毎回、同じところでの写真になってしまいます(汗
11月23日は八甲田山がきれいに撮れました。もしかしたら常連さんということで気遣いを?
埼玉に住んでいるせいか海を眺めていると飽きません。
観光地でないところのほうがリフレッシュできる、ということがありますので、どうぞ青森へ。
たとえば地元の人のたまり場へ旅行者が仲間入りをして
津軽弁の会話を聞くことも楽しいかもしれませんね。
かだれば いいでばし (いっしょになればいいのに)
毎回、同じところでの写真になってしまいます(汗
11月23日は八甲田山がきれいに撮れました。もしかしたら常連さんということで気遣いを?
埼玉に住んでいるせいか海を眺めていると飽きません。
観光地でないところのほうがリフレッシュできる、ということがありますので、どうぞ青森へ。
たとえば地元の人のたまり場へ旅行者が仲間入りをして
津軽弁の会話を聞くことも楽しいかもしれませんね。
かだれば いいでばし (いっしょになればいいのに)
熱いおそばを食べた後、県立図書館・近代文学館に出かけました。
2015年に出かけたことがあって、これはそのときに撮ったものです。
この立派な図書館の建物は、1994年に建てられたようです。
(小さい声で)バブルが弾けて建設業などその影響を少なくするために、地方が受け皿になった?
それにしてももう少し使い勝手の良いものをつくるべきだったんでは・・・・・
不便なところでしかも刑務所の近くという土地利用?
元NHKアナウンサーである鈴木健二氏が1998年~2004年の期間、図書館長を務められていたんだとか。
苦肉の策で人寄せパンダを務めていただいたわけじゃ・・・・
誠に失礼な発言を申し訳ありません。なお、けっして炎上を望んでいるわけではありませんのでよろしくお願いいたします。
展示はたいへん貴重なものだったりしますので、私のブログ「メゾフォルテからあなたへ」にお出でいただいている方などにはご満足いただけるだろう内容です。
あまりにもったいない贅沢な空間なので、全国の太宰ファンを集めて、太宰の集いを開くとか、鴎外ファンも集めてしまうとどうだろうかなどと、ついつい考えてしまいました。
展示をゆっくりみて(東京・上野などとは違って)、ビデオも見て、太宰治関連の資料集を購入しました。
太宰ファンの方でご興味がある方はどうぞ青森近代文学館にお問い合わせください。
出かけるときはホテルからタクシーに乗って、そのタクシーの運転手さんに帰りのために会社の電話番号をお聞きしたんですが
いざ電話をかけてみると、出払っていて・・・とのこと(泣
バス停に行ってみると10分ぐらいで来そう・・・・・
バス停の近くから八甲田山のすそが見えました。風が冷たい(><)
到着時間を過ぎてもバスがなかなか来なかったのですが、通りかかったタクシーを見つけることに成功
なんでもこの路線のバスは、長い経路を走るため時間通りとはいかないとか。
青森はタクシーが便利なところですが、中心街を離れるとけっこうたいへん。
青森でもスマホで配車を頼むことができるようなんですが、スマホなしの婆さんは寒風にさらされて時間通りではないバスを待つことになる?
