友・真由子との青春の日々は、読みようによってはかなり悲惨なものです。「周囲から褒められたい」という欲望が己への自信のなさや劣等感から生まれていると自覚し、その反動から「男にモテたい」活動に繰り出すが、それもほとんど受験勉強への取り組みと選ぶところがないのです。
男性という異性への好奇心やその肉感的な刺激とか、あるいはセックスへの憧れや渇望といった身体性がみごとに欠落していて、ドリル問題を解くように「男にモテたい」活動にいそしむのです。一言でいえば、発達障害であり、いまも成熟していない。絵里緒さんの文章を読む限りではそう印象づけられます。
率直にいって、なんと気の毒なという同情の念を禁じ得ませんでした。たとえ裕福な家庭に育ち抜群に勉強ができて、世間でいうエリートコースを歩んだとしても、その恵まれた環境こそ心身の発達を妨げ、生涯の心の傷になることもあるのだなという感想です。
豊田真由子さんについても同情すべき点はあります。豊田さんの件を聞きつけた自民党の河村元官房長官が、「女だから騒がれるが、男ならよくあること」と云ったそうです。「男なら」誰でも「そうだろうな」と思わないといえばウソになるでしょう。
一般的に、上司や立場の上の者から、暴言を浴びせかけられたり、暴力を振るわれるのはそう珍しいことではありません。男が圧倒的に多数を占める政界なら、「議員先生と秘書」なら、さもありなんでしょう。
伊丹十三の映画「マルサの女2」では、マルサの花村(津川雅彦)の人情話に乗せられて、猿渡代議士(小松方正)がつい口を滑らせたことに激怒した、派閥のボス漆原(中村竹弥)は土下座して詫びる猿渡を怒鳴りながら、何度も蹴り上げていました。どちらも、たぶん60歳、70歳を越えた折檻に政界の闇と裏が活写されていました。
政界では、よく「雑巾がけから始めろ」といいます。地味な下働きの仕事を積み上げて、派閥や政治を学べという意味ですが、文字どおり、派閥ボスの自宅の廊下を雑巾がけしながら、「先生」の帰宅を待ちかまえ、取り入った「議員先生」もいるそうです。
そんな政界で、「褒められたい」という過剰な適応性を身につけていれば、「朱に交われば赤くなる」わけで、政界という異常な男社会の慣行に、豊田真由子さんもたぶんに影響されたのではないかという憶測も拭えないのです。
しかし、この件で、いちばん気の毒なのは、豊田真由子さんの学齢期のお子さんたちです。今後、どれほどイジメに遭うか。それだけが気がかりです。
(敬称略した個所もあり)
したがって、裕福な家庭に育ち、日本有数の進学校でも優等生をとおした豊田真由子さんがどうして、今回のような暴言や暴行を繰り返すようになったのか、まるで見当がつきません。
それでも、「親友」という田中絵里緒さんの「豊田真由子さんとの関わり」を読んだおかげで、少し理解の糸口が見えたような気がします。
豊田真由子さんと私の関わり
https://www.facebook.com/note.php?note_id=10155518526459066
一読すればわかるはずですが、これはかなり難解な文章です。異様といってもよい。豊田真由子さん擁護を目的として書かれたようでいて、自分への言及が多いというちぐはぐさが目立つが、それは自己顕示欲からもたらされたものばかりではなさそうです。
東大受験をめざす10代の真由子さんを回想しているというより、ほとんど絵里緒さんもそこへ立ち戻っているようです。40歳を越えてなお、「名門校のガリ勉優等生」だった「自分たち」への総括がほとんど「現在形」であることに驚きます。
それほど、当時の家庭や学校での抑圧感は大きく重く、いまもその軛(くびき)から脱していないのでしょう。「先生や親に褒められたい」から良い成績をとるというのは、そう安易に聞き流してよいものではありません。他人の顔色をみて勉強や仕事をすることは、一種の病いに近いものです。
「子どもの仕事は勉強でしょ」という言葉を不思議に思わないほど、日本の進学校における勉強とは、子どもにとって苦役にほかならない仕事になっています。つまり、歪んだ受験勉強が歪んだ仕事観を植え付けていくという負の連鎖のはじまりといえます。
大げさといわれるかもしれないが、それは個人にとって、かなり重大な障害を内に抱え込むことであることに、田中絵里緒さんの文章を読んであらためて気づかされました。私も似たようなところがあるからです。
両親が不仲であったために、「人の顔色をうかがい、いち早く読む」ことに長けた子どもでした。おかげで、たとえば仕事上でいろいろ選択する場面において、その仕事の目的や意義より、人からどう思われるかを先に考える傾向を自覚しています。
閑話休題、それはさておき。田中絵里緒さんの回想する親友・真由子との青春の日々は、読みようによってはかなり悲惨なものです。「周囲から褒められたい」という欲望が己への自信のなさや劣等感から生まれていると自覚し、その反動から「男にモテたい」活動に繰り出すが、それもほとんど受験勉強への取り組みと選ぶところがないのです。
