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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

日米安保は兄弟分の盃

2011-09-20 00:58:00 | ブックオフ本


最近では、山口組系暴力団の組長が「板の間稼ぎをするほど、ヤクザと呼ばれる「反社会勢力」への締めつけが厳しくなっている。そのきっかけをつくった一人ともいえる後藤忠政の本である(本人が書いたわけではなく、聞き書きだが)。とにかく、バブル期以降、後藤組と後藤忠政の動きは派手だった。創価学会、伊丹十三襲撃、渡米肝移植、その間、数々の経済事件にその名が取りざたされ、最近では紳助引退で騒がれている芸能界への食い込みも、この後藤組が突出していたといわれている。

憚りながら』(元後藤組組長 後藤忠政 得度名・忠叡 宝島社文庫)

今回は、そうした事件的な興味は脇におき(もちろん、真相はけっして語られないわけだし、たとえ語られようとそれが真相だとは判断できないわけだが)、後藤忠政の政治家評がなかなかおもしろかった。 政治家の仕種や振る舞いからわかるヤクザの「日本属国論」かな。

小泉 純一郎
小泉がアメリカに着いて、飛行機を降りてきたら、ブッシュは握手しながら肩をポンポンと叩いたわけだ。あのポンポンってのは、目下の者にやる仕種であって、兄弟分にはやらないよ。ところが、小泉は(ブッシュから)そんなマネされても、まだプレスリーの物真似なんかやっていたんだから度し難いよな。

安倍 晋三
その小泉の後の安倍(晋三)さん、俺はあの人の「美しい国」という考え方は好きだったし、いい政治家だと思っていたんだが、(政権の)途中で「腹痛い」って辞めちゃあ、ダメだろ。学校で級長やっている子供だって、「腹痛い」なんていう理由では辞めんぞ。

麻生 太郎
「オバマが大統領になった後、最初に会ったのが日本の(麻生)首相だ」ってまたテレビが騒いでいたな。あれは「会った」じゃないよ。「呼びつけられた」んだ。一国の宰相が、昼食のテーブルも用意されないまま帰されるんだから。兄弟分の扱いじゃなくて、子分の扱いだよ(要約)。

鳩山 由起夫
「対等な日米関係」を掲げて、普天間(基地移設問題)を見直すといった鳩山さんのほうが、まだマシだった。まがりなりにも、アメリカさんに居直ったんだから。実際のところ、日米関係は到底「対等」じゃないよ。五分と五分の関係じゃない。けど四分六だろうが、七三であろうが、二分八であろうが、「あんたんちとウチとは兄弟分ですもんで、親分子分じゃないもんで」と、たまには突っ張るのもいいんじゃないか。

小沢 一郎
(小沢さんが)自分の子分を600人も引き連れて中国に行って、力を誇示してな。あれじゃまるでチンピラだよ。おまけに子分を胡錦濤(国家主席)の前に並ばせて、ひとりひとりに握手させて、記念写真撮らせて。民主党がアメリカに突っ張るのは結構な話だけど、だからといって、中国の舎弟になるのは勘弁してもらいたいわ。ありゃ、完全に舎弟の振る舞いなもんで。


(敬称略)
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はじめての金井美恵子

2011-08-23 00:03:00 | ブックオフ本


ブックオフではなく町の古本屋がおもしろいのは、特価本コーナーにあきらかに誰かの本棚の一角が並ぶところだ。持ち主が亡くなったか、引っ越したのか、あるいは介護をするとか受けるとか、何か室内を整理する必要が起きたためか。さまざまな推測ができるが、一人の本読みから売り払われたと思える、傾向の定まった本のまとまりを100円コーナーに見つけることがある。

『チャタレー夫人の恋人』の英日対訳本(これは買った)やサドの『悪徳の栄え』、『O嬢の物語』といった官能小説の古典ばかりが黄ばんだ背表紙をみせたり、廣松渉や黒田寛一といった書き込みが目立つ左翼本がかたまっていたり、保存のよい角川春樹の句集や斉藤茂吉の随筆がならんでいたりする。

蔵書というより、一度は読み込んだことのある愛読書、そんな手垢のついたどこか懐かしい佇まいがあって、未知の著者や分野なのに、つい手にとって頁をめくってみたり、たぶん読まないだろうなと思いつつ、ふと買ってしまったりする。そういうことって、ありませんか?