タクシーを呼べる電話の設置とか、バスの合理的な運用とかスマホなしの婆さんをお見捨てなくお願いいたします。
タクシーが外国人観光客のためだけになってしまう、ということになりませんように。
一事が万事というか、日本のあれこれの便利なサービスが国民が使えなくなって外国人のためになっていく、ということには歯止めが必要ではないでしょうか。
ホテルに戻って、ホテルの中にある「みちの久」で熱いおそばを。
ホテル青森は、実家から歩いても行けるところにあり、両親が老いてから帰省することが多くなり、ずいぶんお世話になってきました。
私が結婚したころはまさに日本の短かったバブル期の真っ最中。
母が張り切って青森で結婚式やこのホテル青森で披露宴を取り仕切り、主人は東京で自分が司会をして披露宴をしたという思い出があります。
そのころの私の写真は無表情で・・・・・ 健康そうにもみえません(汗
今や古くなったホテル青森は同様に年を取った私にとって落ち着く場所として感じられます。
以前の「みちの久」についての記事は こちら
その後、父の法要もあってお世話になった「みちの久」の方と、今回お話しができました。
父の最後の宴のことを覚えていただいていたようです。
介護問題を考えるとき、介護職従事者や介護にかかわる家族のために、ほっとできるホテルあるいはホッとできる場所というものが必要ではないでしょうか。
儲かっている企業が、儲からない事業も引き受ける、といったこともお願いしたいと思います。
10月に亡くなった母の49日法要のため、11月20日から23日まで青森に出かけました。
20日夜9時少し前に青森に到着。
雪が降っていましたが、まだ本格的な雪という感じではありませんでした。
これは明け方に撮ったものだったかと・・・・・
21日の午前、法要で出かけた蓮心寺の前の庭です。紅葉に雪の白色が張り合っているような。
法要で浄土真宗の正信偈を本を見ながら聴くことで、その間だけは邪念が消えるというかそういう気分になりました。
日本はあれこれの宗教に接する機会がけっこう多くあるのだ、と思います。
それだけ過去に厳しい出来事があった、ということもいえるでしょうか。
実家のご近所の方たちに挨拶に伺いました。
お隣の奥さんは若い方ですが、涙を流していただいてありがたく思いました。
母は椅子から立ち上がれなくなって、病院に入院、そのまま老人ホームに入居させてしまうことになりました。
20年以上も飲んでいた睡眠導入剤や睡眠薬を止めてしまったため、娘としては、かつての精神的な症状が出ないか非常に不安でした。
薬を止めた母が攻撃的な言動が多くなっていたことは事実です。
高齢者が多くの種類の薬を飲むことが問題視されていますが、さらに長年飲んでいた薬は様子をみながら減らすということも必要そうです。
刃物の持ち込みは禁止されていて、部屋でりんごを自分でむいて食べたいのでナイフが必要、といわれても聞こえないふりをしたりしました。
かなり介護に慣れた方でも、母のようなタイプの介護は難しかったと思います。
それでも多くの介護の技術や経験の蓄積があって、こういった暴走気味の老人をなだめる方法を広く共有できれば介護心中なども防げる場合があったりするかもしれません。
難しい介護については、多くの人の知恵を集めるべきだと思いますが、あちこちに相談できるというわけにはいかないように思われます。
結果的に、骨折で病院に入院し、手厚い看護やリハビリがあって、どうにか母の気持ちが収まったかのように見えました。
この手厚さというものは、介護保険に頼らなくても、たとえば多くの人たちが週1回の介護のボランティアによって実現可能のような気もしてきます。
実家近くの川の土手は多くの人たちの散歩道です。
母の亡くなった後のせいか、2羽のカラスが父と母に感じられたりします。
姫りんごの木がありました。
青森に森鴎外が2度も訪れていたとは。
高校生のときにでも知っていれば、もっと作品を早く読んでいたのに、と思ったりします。(汗
森鴎外についての私の記事は、「メゾフォルテからあなたへ 森鴎外」で検索をお願いいたします。
市役所の隣には、日本銀行青森支店の建物があります。
幼稚園が近くにあって、この建物は当時からそのままです。
青森は、今失われてしまった地方の豊かさというものを記憶しているようにも感じられます。
善知鳥神社から新町通りを通って、ひとやすみ。「シュトラウス」という喫茶店に入りました。
父は若いとき、若手経営者の集まりである青年会議所に入っていて、新町のお店の経営者の方たちとお付き合いがありました。
こちらのお店の先代の方からも先輩としてあれこれ指導を受けたようです。
家族での集まりなどもあって、小学生ぐらいの私は初めて砂糖とクリームをたっぷり入れたコーヒーというものを飲んだ記憶が・・・・