男性という異性への好奇心やその肉感的な刺激とか、あるいはセックスへの憧れや渇望といった身体性がみごとに欠落していて、ドリル問題を解くように「男にモテたい」活動にいそしむのです。一言でいえば、発達障害であり、いまも成熟していない。絵里緒さんの文章を読む限りではそう印象づけられます。
率直にいって、なんと気の毒なという同情の念を禁じ得ませんでした。たとえ裕福な家庭に育ち抜群に勉強ができて、世間でいうエリートコースを歩んだとしても、その恵まれた環境こそ心身の発達を妨げ、生涯の心の傷になることもあるのだなという感想です。
豊田真由子さんについても同情すべき点はあります。豊田さんの件を聞きつけた自民党の河村元官房長官が、「女だから騒がれるが、男ならよくあること」と云ったそうです。「男なら」誰でも「そうだろうな」と思わないといえばウソになるでしょう。
一般的に、上司や立場の上の者から、暴言を浴びせかけられたり、暴力を振るわれるのはそう珍しいことではありません。男が圧倒的に多数を占める政界なら、「議員先生と秘書」なら、さもありなんでしょう。
伊丹十三の映画「マルサの女2」では、マルサの花村(津川雅彦)の人情話に乗せられて、猿渡代議士(小松方正)がつい口を滑らせたことに激怒した、派閥のボス漆原(中村竹弥)は土下座して詫びる猿渡を怒鳴りながら、何度も蹴り上げていました。どちらも、たぶん60歳、70歳を越えた折檻に政界の闇と裏が活写されていました。
政界では、よく「雑巾がけから始めろ」といいます。地味な下働きの仕事を積み上げて、派閥や政治を学べという意味ですが、文字どおり、派閥ボスの自宅の廊下を雑巾がけしながら、「先生」の帰宅を待ちかまえ、取り入った「議員先生」もいるそうです。
そんな政界で、「褒められたい」という過剰な適応性を身につけていれば、「朱に交われば赤くなる」わけで、政界という異常な男社会の慣行に、豊田真由子さんもたぶんに影響されたのではないかという憶測も拭えないのです。
しかし、この件で、いちばん気の毒なのは、豊田真由子さんの学齢期のお子さんたちです。今後、どれほどイジメに遭うか。それだけが気がかりです。
(敬称略した個所もあり)
グロテスクなのに薄明るい、何かが過剰なのに、何かが決定的に欠けている。欠けているものが何なのか、身体性なのか何なのか僕にはよくわかりませんが、豊田真由子さんの心の有り様は多分コタツさんよりもう少しだけわかる。自分の心の有り様にも近いものが少しあるということです。この人に近づきたいとは思いませんが。
園遊会の件、同伴者は配偶者に限るっていうのは、鹿鳴館時代の遺制で、今の時代にはそぐわなくなってるって感じもするんで、同情の余地はあるかなって思ってました。それも悪質なクレーマーってだけで、犯罪というほどじゃない。
秘書への暴行もとりわけ悪質なクラッシャー上司だっていうだけで、犯罪との線引きはやや曖昧。
犯罪であることがほぼはっきりしている山口某の件の方がよっぽど問題だとは思います。
ともあれ、豊田真由子さんは療養なさった後、政治家みたいなドロドロな職業はやめて、心を静かにできるようなセカンドチャンスをお求めになってほしいと思います。人間はそう簡単に変われるものではないので、この人を見かけたら全力で走って逃げるという方針に変わりはありませんが。
Sさんが?してますが、創作もしくは脚色だとしたら、たいした文芸です。自己申告に過ぎないのに、私たち読み手は真由子・絵里緒を一卵性双生児のように読んでいるのですから。
しかし、そうではなく、絵里緒さんは率直かつ理路整然と書いたつもりなのでしょう。ただ、その率直さと理路が独特なので、私たちには受け入れがたいわけです。露悪的というのとも違うし。
東大法学部まで出た42歳のおばさんながら、ヤング女性誌に投稿した女子高校生のような通俗な文体と未成熟な自己認識が相まって、どこまでも広がる空虚な内面が浮かび上がってくるのです。
「私の心は空虚に占められていた」と書く文芸は、泣きながら裸足で逃げていくしかありません。
「犯罪」についてですが、これ、豊田真夫さんなら、即逮捕ですよ。
それはともかく、学校生活においてつねに劣等生として明るく元気に過ごしてきた私にとって、「歪んだ受験教育」ってどこかピンと来ないまま、わかったふりをしてきたところがありました。やっぱり、わかっていなかったということがわかりました。有名進学校って、優等生ばかり集まるところだから、リベラルで自由な教育や校風が一般的だと思ってきました。桜陰がどういう学校か知らないが、菊川怜も中高の出身者だそうです。彼女の個人的エピソードをひとつ知っていますが、やはりどこか変なんですね。
男子校とか、男女共学の名門進学校はそうだと思います。そんなにたくさんの学校を知ってるわけではないですが。
ところが、女子校や、特進クラス設けて、最近になって進路指導に力入れてる学校とかは、そうでもないようなんですね、これは、さらに少数の学校の少数の事例しか知らないので断言できませんが。
いずれにしろ、犯罪云々も含めて、日本社会のあり方とか、それに含まれるジェンダーの問題が関わっていると思えます。
続きがあれば、掲示板の方に書きます。