目白雑録』『目白雑録 2』(金井 美恵子 朝日新聞社)もそんな一冊だった(すでに3が出ている)。ほかに名前だけは知っている女流作家の小説が数冊いっしょにあり、珍しく中年女性の本棚の一隅から引っ越してきたようだった。

書名には、「ひびのあれこれ」とルビが振ってあり、なんと売る気のない手抜きのタイトルかと呆れたが、少し立ち読みすると、「日日(ひび)」ではなく著者が住む豊島区「目白(めじろ)」だった。「日日」と「目白」はちょっと見、同じ字にみえる。大岡昇平の「成城だより」を踏まえて、しかし、「目白雑録(めじろざつろく)」ではなく、混同しやすい「日日」と「目白」をあえてかけ合わせ、「目白雑録(ひびのあれこれ)」と読ますわけで、手抜きどころか、なかなか凝った書名だとわかる。

もしかすると、「あ、なるほどね」と表紙を眺め直させることで、その美しい装丁に気づかせる仕掛けなのかもしれない。ピンクの地に、ワインのコルク栓や赤の毛糸、小さな人形、小鳥、木の枝、木の実、麻布などが配置されたタブローの写真が表紙になっている(2の巻だ)。ちょっと変わっているけれど、可愛いらしい「あれこれ」。そんなほのぼのとした身辺雑記という内容では、まったくないのだが。

辛口とか、めった斬りとか、あるいは辛辣といえば、著者から、「バカ」「陳腐」と悪口されることは間違いない。悪意のない率直さとでもいおうか。時事トピックも扱っているが、「文壇」や「書評」批判が多い。石原慎太郎や島田雅彦や村上龍、文芸評論家の誰それや政治学者その他を実名をあげて批判しているのに、ちょっとびっくりする。

インターネットの出現によって、匿名で悪口なら誰でも書けるようになった。ときには実名でも書けるだろう。しかし、それなりの有名性がある人が、実名をあげて批判はなかなか書けないものだ。それも自らが属する業界の人々について、朝日新聞社発行の「一冊の本」という書籍情報誌の誌面を借りては。

小説家・金井美恵子の名は知っていたが、その小説は読んだこともなく、エッセイもこの本がはじめてだった。改行が少なく長々と続くというところが似ているだけでなく、どこか野坂昭如のエッセイを思わせる。ちなみに貶すとは反対に、金井美恵子が褒めている、ないしは認めている人たちをあげてみると。

その野坂昭如、深沢七郎、蓮見重彦、中上健次、映画監督では成瀬 巳喜男、マキノ雅弘、田壮壮など。海外の映画監督では、ジョン・フォードを高く評価しているらしく、またサイレント映画の監督やドキュメンタリ映画監督など、俺の知らない映画や監督の話題も頻出するが、その率直で確信的な口調に、観てみたい気分がそそられもする。

俺はその映画が観たくなる感想文や批評がいちばん正しい書き方だと思っている。だから、金井美恵子はいいです。しかし、この人、自分の作品を褒めた書評にも、「まるで、読めていない」と容赦なく噛みついている。

(敬称略)
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うぉん

2011-08-10 00:20:00 | ブックオフ本


二十世紀は、「戦争の世紀」だった。それは、「戦争のイヌ」たちの世紀でもあった。犬ではなく、イヌである。犬と人が、ともにイヌに、「戦争のイヌ」になって戦った世紀である。

この破格の小説は、軍用犬と呼ばれる「戦争のイヌ」たちの創世記として、二十世紀の戦争を疾駆するイヌたちを物語る。アリューシャン列島、朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタン・・・。

探査し、追跡し、殺戮して転戦するイヌたちは、子孫を残して転生し、ロシアマフィアや日本ヤクザ、メキシコ麻薬マフィアの銃弾をくぐり抜け、「戦争のイヌ」の血統と系統を世界各地に遺して逝く。

イヌはメタファーではない。イヌはイヌ以外のなにものでもない。カミと同じく、戦争と同じく。<イヌよ、お前はどこにいる?>。繰り返される問いかけは、イヌの不在ではなく、イヌの遍在を示すものだ。

