コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

NHK静岡放送局 三浦記者の追及と批判

2020-07-24 11:01:00 | 政治
令和2年7月7日(火) 静岡市長定例記者会見 NHK静岡放送局


20:50~三浦記者の田辺信宏静岡市長への質疑がはじまります。

矛盾があったら追及するという姿勢の人もいるが、あなたの会社はそういう体質じゃないだろう。僕は何々さんとは友だちだよ。何々さんはいま本部の幹部だよ。チェックが甘いといわないといけないことになる。組織のなかでやりたいことができなくなるリスクがあるよ。追及する批判するスタイルでやりたいならフリーになったほうがいい。

と市長はおっしゃいました。

ご自身の権力や人脈を誇示して職を失わせると脅すことで、ご自分の都合の悪いものを抑え込もうとなさる姿勢は、お互いを尊重するという姿勢と合致するのでしょうか。


(施策や説明に)矛盾があれば追及し批判をするのは、NHKの「体質」じゃないと市長は指摘しています。なるほど、かつて籾井NHK会長が、いかにも心外そうに、「政府のいうことに反対するわけにはいかないでしょ」と発言したように、近年のNHKの「報道」とはそのようなものです。

補足すれば、NHKが標榜する「不偏不党」「中立公正」の報道姿勢とは、矛盾を追及したり批判する野党や市民に「偏らず」、彼らから「中立を保ち」、「公を正しい」と広報するというものです。田辺市長は事実として間違ったことはいっていません。

また、ここで市長が「体質」という言葉を選んでいることに注目します。体質とは、<生まれながらにもっている体の性質のこと。遺伝的素因と環境要因との相互 作用によって形成される、個々人の総合的な性質>のことです。

アレルギー体質かどうかチェックする、アレルゲンを避けるために食品の含有内容をチェックする、などの「チェック」という言葉も併せて使っていますから、たまたまその場で口をついて出たのではなく、市長が常日頃、思い考えていた認識なのでしょう。

したがって、ここではNHKの「体質」にとどまらず、日本の組織の「体質」と読むこともできます。であればこそ、田辺市長は「人生の先輩」として、自身の「経験と見識」をもって、年若い三浦記者に、組織の「体質」と合わないと「チェック」されて、「排除」されてしまうぞと「相手のことを思って」話したのでしょう。

けっして、「脅し」や「パワハラ」などではなく、若く優秀な記者へ心からの忠告であり、百歩譲っても懐柔策のひとつにくらいに思ってもらえないものかという市長の無念さがじゅうぶんに伺えます。

互いの「思いやり」を求める場合、たいていは自分への「思いやり」を求めているものですが、市長はようやく三浦記者への「思いやり」が足りなかったと気づき、反省し謝罪をしたようです。

もちろん、三浦記者は報道機関の「尊重」ならともかく、自身への「思いやり」など求めておらず、問題の本質はそんなナアナアの個人的な関係などではなく、公人としての説明責任などについての議論を訴えているはずです。

しかし、「矛盾の追及や批判」どころか、「上意下達」の「上意」を「忖度」して、その「矛盾の追及や批判」から、「上位」を守るのが日本の組織の「体質」という、市長の「確信」は揺らぐことはないでしょう。

それは立ち往生した市長を救うために、ただちに横から割り込んで、三浦記者の質問をやめさせようと懸命な司会者や事務方の発言などによって、市長の眼前で「体質」は繰り広げられました。また、記者会見に同席した記者たちが終始沈黙して、三浦記者に同調は示さず、「不偏不党」「中立」を貫いたことからも、その「体質」は裏づけられました。

司会者は、他社の記者たちに、「これ以上記者会見の場を三浦記者への質疑に費やしてよいか?」と尋ね、「よくない!」という同意の声が上がるのを期待さえしましたが、さすがに記者たちはこれを「公正」とまではしませんでした。

「個別の面談を設定してください」と食い下がる三浦記者の要望に、「その必要は事務方が判断する」と稚拙な応答をしてしまった中年以上の男声は感情的でした。後先を考えず、感情をむき出しにしてしまう人物が記者会見の場に出てくるに及んで、誰の目にも事は明らかになってしまいました。

とはいえ、「衆寡敵せず」。三浦記者の前途は危ぶまれます。この動画が話題になってから、静岡市役所には市民からの抗議が多数寄せられたようです。お暇のある方は、静岡市役所より、NHK本社や静岡放送局の広報室へメールや電話をしてあげてください。「三浦記者、がんばれ」「よくやった」「応援するぞ」と。そうすれば、ただちに「配置転換」や「左遷」にならずにすむかもしれません。

ちなみに、割り込んだ司会者の女性は、サッカーの中田英寿選手の「自分探し」プロデュースで知名度を上げた、広報会社サニーサイドアップから静岡市の広報室へ転職したのだそうです。

29:50~市長釈明会見


「脅し」のつもりはなかったが、結果的に三浦記者を「傷つけてしまった」のは私の「力不足だった」という個人的な関係に矮小化しようとしています。

脅したり、無理やり、というつもりはなかったが、私の「力不足」のせいで○○子さんの、「セクハラ」や「レイプ」という誤解を招き、○○子さんを結果的に、深く「傷つけてしまった」ことについてはお詫びします、というよくある話型とほぼ選ぶところがありません。

文脈としては、「力不足」で「傷つけてしまった」に加害者としての優位性がはしなくも露呈しています。冒頭で市長が力んで言った「私と記者は対等な関係」を裏切るものですが、これも個人的な関係に帰着させる伏線でしょう。

市長という権力者と一記者、一市民が対等なわけがありません。前回の記者会見でたった一人の記者の質問に、最低4人の男女の部下やスタッフが制止に入ったことからも、それは明らかです。

権力者としての優位性があらかじめ付与されているという公人としての自覚に、田辺市長はついに思い至らないようです。というより、「思いやり」「傷つける」「力不足」、あるいは「対等」など個人を関係づける言葉を用いることで、公的な責任を消し去る意図と効用を狙ったのかもしれません。

市長は、「個人的な関係」に「矮小化」しようとしていますが、逆にそれを「極大化」することもできます。いうまでもなく、癒着のことです。市長に公人としての自覚がなければ、持たなければ、あるいは自身を公とすれば、「個人的な関係」は公を越えます。一記者や一市民にはそんな選択肢はありません。

「個人的な関係」とは、本来、もっと豊かな可能性を与え合うものであるはずですが、公を隠ぺいするために、今日では、なれ合いや迎合、追従、あげくは癒着に近いものに堕し、空虚さと脆弱をまとって、「死語」の列に並んでいるようです。日々、そうして言葉を失って瘦せ細ってゆく私たちに、はたして「体質」を解き明かす言葉が残っているかどうか。

しかし、田辺信宏静岡市長の経歴をみると、「田舎市長」どころか、並みの議員以上に、統治とは、政治とは何か、どうあるべきかを学んできたはずであり、日本の組織の「体質」にもうんざりしている様子さえうかがえるのに、いったいどうしてこうした愚劣な記者会見を重ねてしまうのか、ちょっと不思議でもあります。

(止め)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする