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コタツ評論

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国際市場で会いましょう

2018-06-01 22:52:00 | レンタルDVD映画
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した是枝監督の「政治的発言」については、「今日の明言」 で紹介した。

安倍の治世を痛烈に批判した、是枝監督の「政治的明言」は見事であったという趣旨だが、その余波なのか、フランスのフィガロ紙が「栄誉あるパルムドール受賞」(引用に非ず)を祝福しなかった安倍批判に乗り出した。

カンヌ受賞の是枝裕和監督を祝福しない安倍首相を、フランスの保守系有力紙が痛烈に批判
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E5%8F%97%E8%B3%9E%E3%81%AE%E6%98%AF%E6%9E%9D%E8%A3%95%E5%92%8C%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%82%92%E7%A5%9D%E7%A6%8F%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%A6%96%E7%9B%B8%E3%82%92%E3%80%81%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%BF%9D%E5%AE%88%E7%B3%BB%E6%9C%89%E5%8A%9B%E7%B4%99%E3%81%8C%E7%97%9B%E7%83%88%E3%81%AB%E6%89%B9%E5%88%A4/ar-AAy3v97?ocid=ientp#page=2

先の「今日の明言」を繰り返せば、「政治的発言」の必要な条件は、その内容のほかには、メディア選びとタイミングが重要である。これは一般報道にもほとんど適用できるものだが、韓国の中央日報に比べれば、日本での認知度や影響力ではるかに劣るフィガロ紙が何を言おうと、この筆者が願うような「拡散」には至らないと思う。

それはさておき、まだ観ていないカンヌ受賞作品「万引き家族」を批判したい。なぜ、そんな気を起こしたのかといえば、韓国映画「国際市場で会いましょう」を観たからだ。すばらしい作品だった。

朝鮮戦争時に幼くして父と妹と生き別れになった長男が、やがて母や弟妹の生活と学資を稼ぐために、当時の貧しい韓国では驚くほどの高給であるが、危険で辛いドイツの炭坑やベトナム戦争中のハノイに出稼ぎを重ねる青年時代に目を見張らされた。

北朝鮮がロシアや中国などへ労働力を輸出しているのは知られているが、かつて韓国も同様に外貨稼ぎのために、国策として海外出稼ぎを奨励していた時代があったのだ。

そのおかげで、弟はソウル大学を出たエリートになり、妹も人並みの結婚式を挙げさせることができ、叔母から買い取った輸入品を扱う国際市場(こくさいいちば)の店で、長男はドイツで同じように死体洗いの出稼ぎをしていた看護婦だった妻と、働きづめに働いて老齢を迎える回想の映画だ。

圧巻は、朝鮮戦争時の混乱の中で離散家族となった人々の家族探しのTV番組に長男が出演する場面だ。

一TV局の人探し番組は韓国に大ブームを起こし、TV局前の広場には家族の消息を尋ねる数千もの人々が集まり、地面や看板に無数の家族を探すビラが貼られ、ちょうど911後のWTC前の光景が思い出された。

TV中継される「見つかった!」「違っていた!」という寄せられた情報の錯綜と確認に、ほとんど全国民が固唾を呑み、一喜一憂したのだ。つまり、貧しい家の欠損家族の長男とは、韓国の戦後史そのものであることが、ここで念押しされるわけだ。

国際市場の妹(叔母)の店を頼れと言い残した父、混乱の中で手が離れ置き去りにしてしまった妹に心を残してきた長男がおろおろする姿には、涙が止まらなかった。

そのようにこの映画は、一人の庶民の長男を通して、韓国の朝鮮戦争戦後史を総括してみせた。

是枝監督の「万引き家族」はどうだろうか。まだ観ていないが、たぶん、「日本の貧困」について、ひとつの批評眼をもった作品だろうと思う。

「幾多の悲苦を乗り越えて私たちはいまここにいる」と「万引きをして食うほど貧しくなった私たち」という日韓の位置の違い以上に、そこには何か大きな格差が横たわっている気がするのだ。事実だけをみても、私たちは戦後史を総括するような映画や小説、アニメ、マンガをいまだ持っていない。

「国際市場で会いましょう」に圧倒されながら、いったいどこで私たちは創造性を失ってきたのかと考えざるを得なかった。私たちの父母、祖父母もそれに変わらぬ悲苦を味わってきたはずであり、私たちの「国際市場で会いましょう」ができてもよかったのだ。

それはつまり、私たちは日本の戦後史の物語を必要としなかったということになる。創造性もまた、必要によって生まれるのだ。「万引き家族」についても、柳楽優弥君がカンヌで主演男優賞を受賞した『誰も知らない』の自己模倣ではないのかという危惧を抱くものだ。

