「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」原題は Demolition (破壊)です。
交通事故で妻を失い正気を失ったエリート金融マンのデイビス・ミッチェル。「直すためにはまず分解して組み立てるのだ。物事も同じだ」という義父の助言をきっかけに、大型冷蔵庫から2000ドルもしたエスプレッソマシン、会社のパソコンやトイレの個室などまで、次々にバラバラに破壊していく「奇行」に走る。
身辺の「分解」だけでは飽き足らず、見かけた解体屋を手伝うようになったデイビスは知り合ったゲイの少年と、「結婚生活を破壊する」と自宅のモデルルームのようなインテリアに大ハンマーを振るい、さらにブルドーザーまで購入して家そのものを壊しはじめる。もちろん、妻の父親であり、勤務先投資会社のトップである義父には愛想を尽かされ、会社もクビ同然になる。
そのデイビス・ミッチェルを「ナイトクローラー」をはじめに狂気を演じさせて定評のあるジェイク・ギレンホールが扮するのだから、不安定な心理描写が続く気が滅入るような映画と思われるかもしれない。
違います。「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」という邦題の通り、雨の日は悲しみに浸り、晴れの日は心温かくなるような恋愛映画です。
ただし、それまでは見知らぬ男女が出会い、結ばれるまでの高揚した恋愛ではなく、その後の愛について、育まれる愛を主題とした映画ともいえます。
突然の妻の死にも涙ひとつでないディビスは、ほんとうに妻を愛していたのか自らに疑念を抱く。結婚してからの年月、亡き妻の面影と思い出はいつも脳裏に浮かぶのに、とりとめなく断片的なことばかり。組み立てられていない。当然、分解できるわけもなく破壊するしかなかったようだ。
ゲイの少年とそのシングルマザーであるカレンが現れて交流するうちに、思い出の愛のほかに現在の愛が少しづつ育まれていく。カレンとは恋愛関係を決定づける肉体関係を結ばず、友情からはじまり、疑似家族的な愛情に移っていく。
愛情愛情とloveのようななじみのない言葉を連発しているが、神の愛なき日本でいえばデイビスを包むものは「情」というべきものだろう。
「雨の日は~」という邦題は詩句などからの引用ではなく、車のサンバイザーに挟まれていた亡き妻のメモに書かれていた謎の言葉であり、妻と養父母の秘密を知った結末、デイビスが破壊の果てにようやく見つけた答えを告げる。
「愛はありました。ただおろそかにしていただけです」
愛を見失いながら、愛を得ていく男の「恋愛映画」なので、女性にはあまり受けないかもしれないが、じつは愛を裏切りながらほんとうの愛を求める女の「恋愛映画」でもある。
名前からすると、監督はフランス人らしいが、フランスの俳優によるフランス映画なら、もっと苦みの効いた恋愛映画になっただろうにと惜しまれる。くらべれば、アメリカンは感情の起伏や機微が繊細さに欠け、その分、中途半端になった感はある。
もちろん、キャストや演出に文句をいっているのではなく、アメリカの観客向けにはどうしてもそうなってしまうのだろう。ただ、くだらない男友だちが登場して、お約束の助言や励ましたりを与えたりしない。ジェンダーレスに男の内面の葛藤を描くだけの潔いつくりをしていることも付け加えておく。
、
飯田橋にあったギンレイホールという名画座を思い出してしまうジェイク・ギレンホールは相変わらずの熱演。たしかに、封切館落ちのギンレイホールで観るにふさわしい、名作や傑作には及ばなず、映画ファン向けというほど尖ってもいない、中途半端なところがかえって好感を持てる佳作といえる。もしかすると、あなたの「好きな映画」の一本になれるかもしれない。
ほかに、安定のナオミ・ワッツ、クリス・クーパーなど名優が脇を固めている。デイビスの悲しみと再起の過程に、目尻が滲むくらいには泣ける映画です。