疾走するイヌを追いかけ見失う、イヌははるか先にいるようで、すぐ近くの物陰からこちらを見ているような、そんな落ち着かない気持ちになる。目を細め耳を澄ませ、臭いを嗅げるかと鼻に皺を寄せ、イヌになっている自分を想うだろう。

たぶん、あなたも、こんな小説は読んだことがないはず。

ベルカ、吠えないのか?』(古川日出男 文芸春秋)

帯文はこれだ。

四頭のイヌから始まる、「戦争の世紀」。

一九四三年、北洋、アリューシャン列島、
アッツ島の玉砕をうけた日本軍はキスカ島から全面撤退を敢行、
無人の島には四頭の軍用犬「北」「正勇」「勝」「エクスプロージョン」が残された。
自分たちは捨てられた----その事実を理解するイヌたち。
その後島には米軍が上陸、自爆した「勝」以外の三頭は保護される。
やがて三頭が島を離れる日がきて----それは大いなる「イヌによる現代史」の始まりだった!


献辞がこれだ。

ボリス・エリツィンに捧げる、
  俺はあんたの秘密を知っている、


最後の2行はこれだ。

 それからお前たちは海を渡るだろう。それからお前たちは、二十世紀を殺す。霧の中の島にイヌだけの楽園を築きあげて、それからお前たちは、二十一世紀に宣戦布告するだろう。

「ベルカ、吠えないのか?」
あなたには聴こえるはずだ。
   うぉん
という声が。

(敬称略)
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芥川賞はflowersに

2011-08-02 00:06:00 | ブックオフ本


万城目学を教えてくれた若い本友だちから、『パーク・ライフ』(吉田 修一 文春文庫)を借りて読了。表題作と「flowers」という中編小説が2篇収められた177頁。薄い上に、平易な読みやすさのおかげで、読み終わるのに2時間はかからなかった。「PARK LIFE」と「flowers」と表記を合わせたほうがよかったはずだが、『パーク・ライフ』は芥川賞受賞作らしいので、タイトルを変えるわけにもいかなかったのだろう。

昼どきの日比谷公園で「スタバ女」と僕がカフェモカを飲みながら、少し話をするというだけの話だ。小説的な感興はあるようでなく、ないようであるのかもしれないが、私には、何がおもしろいのか、あるいは、どこがおもしろくないのか、いずれもよくわからなかった。ほとんど感興を覚えないのに、100頁をペロペロ読めたのは不思議。ちょっと、狐に鼻をつままれたような気分(狐に鼻をつままれた人間なんて、人類史上、2人くらいしかいないだろうに、なんという比喩だろう)。

ただひとつ。スターバックスでコーヒーを飲む女性たちを揶揄しながら、スタバのコーヒー自体はわるくないと思っているらしい、「僕」や「スタバ女」の前提評価には納得できない。ドトールやベローチェ、マックなどに比べれば、たしかにスタバはずっとマシなコーヒーを出すが、コーヒーとしてマシとはとてもいえない。まともなコーヒーなら、たとえば、銀座線田原町駅(たわらちょう)近くの「純喫茶みち」(台東区西浅草1-7-18)の白いカバーのかかった古びたソファに座ればよい。いまの季節なら、アイスコーヒーを頼むとよくわかる。マシーンではなく人手が淹れたコーヒーの美味さが。

残念ながら、この本はパスだなと閉じようとしたが、ちょうど人身事故で電車は立ち往生している。ほかに手持ちは、竹内好監修の『論語』しかない。1960年代の本なので、活字が小さく、紙が黄ばんでいて、車内灯では読みにくい。それで、次の「flowers」をパラパラしはじめた。20分ほどして運転再開し、下車駅に着いてからも、ホームのベンチに座って読み続け、一気に読み終えた。若き本友だちも、「自分は、「flowers」のほうがおもしろかったのですが」と云っていたっけ。

初出勤の朝、妻の鞠子に見送られ、僕は帝国ホテルから仕事場へ向かった。

という冒頭から、おいおい、また『パーク・ライフ』みたいに、アッパーミドル人種が登場する作品かとうんざりしかけたが、日比谷公園前の帝国ホテルから出勤した「僕」の仕事場は、飲料水の配送会社。まだ街の至る所に自動販売機が普及する以前、会社や商店などに重い清涼飲料水やお茶やコーヒーを運ぶ月給25万円の配送トラックの運転手が「僕」の仕事だった。「僕」の前職も、九州の田舎の墓石会社勤めというから、「パーク・ライフ」の「僕」と比べると、ずいぶん下層という意外な展開だった。