(止め)




スリー・ビルボード02

2018-05-18 09:09:00 | レンタルDVD映画
>フランシス・マクドゥーマンドの出てた映画は、「ファーゴ」から「マデライン」まで4本は思い出せますが、ウディ・ハレルソン、サム・ロックウェルが出てきた映画ってのは思い出せないので、多分楽しめると思います。顔見たら思い出しちゃうかもしれないけど。

「男尊女卑」のスターシステムが定着しているハリウッドをはじめとするアメリカ映画界では、ウディ・ハレルソンは格上のフランシス・マクドゥーマンドの倍以上の出演作があるでしょう。

その理由のひとつには、米映画の一ジャンルを成している、ガイキチ男役を女優は振られないというハンディのためです。ウディ・ハレルソンは若手の頃からガイキチやヘンタイ男役で売り出し、エキセントリックな演技で生き残ってきたのですが、近作の「ある決闘 セントヘレナの掟」では、温厚なガイキチ男という完成形を見せています。

ウディ・ハレルソンのWikiを読んでみて驚きました。実父はマフィアの殺し屋で獄死したそうです。私生活もかなりトンでいるようですが、「スリービルボード」では、犯罪者や殺し屋を演じたときとは顔つきをまるで変えて、意外な役柄をそれはみごとに造形しています。

「俳優の顔ぶれで、およその筋がわかってしまい、興ざめである」というのは冗談で、アメリカのポスターでは、3人の写真が均等に配されているので、アメリカの観客なら、あのサム・ロックウェルが単純バカゲスの南部警官のまま終わるわけがないとかえって期待しながら観るのでしょう。



私見では、この映画は間違いなくトランプ支持のはずのディクソンに焦点を絞った作品に思えます。映画作品を構図を当てはめて理解するのは邪道であり、トランプ大統領の誕生と映画公開はともに2017年ですから、トランプ大統領を予見し、さらにその支持者たちへの「和解」をうながした結末とするわけにはいきません。

それでもなお、「シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)」としたいくらい、ディクソンーサム・ロックウェルは素晴らしかったのです。南部のバカゲス差別警官がミルドレッドと和解するだけでなく、ハードボイルドに助勢しようとする変貌に、こっぴどく痛めつけられてのろのろとしか動けぬ身体と、愛するものを失った沈鬱なその表情に、観客は釘づけにされてしまいます。

アメリカの風土や空気をご存知のkaraさんなら、やはり大画面の映画館で観たほうが興趣が増すと思われます。いや、TV画面でもじゅうぶん記憶で補えるかもしれません。

追伸:もう一人、アメリカ映画界の名優が出演していたのを書き加えておきます。ピーター・ディンクレイジです。ショーン・コネリーばりに渋いです。



後先になりましたが、いつもコメントをありがとうございます。

(止め)




スリー・ビルボード

2018-05-17 22:54:00 | レンタルDVD映画


最近はTUTAYAのビデオレンタルより、CATVのオンデマンドで観ることが多いですが。

噂にたがわぬ秀作。筋にさわるとネタバレ必至なので書きにくいが、二転三転するストーリーがすべてのような作品。ただし、あきらかなミスキャストが、巧緻をきわめた脚本を台無しにした。

フランシス・マクドーマンド 、ウディ・ハレルソン、サム・ロックウェル、いずれも名優なのだが、サム・ロックウェルを起用したのは大失敗でした。無知無教養で差別的な南部の警官が登場して、あっ、「月に囚われた男」のサム・ロックウェルだ!と気づいたときから、この映画の主役は3人だとわかってしまう。

ゲイリー・オールドマンのスパイ映画「裏切りのサーカス」でも、さてこのメンバーのうちで犯人は誰なのか?と映画が語りかけても、コリン・ファースがそこで映されたら、ル・カレの原作を読んでいない人だって、こいつが犯人だとすぐにわかってしまう。ゲイリー・オールドマンに匹敵するスター俳優は彼だけなのだから。

たとえば、殺人事件が起きて、刑事たちが目撃者を探しているとき、聞き込みにまわった一人が犯罪現場近くの駐車場のガードマンで、それを役所広司が演じていたら、珍しく端役やちょい役で出ているのねとはだれも思わないでしょ。その他大勢的な扱いでも、スターや名優が登場したなら、観客はすぐに犯人か、あるいは事件のカギを握る重要人物だと思う、あれです。

