コタツ評論

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イーストウッドに老境なし

2012-06-16 23:33:00 | レンタルDVD映画

フーバー(デイカプリオ)と副官トルソン(アーミー・ハマー)

腐女子のBL(ボーイズラブ)小説やマンガの世界では、幕末に京都市中を震え上がらせた、新撰組の鬼の副長・土方歳三が大人気。近藤勇や沖田総司に抱かれて土方歳三は喘いでいるのだが、この映画のおかげで、フーバーとトルソンもあえなく腐女子の餌食になるかもしれない。

「フーバー」ではなく、「J・エドガー」というタイトルからして、イーストウッド監督の意図は明白だ。「怪物フーバー」の虚実を追求するのではなく、ジョン・エドガー・フーバーの人生をたどるのでもなく、「J・エドガー」という若きアメリカ青年に焦点を絞った。ディカプリオはほとんど、ディカプリオのまま、青年エドガーを演じる。

後年のでっぷり太った悪漢面のフーバーではない。筋肉質の身体を仕立てのよいスーツに包み、きびきび動く24歳である。上司は司法長官だけというFBIの前身でトップに立ち、科学的な捜査機関の育成に心血を注ぐが、けっして傑物ではなく、ましてや英雄などではない。

母親の抑圧的な愛情に呪縛され、人を愛し愛されることに臆病で、ガールフレンドはもちろん友だちもおらず、同僚や上司から仕事熱心は認められても、煙たがられている。エドガーはそんな偏屈で孤独な青年だ。そこへ生涯のパートナーとなるクライド・トルソンが現れる。

採用面接にやってきたハンサムでダンディなトルソンは、洗練された仕種でエドガーの落としたハンカチを拾い、厚いカーテンに閉ざされた執務室の窓を、「暑いですね」と開け放つ。射し込む陽光。渡されたハンカチ。その匂いを嗅ぐ。エドガーの上目使い。トルソンの笑顔。ハンカチで汗を拭うエドガー。

まるでボーイズラブのはじまりだ。しかし、エドガーにとっては、トルソンこそが救いの天使であり、かけがいのない人生の伴侶だった。それはトルソンも同様で、トルソンが働き出してほどなく、その頭脳明晰と有能を見込んだエドガーは、「自分の片腕になってくれ」と頼む。トルソンは、ひとつの条件を提示する。

「毎日の昼食と夕食を一緒にすること」。目を丸くするエドガー。「も、もちろんだ」。約束は守られ、決まったレストランのいつものテーブルで食事をする二人。休暇さえも一緒にとり、二人だけで旅行する。局内では公然たる関係を続け、二人は独身を貫く。

上映時間の半分以上は、フーバーとその生涯のパートナーだった副官トルソンの夫婦関係にも似た描写に費やされる。おまけに、この二人には、子どもまでいる。FBIの草創期から、8人目の大統領ニクソンを迎えるまで、このアメリカ最大最強の捜査機関を育んできたのはフーバーとトルソンだった。

イーストウッド82歳にして、そんなホモセクシャルの映画を撮った。「ブロークバック・マウンテン」のような優しい癒しのゲイ映画とはまるで違う。偏狭な愛国心から強権的な司法を信奉する、マッチョなホモセクシャルとしてフーバーを描いた。ただし、ホモセクシャルを性的嗜好としては描かなかった。

よく知られているフーバーの服装倒錯についても、亡き母を偲んでそのドレスとネックレスを身につけて泣く場面にした。フーバーとトルソンが交わすセクシャルな目つきや仕種は思わせぶり以上のものだが、セックスを想像させる場面はない。老年に至った二人が、たった一度だけ、突発的に唇を押しつけるだけだ。

とても印象的な場面がある。ルーズベルト大統領の弱みを握るために、フーバーが入手した、エレノア・ルーズベルト夫人のラブレターだ。不倫相手の恋人に宛てた、甘くも切々としたエレノアのラブレターを、折にふれひとり読み返すフーバー。その便箋に、自らのトルソンへの思いが書いてあるかのように。

自他ともにストレートと認め、ゲイにほとんど興味や関心がないはずのイーストウッドがホモセクセクシャルを描くとき、ありふれた愛のひとつとして以外には考えられない。ゲイ解放運動が起こるはるか以前のエドガーを描いたのだから、あたりまえのように見えて、実はそうではない。それでは、後にゲイ弾圧側に立ったフーバーと矛盾する。

セックスと愛、愛とセックスをひとくくりにはしない。それこそが、ゲイ解放運動以前に、ホモセクシャルを被差別視する差別的な視線を免れる視線ではないか。もしかすると、エドガー・フーバーの人生から、イーストウッドが読み解いた考えに思える。フーバーは、ホモやゲイを憎悪したというより、公序良俗を乱すとデモや集会を組織する解放運動を嫌ったに過ぎない。

誰かが誰かを愛するとき、そこで起きることにたいした違いはない。フーバーとトルソンは、親密な友情に結ばれていた。ときに、古臭い夫唱婦随にも似ていた。二人はホモセクシャルだったかもしれない。だが、重要で価値があることは、二人がその生涯にわたって、お互いへの愛を貫いたことだ。

それはありふれたことではない。並はずれた熱意のほかには、ありふれた凡庸な資質しか持たなかった男が、FBIという傑出した組織をつくったように、そのことは特記されるべきことだ。男同士だろうと、彼は愛を知っていた。エドガー・フーバーについて、イーストウッドはそう語っているように思える。

もちろん、ホモセクシャルの映画というだけではない。イーストウッド映画らしく、ジョン・エドガー・フーバーは「闘う男」である。フーバー最後の、そして最強の敵は、8人目のニクソン大統領であった。

(続く、かもしれない)



トルソン役のアーミー・ハマーは、「ソーシャル・ネットワーク」で嫌みな双子のエリート大学生を演じていた。検索してみると、なんとハマー財閥の御曹司だった。オキシデンタル石油のアーマンド・ハマーの孫である。レーニン以来ソ連に近く、「赤い政商」とも呼ばれたロシア出身のユダヤ系アメリカ人の祖父は、たぶんフーバーの国家の敵リストでは上位にいたはずだ。