望月元旦という先輩配送ドライバーの助手となった「僕」が、とらえどころのない元旦の非倫理的な行動に振り回されつつ、次第に惹きつけられながら、最後に踏み止まる会社のシャワー室の場面が迫真的だった。ちょうど今年のように、真夏日が連続10日も続いたある日、重い飲料水のケースの積み下ろしから解放されたドライバーたちが、ひと汗流す暗く熱気のこもったシャワー室。タオル一本ぶら下げて佇む裸の男たちと土下座をする元旦。その顎を蹴り上げて血を滴らせ、リンチの口火を切ったのは、「僕」の脚だった。

捨ててきた故郷。喜劇女優志願という別な道を歩きはじめた妻。故郷から訪ねてきた従兄弟の孝之介。惨めな境遇の職場の同僚。さまざまな離間を一気に跳び超えようとした「僕」の濡れた裸足。そこに、自分と元旦を救う「蹴りたい背中」があった。「flowers」を注視する3人の男の静けさをたたえた和合の場面から続く、それはひとつの官能的な「友情」の結末に思えた。

(敬称略)
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帰国子女文学

2011-07-16 00:27:00 | ブックオフ本


『私小説 from left to right』(水村 美苗 新潮社)を買う。書名のように、本分も英語混じり文が続く、左開き横書き、つまり from left to right 左から右へ書いた、異色の私小説である。会話も「」ではなく、--で示される。タイトルの「帰国子女文学」には、悪意はもちろん、揶揄するつもりもない。

東京生まれ。12歳の時家族と共に渡米。
イェール大学卒業、同大学仏文科博士課程修了。
プリンストン大学講師。ミシガン大学客員教授。
1990年、『續明暗』を刊行し、芸術選奨新人賞を受賞。
現在東京在住。


奥付の短い略歴を読めば、英語はできるらしいが日本語は不自由を含意する「帰国子女」は、この人に対していかにも失礼だろうが、読み出してすぐに、「目線」で引っかかってしまったのだ。欧米のモップと日本の雑巾を対比するところに出てくる(9p)。

 An act of great humility -- 大いなるへりくだり
 それは掃除をするのに雑巾などというものを使う発想は金輪際おこらず、必ずモップを使うような人たちにとってそうだというだけなのだ。

ローマ法王が異郷を訪ねたとき、その国の地面に平伏し、大地にうやうやしく口づけすることが、大いなるへりくだり、とされるけれども、

私の先祖はいつも目線を下方に据え、大地の低さにどこまでも親しみ引力への抵抗力を最小限にして生きてきたのではなかったか。床や畠や地面と鼻を突き合わせての雑巾がけ、田植え、草むしり。

と続くのだが、この「目線」に、何か批評性のようなものはない。なぜ、しせん、ではなく、まなざし、ではなく、めせん、なのか、明らかではない。だから、「帰国子女文学」といえば言い過ぎだが、どうして、夏目漱石の『明暗』の続編を書くような人が、不用意に(としか思えないのだが)、目線と書いてしまうのか。そこに、帰国子女のもうひとつの含意である、「不思議ちゃん」をうがってしまったのかもしれない。

まだ、読みはじめたばかりで、どんな小説なのか、よくわからない。英語を使って生きてきたという私小説的な意味で、英語混じり文になっているのかもしれないが、それ以上の意味や効果がなければ、あまり意味があることとは、いまのところ思えないでいる。

それは小説を書くのに英語などというものを使う発想は金輪際おこらず、必ず日本語を使うような人たちにとってそうだというだけなのだ。

とでも言い換えられるような逆転がこれから先に起きればよい、と期待しているのだが。

物語・経済学 誰がケインズを殺したか』(W・カール・ビブン 日本経済新聞社)が、なかなかおもしろいので、『私小説 from left to right』は、後回しになるかもしれない。それにしても、水村 美苗(みずむら みなえ)とは、美しい名前だ。

注:写真は文庫だが、私の読んでいるのは単行本である。

(敬称略)




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