ふと、そこに若い母がいるような気がしました。
母は父が亡くなって独り暮らしをしていましたが、ケアマネージャーさんをはじめヘルパーの方、また病院や老人ホームでも多くの方たちにお世話になりました。
かなりわがままなタイプであったため、今でいうパワハラといったことも再三あったのではないかと思います。
母生前のご厚情に心から感謝するとともにお詫びを申し上げたいと思います。
被害妄想のため、置き忘れたりしたものを誰かが盗んだとか、自分の財産を狙う人がいるとか
娘としては聞き流すことができず、叱ってしまったことが心残りとなっております。
この高齢者の精神的なケアを充実していかなければ、介護者を苦しめることになると思います。
どういう精神的なケアが効果的なのかを考えるのは、高齢者の入り口にある世代の仕事なのかもしれません。
10月12日と13日は青森の実家に泊まりました。
12日は台風19号の影響で、青森もかなりの降雨量があって近くの川の増水が気になって服を着たまま、ラジオを枕元に置いて眠ったほどです。
ネットが使えないため、テレビのdボタンの天気情報が頼りで、青森と所沢の状況を何度も確かめたりしました。
おそらく、被災されてたいへんな思いをされた方もかなり多かったと思います。
昼頃に雨が止んで太陽が顔を出しました。
そこで、気になっていた善知鳥神社での森鴎外の足跡を調べに出かけました。
桜川団地から市営バスに乗って市役所前で降りたのですが、そこに「空襲・戦災都市 青森の碑」がありました。
2005年7月に建てられたもののようです。
ついつい、子どもは理想の母親を求めて不満に思うということもあるのかもしれません。
その不満が欲に変身する? 戦争へとつながる場合があるのかもしれないと、いつもとは違う感想を抱いたりしました。
告別式のあと、納骨のため三内霊園へ。
10日、11日の青森は晴れて、ありがたかったです。
副住職さんも到着して、納骨を始めようとしたとき、お骨を納めるところの蓋の石が数人がかりでも開かず
父の一周忌のときに新しくしたお墓だったので、開け方が違うのではとか、バールを持ってくるとか
墓石店に電話したりして、大騒ぎでした。
蓋の石に挟んでいたゴム状のようなものがくっついていたためのようで、ガタガタを動かしているうちに動いて一安心。
青森では、骨壺を使わず、木箱からお骨を直接入れる方式のようです。
この墓には父の祖父母、父母と父の兄弟と家族たちが眠っていて、墓石に刻まれた「倶會一處(くえいっしょ)」の通りになっております。
兄弟が多いと共同のお墓になっていき、墓仕舞いの心配がないことになります。
この納骨が済んだのは午後3時半ごろでしたが、ここから「川よし」へ。
父も母もうなぎが大好物でよく出かけたお店です。
賑やかな法要の食事となりました。
高齢で亡くなると、葬儀といっても久しぶりに親類が集まって祝い事のようになるのは、兄弟の多い父の世代までなのかもしれません。
少子化で葬儀もクールになっていくのはちょっと寂しい気もします。
青森では、一般的に、火葬 → 通夜 → 告別式 の順に行われます。
また、母のように93歳となると友人が高齢でお知らせするのが申し訳ない場合もあったりで、弟夫婦に万事任せて、家族葬の形になりました。
父の場合と同じく、千一ちんだという葬祭店にお世話になりました。
今回、母は、ふるかわ葬想会館というところの安置室に6日間ほどおりました。
弟夫婦はマンション住まいで、また私はすぐには出かけられないためですが、安置室といったところもますます必要になってきそうです。
この葬想会館は、父の生まれた本家がかつてあった場所にあって、その巡りあわせに感慨深いものがあります。
父は11人兄弟の2番目、11人のうち5人が亡くなっています。
今回は、青森にいる父の兄弟や甥、姪が来てくれて、弟夫婦と私の息子たちも加えて、火葬の待ち時間はかなり賑やかなことになりました。
こういった場での津軽弁のやり取りは、関西よりも活発ではないかと思うほどです。
父の兄夫婦は早く亡くなったため、母は多くの兄弟の兄嫁の立場であったのにも関わらず、その役割はあまり果たしたと言えないのですが・・・・
親類が集まってみると、どこかしらに共通点があったりして、私の息子たちは津軽弁のやりとりがわからないものの興味深い機会であったようです。
その後、浄土真宗大谷派の青森・蓮心寺で通夜・告別式が行われました。
この3年間に父の葬儀、法要でお世話になっており、このお寺が身近な存在に思えてきます。
また、床暖房がありがたかったです。
父も母も遺影の写真は弟が選んだのですが、若過ぎず、衰えが目立たずのよい写真で、また青森の写真屋さんは技術が高いかも、と思ったりしました。