とても感心したな。小津の「東京物語」みたいな家族映画なのな。この映画を観るだけでも、イランに経済制裁しちゃいけないと思うな。のっけから、「娘の将来のために、イランから出国して外国へ移民したい」って嫁が登場。認知症の老父の介護があるから、「出国はできない、離婚もしかたない」って旦那。両親の板ばさみになって心を痛める、「宿題しなくっちゃ」が口ぐせの娘。離婚と介護と受験に忙しい家族なんだな。じゃ、私だけでも海外移住するって、嫁は家を出て実家で暮らすのな。
別離 公式サイト
http://www.betsuri.com/introduction/
さあ、困った。銀行につとめる旦那は、老父の世話をするお手伝いさんを雇うのな。仕事や学校で留守をする日中だけ。朝と晩は自分と娘がめんどうみるつもり。嫁の伝手でみつけた、小さな娘の手をひいてやってきたお手伝いさん。彼女も夫が失業中で生活苦。このお手伝いさんの家族と、旦那がもめ事を起こすんだな。ふたつの家族それぞれが、すでに大変なのに、思わぬ事件が起きて、さらに大変なことになっていくのな。
大変な事態の解決に関与するのが、裁判所の判事なんだな。離婚調停や娘の親権のゆくえ、介護すべき老人を縛って外出したお手伝いさんの怠慢と、怒った旦那が突き飛ばしたことによる流産など、判事の前でそれぞれが事情を主張し、たがいを難ずるわけだな。ベテラン判事は、それぞれの話に辛抱強く耳を傾け、感情の激発をたしなめ、話の前後の矛盾をつき、さらに現場検証もする。イランは法治国家なんだな。だんだんに、隠された事実やウソが真実が明らかにされていくから、判事一人だけのこじんまりながら裁判映画でもあるわけだな。
もちろん、宗教のしばりについては、「へええ」と思う。お手伝いさんは、最初、老人の介助として雇われたはずなのに、老人が失禁をしたことで介護せざるを得なくなるのな。夕方、「話が違う」と帰宅した旦那に文句いう。それまで老人は粗相したことがなかったから、旦那はショックを受けるのな。「下の世話までさせるなんて」ってのは、労働条件の問題というより、宗教上の禁忌に触れることらしいのな。認知症の老人とはいえ、女性が、もしくは人妻が、他人の男の裸身をみたり触れたりしてはいけないらしいな。
旦那がショックを受けたのは、お手伝いさんに宗教上の禁忌を犯させてしまったってショックでもあったのな。このお手伝いさんは、チャドルっていうんだっけ、頭から全身を黒ずくめにしている敬虔なイスラム教徒なんだな。一方、旦那の奥さんは、海外移住をしようと夫と口論するくらいだから、かなり現代的な女性らしく、色とりどりのスカーフを頭に巻いて、おしゃれを意識して出てくるのな。
イランは宗教国家といわれ、窮屈な戒律や頑迷な信仰心が市民生活を圧迫しているような印象があるが、あたりまえだけど、けっしてそんな単純なものではないんだな。自分の過失が認定されないかぎり、和解しないし慰謝料を払うこともないと旦那がいうと、「それじゃ、パパは嘘をつくの!」と娘に泣かれて苦り切るんだな。旦那は嫁と同じく世俗的でそれだけ現代的なのな。一方、お手伝いさんは、「コーランに誓えるか」と問われて取り乱すのな。でも、「誓えるか」といったのは旦那だから、旦那もまた利害得失を離れて心の深いところで宗教が規範になっているのな。
結末は、ハッピーエンドじゃない。かといって、バッドエンドでもないんだな。現実がたいていそうであるようにな。旦那と嫁の二人が離れた場所に座るところで、映画は終わる。二人が座っているのは裁判所の廊下なんだな。娘の親権がどちらへいくか、その決定を待っているのな。二つの家庭間に起きた大変はかなりおさまるけれど、すでにあったそれぞれの家族の大変は続くんだな。でも、この大変なもめ事をつうじて、家族のそれぞれが、何事かを思い考えたんだな。さあ、「あなたならどうする?」、そんな風に観客に問いかけて終わるのな。
もろちん、これはイランのプロパガンダ映画ではないのか、という意地悪な見方だってできるのな。なぜ、嫁が海外移住を望むかといえば、語られないけれど、欧米がイランへの経済制裁の圧力をさらに強め、いずれ戦争へ向かうのではという不安なんだろうな。つまり、戦争の不安におびえるイランの市民。もめ事はかなり深刻だけれど、隣人間や家族内のもめ事。辛抱強く調停して的確な判断を下す判事は国際社会。そんな見立てだって、できなくはないな。なにせ、イランは、「悪の枢軸」だからな。
でも、映画が終わったあとに残るものは、どこにでもある、ありふれた、私やあなたの家族や家庭の映画なんだという発見なんだな。とくにイランとか、イラン人とか思わないはず。変わった風景とか出てこないし、女の人がかぶりものをしているのが違うくらいで、変わった人物も出てこない、どこでもあるような都市生活なのな。でも、ありふれた、どこにでもいる、旦那や嫁や娘が、それぞれを思いやり、守ろうとして、けんめいなんだな。二家族ともに。
ありふれた、どこにでもいる、家族の間に通いあう、かけがえのない尊いもの。けんめいに守らなけりゃ、壊れてしまう尊いもの。それを思い出させてくれるのな。認知症でわけがわからなくなっている老人でさえ、けんめいにそれを握りしめているのに、ときにわずらわしく思い振り払ってしまうくらい、無価値と思っていたこともまた、思い出させてくれるのな。そういう経験の映画だな。いうまでもないけれど、経験と呼べるほどの映画はめったにないんだよな。
おっと、書き忘れたな。この映画の家族は、イランの首都テヘランに暮らしているようなんだな。人や車が多く混雑しているし、集合住宅に住んでいる。私たちとかわらぬ都市生活に思えるんだが、ぜんぜん違うようにも思えるんだな。無機質な建築物や不毛な消費行動、空虚な人間関係といった都市生活とは、ずいぶん肌触りが違う。都市ではなく、街、、町なんだな。この映画の見所の一つだろうな。