主役が3人なら、ストーリーも三通りに決まっている。娘をレイプ殺害された母親ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)と彼女からいまだ捜査の糸口さえつかめぬ怠慢と追及される警察署長ウィロビー(ウディ・ハレルソン)、それぞれの仕事や家庭が描かれ、二人の軋轢にからんで暴発する部下のディクソン(サム・ロックウェル)というわけだ。

競馬でいうと先行するのが、やや体重重めの牝馬ミルドレッド、中盤で馬力をみせつけて追い上げてあれよという間に先頭に位置する差し馬がウィロビー、発走直後からドタドタと見苦しい駄馬の走りで最後方にいたはずなのに、ゴール直前ではなんとミルドレッドと鼻差で競っているディクソンということになる。

なるほどね、やっぱりディクソンの再生の物語が全体の伏線なのかと納得しかけると、反目していたはずのミルドレッドとディクソンがゴールを目前にして立ち止まり、なかよく踵を返し引き返すのだ。ミルドレッドとディクソンの道行き、コースどころか、競馬場すら後にして。ここだけは意外な展開だった。

結局、盛大にネタバレしちゃった感もあるが、あなたは、サム・ロックウェルを知らない? フランシス・マクドーマンドやウディ・ハレルソンも? それはよかった。それなら、私の2倍3売、この映画を楽しめるでしょう。ずいぶん興趣をそがれた気がしますが、そんな私でも、たぶん今年観た映画のベスト級になるだろうと太鼓判を押すことを厭いません。

(止め)

命の母A錠

2018-04-04 13:58:00 | レンタルDVD映画
日比谷公園の松本楼へは一度くらいは行ってみるべきだ。公園の緑を眺めながら、有名なビーフカレーを注文する。旨いというほどではないが、軽く食べてみるくらいの値段と量としては具合がよい。夏目漱石のようにビフテキを張り込む必要はない。

そんなことより、日比谷公園のど真ん中にある松本楼は誰かの所有地なのか、あるいは国や都からの借地なのか、いずれにしろ不動産価値としてはどのくらいになるのか、といった下世話なことでも考えるほかない、ちょっと退屈なぽっかりした時空間が訪れているのに気づく。

この洋食レストランはカレーだけでなく、かつて焼き討ちされたことでも有名だった。日比谷暴動事件である。映画『マザー!』の「衝撃的」な群衆・暴徒化の場面から、日本で同様なことがあったとすれば、明治38年(1905)のこの事件くらいだろう。

日本公開中止!ジェニファー・ローレンス主演作『マザー!』は、何が衝撃なのか?
https://movie.smt.docomo.ne.jp/article/1094326/

したがって、「日本公開中止」になった理由は、たんにアメリカでの興行成績が惨憺たるものだったから、以外には考えられない。宗教的な熱狂や群集心理の激発による略奪暴行、リンチ殺人などの暴徒化がこれでもかと連続するが、いずれも現代はもちろん、近代にさかのぼっても日本ではほとんど無縁といえる「衝撃」ばかりだ。

アメリカでは学校内の銃乱射事件をきっかけに、高校生たちが銃規制運動に立ち上がり、数千数万のデモに発展して話題を呼んでいるが、日本では選挙権が与えられた高校生の政治活動さえ学校の許可制であったり、労働者や一般市民の穏健なデモ行進ですら、「当たり前」のことではなく、白眼視されることも少なくない。

多くの指標やトピックが、日本の政治経済、文化がいかに劣化したか、低迷しているか、衰退の坂道を転げ落ちているかを明白に物語っているのに、群集が暴徒化するような兆しはこれっぽっちも見られない。むしろ、集団自殺するといわれるレミングを連想してしまいそうなくらいだ。

映画『マザー!』のひとつの読み方としては、マザーを地球、夫であり父を神、狂乱する暴徒を人類になぞらえているという。なるほど、もっともつじつまの合うメタファーだろうが、前述したように、日本を念頭においても、日比谷暴動以外にそんな記録はないし、関東大震災時の朝鮮人虐殺にしても、暴徒の手による暴行死ではなく、「密殺」に近いものだったと考えられる。

私には、この映画が描く「衝撃的」な場面は、西欧民主制の歴史と現在に読めた。「一神教」と「民主主義」に歪められた「暴徒」に惨殺され続ける西欧民主制が『マザー!』であるとすれば、エマ・ゴンザレスさんの感動的なスピーチを「母なる西欧民主制」から子殺しへの切なる訴えと聞くこともできる。

すると、日比谷暴動は日本の民主制における数少ない表象といえるわけで、なるほど、天皇が「一神教」にもっとも近づいた時代ではあったのだ。などと観た映画を反芻するには、うってつけの日比谷松本楼であった。