挿入歌に使われた「ラ・ボエーム」を Charles Aznavour で。
La Boheme
(止め)
交通事故で妻を失い正気を失ったエリート金融マンのデイビス・ミッチェル。「直すためにはまず分解して組み立てるのだ。物事も同じだ」という義父の助言をきっかけに、大型冷蔵庫から2000ドルもしたエスプレッソマシン、会社のパソコンやトイレの個室などまで、次々にバラバラに破壊していく「奇行」に走る。
身辺の「分解」だけでは飽き足らず、見かけた解体屋を手伝うようになったデイビスは知り合ったゲイの少年と、「結婚生活を破壊する」と自宅のモデルルームのようなインテリアに大ハンマーを振るい、さらにブルドーザーまで購入して家そのものを壊しはじめる。もちろん、妻の父親であり、勤務先投資会社のトップである義父には愛想を尽かされ、会社もクビ同然になる。
そのデイビス・ミッチェルを「ナイトクローラー」をはじめに狂気を演じさせて定評のあるジェイク・ギレンホールが扮するのだから、不安定な心理描写が続く気が滅入るような映画と思われるかもしれない。
違います。「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」という邦題の通り、雨の日は悲しみに浸り、晴れの日は心温かくなるような恋愛映画です。
ただし、それまでは見知らぬ男女が出会い、結ばれるまでの高揚した恋愛ではなく、その後の愛について、育まれる愛を主題とした映画ともいえます。
突然の妻の死にも涙ひとつでないディビスは、ほんとうに妻を愛していたのか自らに疑念を抱く。結婚してからの年月、亡き妻の面影と思い出はいつも脳裏に浮かぶのに、とりとめなく断片的なことばかり。組み立てられていない。当然、分解できるわけもなく破壊するしかなかったようだ。
ゲイの少年とそのシングルマザーであるカレンが現れて交流するうちに、思い出の愛のほかに現在の愛が少しづつ育まれていく。カレンとは恋愛関係を決定づける肉体関係を結ばず、友情からはじまり、疑似家族的な愛情に移っていく。
愛情愛情とloveのようななじみのない言葉を連発しているが、神の愛なき日本でいえばデイビスを包むものは「情」というべきものだろう。
「雨の日は~」という邦題は詩句などからの引用ではなく、車のサンバイザーに挟まれていた亡き妻のメモに書かれていた謎の言葉であり、妻と養父母の秘密を知った結末、デイビスが破壊の果てにようやく見つけた答えを告げる。
「愛はありました。ただおろそかにしていただけです」
愛を見失いながら、愛を得ていく男の「恋愛映画」なので、女性にはあまり受けないかもしれないが、じつは愛を裏切りながらほんとうの愛を求める女の「恋愛映画」でもある。
名前からすると、監督はフランス人らしいが、フランスの俳優によるフランス映画なら、もっと苦みの効いた恋愛映画になっただろうにと惜しまれる。くらべれば、アメリカンは感情の起伏や機微が繊細さに欠け、その分、中途半端になった感はある。
もちろん、キャストや演出に文句をいっているのではなく、アメリカの観客向けにはどうしてもそうなってしまうのだろう。ただ、くだらない男友だちが登場して、お約束の助言や励ましたりを与えたりしない。ジェンダーレスに男の内面の葛藤を描くだけの潔いつくりをしていることも付け加えておく。
、
飯田橋にあったギンレイホールという名画座を思い出してしまうジェイク・ギレンホールは相変わらずの熱演。たしかに、封切館落ちのギンレイホールで観るにふさわしい、名作や傑作には及ばなず、映画ファン向けというほど尖ってもいない、中途半端なところがかえって好感を持てる佳作といえる。もしかすると、あなたの「好きな映画」の一本になれるかもしれない。
ほかに、安定のナオミ・ワッツ、クリス・クーパーなど名優が脇を固めている。デイビスの悲しみと再起の過程に、目尻が滲むくらいには泣ける映画です。
挿入歌に使われた「ラ・ボエーム」を Charles Aznavour で。
La Boheme
(止め)