『ドライブマイカー』を読んだ。海外の評価が高い映画の原作だから読んだ。映画の方は感心しなかった。中途で観るのを止めたくらい。無機質な空間に抽象的な人間が登場して観念的なセリフを述べるという映像作品は、肌に合わない。村上春樹の原作を読んでみて、そうした点ではかなり忠実な映画であることがわかった。
小説の方は中途で止めず読了したのは、小一時間もあればじゅうぶんな短編という条件の違いもあっただろうが、ステレオタイプな登場人物がいかにもありそうな会話に終始するという「無機質な空間に抽象的な人間」への違和感がなぜか反発に転じなかったのは、映画の場合は海外の評価を当て込んだ興行的なアプローチによるものと受け止めたのに比べ、小説では通俗的アプローチの底に淀んだ人間性への視線が感じられたからだろうと思う。
女性ドライバーの好ましい描写とコキュに対する「たいした人間じゃない」という判断に、誰しも「相棒」への友情とコキュに対する主人公の劣情を垣間見るだろう。村上春樹が前書きで述べているように、「女のいない男たち」というモチーフの連作小説という所以である。ここでは女性は評価の対象に過ぎないが、コキュに対してはその瞳や所作動作、感情の動きまで細かにホモソーシャルなまでに観察している。
妻とコキュとの情事を想像する場合にも、妻の放姿な肢体よりもコキュのそれを味わっているかのような、貧相な容貌と卑小な体躯からの憧憬が感じられる。女性から評価は得られるが、それ以上のことはけっしてない敗北感も横たわる。女性との間では、評価の交換が行われるだけだから、女性は出てこないに等しい。
対して、主人公とコキュとの間には、たがいの劣情だけがある。コキュは浮気妻に対するその美貌や業界的な地位への傾きという劣情が。主人公は浮気妻を通してコキュにほとんど肉感的なほど劣情を催し、それを隠して「友情」まで育もうとした。「たいした人間じゃない」という侮蔑は、コキュに向けてだけではなく、自らへの呟きでもある。
たびたび浮気をする妻を放置するほどじつは関心がない。そんな理解し難い自分をコキュに会わせてみたものの、何の感情も起きない。車窓を流れる風景のように、とらえどころがなく過ぎ去っていく、存在ともいえない何も覚えない空虚な人間。それをはたして人間と呼べるだろうか。人間の手がかりを与えない、そんな小説かなと思った。
。なんとかボーイズの決め台詞を思い出した。「金も要らなきゃ女も要らぬ、わたしゃも少し背が欲しい~♪」
(止め)