Emma Gonzalez gives speech at March for Our Lives rally



フロリダ乱射事件の高校生エマ・ゴンザレスのスピーチ和訳
https://note.mu/diafeliz/n/n80c6b17b22e0

(止め)


女優映画

2018-02-28 22:59:00 | レンタルDVD映画


映画「八日目の蝉」を観ました。その一週間前に観た、イラン映画「セールスマン」に勝るとも劣らぬ佳品でした。

「セールスマン」はイラン映画界を代表するアスガー・ファルハディ監督の最新作で、一昨年のカンヌ国際映画祭の男優賞と脚本賞を受賞、昨年のアカデミー賞で外国語映画賞を受賞した作品です。

アーサー・ミラーの有名な戯曲「セールスマンの死」を演ずる俳優兼教師の夫とやはり女優の妻。ある日、夫の留守中に妻が自宅に侵入した何者かに乱暴されてしまう。妻や夫はどうしたか、夫婦はどうなっていくのか。

夫婦間の葛藤を緊密なドラマに仕上げて、家族とは何かを考えさせる、いつもながらのファルハディ・タッチですが、「無関係な」演劇場面を挿入することによって、より内面的な深みに達しています。

平凡な中年夫婦の日常を描いた、この一見小品の後では、「エイリアン・コヴェナント」や「ブレードランナー2046」を観ても、チャチに思えて困りました。

「セールスマン」はレイプを扱った女性映画ですが、衝動に駆られて愚行に走る男を丁寧に描いた男の映画でもあります。

なぜか警察に訴えることを拒む妻に夫は苛立ち、自力で犯人を見つけて罰しようとします。妻の痛みや苦しみに共感しようとする前に、何が起きたのか、誰がやったのか、その決着をつけるまで立ち止まり、妻に歩み寄ろうとはしません。やがて、意外な人物が犯人として登場し、夫婦はそこで赦しに直面することになります。

「八日目の蝉」も女性や家族を扱った映画ですが、「セールスマン」のように女性に起きうる事ではなく、女性そのものを描こうとしています。主要な登場人物は女性だけ、登場回数からいえば男は刺身のつまくらい。その描かれ様も、家庭や家族を破壊するもの、あるいは性衝動にまかせて女にのしかかるもの、に過ぎません。

「八日目の蝉」には、「男がいらない女たち」しか出てきません。母と娘に焦点をあてながら、故郷に根を下ろして「ご近所」という親密圏を築くか、宗教団体をつくって「拡大家族」として結び合うのか、そんな女だけ、あるいは女中心の世界を母と娘が巡り歩くロードムービーです。

「向き合う」「寄り添う」などの言葉へ、なにがしか違和感と反発をぬぐえないのはなぜだったのか、この映画によってわかった気になりました。

相手の瞳を見つめる、傍らにそっと立つ、一緒に歩く、少しうつむき加減で話すのを聞く。友だちはもちろん、母と娘、年長と若年の女同士、女たちの間で交わされるこうした仕草や佇まいこそ、「向き合う」とか「寄り添う」なのでした。

男同士なら、向き合った相手の瞳に探すのは自分への敵意であり、もしくは怯えです。犯人を探し求める「セールスマン」の夫はそうでした。もちろん、そこに自分への敬意や称賛を見出そうとする呑気な男もいるでしょうが、それでも親密さは期待していません。

ただし、女の瞳には親密さを期待して見入ることはあります。ただ、自らの瞳が女の瞳にどのように映っているかは知らないし、たいていは関心もないのです。

「八日目の蝉」には、心配そうに瞳をのぞき込む、いたわりをこめて礼を述べる、大丈夫よと励まそうと直視する、女が母と手をつないでいる娘に、まず先に屈んでその瞳をとらえ声をかける、そうした「共感」の場面が連続します。ごく自然にできますよといえる男は少ないでしょう。

中島みゆきの歌ではありませんが、女たちの共感の「横糸」が織りなす映画といえます。この映画の「縦糸」は「共感してよ!」と心で叫ぶ実母と「共感なんかいらない」と心中でつぶやいている娘でしょう。「縦の糸はあなた~♪」はやはり男ではないのです。

「女がいらない男たち」の物語はたいてい「地獄めぐり」になりますが、「男がいらない女たち」のロードムービーでは、青空に白い糸が風に吹かれて伸びていくようです。

女優たちはそれぞれがまるで代表作を得たように好演しています。口角上げがデフォルトの女優界にあって、唇がいつもへの字に下がっているという一風変わった女優である井上真央をはじめ、永作博美、小池栄子など、びっくりするほどです。とりわけ、私が注目するのは森口瑤子です。アスガー・ファルハディ監督に推薦したいくらいです。



(敬称略)