いま、私はお隣の家を借りて住んでおりまして、その向かいの土地が更地となり新築の家が建ち、年末には若いご夫婦と赤ちゃんの3人家族の方がお引越しされてきました。
以前の記事で、住居の新築工事の一部をご紹介しましたが、仕上げの工事の写真をアップさせていただきます。
カーポートの部分です。2台の車が駐車できるたっぷりしたサイズです。
風や雪にも耐えられるようにがっちりしています。
ブロックで囲まれてます。
いま、私はお隣の家を借りて住んでおりまして、その向かいの土地が更地となり新築の家が建ち、年末には若いご夫婦と赤ちゃんの3人家族の方がお引越しされてきました。
以前の記事で、住居の新築工事の一部をご紹介しましたが、仕上げの工事の写真をアップさせていただきます。
カーポートの部分です。2台の車が駐車できるたっぷりしたサイズです。
風や雪にも耐えられるようにがっちりしています。
ブロックで囲まれてます。
納戸の天井が一部壊れていて断熱材が顔をのぞかせています。
できるだけ暖かい家をと望んで、たくさん断熱材を敷き詰めたようです。
この断熱材を取り除いて、どの程度家が傷んでいるのかを見てもらうことにしております。
すきま風の家に長く住んでいる私などは、実家に泊まると空気が密に感じたりしてあまり好きではありませんでしたが・・・・
床については、他で水にぬれて反りあがってしまった家があったとかで、その点はもしかしたら大丈夫かもしれません。
亡くなる少し前に父と話したのが、雪の重みに耐えたヒバ材のよさについてだったんですが、さて柱などはどうなっているのか。
主人の母も合板の床と木の床では温もりが違うといっていました。現代人はそうった違いを感じられなくなっている?
コロナ禍のようなことがあると、再び身の回りの居心地にこだわりを取り戻す?
商業主義に踊らされることなく、あるいは見栄にこだわらず、居心地について考えてみませんか?
広い道路沿いでも古い建物がそのままになっていたりします。
これから、都会でもビルの空き家問題ということも顕在化してくるのかもしれませんね。
海のない埼玉に住んでいるせいか、潮風を気持ちよく感じたりしますが
建物にとってはもしかしたら劣化を早めるのかもしれません。
また、強めになっているという紫外線や電磁波は建材などに対してどのような影響を与えるのか・・・・
青森は、さまざまに想像を膨らませる材料に事欠かないようなところです。
善知鳥(うとう)神社に森鴎外が出かけたようで、このあたりの道を歩いたかもしれません。
寺院の国分寺のすぐ近くに、国分寺市重要有形文化財の旧本多家住宅「長屋門」がありました。
代々国分寺村の名主であった本多家の屋敷の入り口に、表門と先代当主の隠居所を兼ねて、江戸時代末期に建てられたものだとか。
シンプルで合理的に感じられるのは、コロナウィルスのせいかもしれません。
隠居となった先代が門番に?
耳が遠かったりしたら・・・・・
たぶんお世話をする人がついていて、大丈夫なんでしょうね。
江戸時代から明治にかけて、国分寺村は堅実な合理性をもった名主がいてよかった☆
ということが感じられたりしました。
湧水地がすぐ近くにあるようなこの土地は、かなり価値があったのではないでしょうか。
守り方というものを参考にする必要があると思います。
高齢者もいろいろな形で防衛に参加できる、のではないでしょうか?
また当時もさまざまな疫病があったはず。
疫病対策として、この建物をみる、ということも大事そうです。
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それにしても、幕末期にこんな価値のある土地は大丈夫だったんだろうか、と思ったりしたんですが
よく考えてみれば、近藤勇はこの近くの出身でしたね。
つまり、かなり剛の者たちを育成していた、ということがあるのかもしれません。
ついつい京都での抗争や戊辰戦争ばかりを考えてしまいますが。
萌黄の館の内部です。窓に特徴があると感じられたりします。
2階からは海が見えます。当時は多くの船の出入りが見えたのかもしれません。
マントルピースのタイルがきれいでした。
玄関からすぐのところにある椅子です。
次々と来客があり、待っている間も情報交換とか?
この館はアメリカ総領事ハンター・シャープの邸宅として建築されたとか。
イギリス人の建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルの設計と推定されているとのこと。→ こちら
まるで女性が設計でもしたような繊細さが感じられたりします。
この館が1903年にできたのだとすれば、風見鶏の館の1年前ということになるようです。
なるほど、風見鶏の館からのほうが萌黄の館への出入りがよく見える?
1904年は日露戦争が起きた年ですが、そのころの神戸は多くの外国人がやって来て情報収集をしていた?
などと想像してしまいます。
住人たちは、それほど長く住んだわけではなく、移り変わりのあり様を想像すると
まるで映画の舞台のようにも見えてきます。
それぞれの館の「窓」からは何が見えたのでしょうか。住人たちの胸に去来したものは何だったのでしょうか。
さらに想像を広げると、植民地を支配する側も思いのほか大変な思いをしていたかもしれません。
酒井美意子「ある華族の昭和史」から
・父はドイツやフランスに私費留学したほか、頻繁に欧米諸国へ出張し、陸軍きっての外国通となる。
武官というものは任務が機密諜報であることは公然の秘密であるが、父もまた滞在国の要人や各国の駐在武官達とゴルフやブリッジに興じながら軍の機密を探り合い、社交界の美人たちとワルツを踊りながら情報を蒐集した。
・彼は屡々(しばしば)、滞在国の美青年を使ったり何人もの男女のスパイを操って軍の高官に接近させ、動員兵力、倉庫、航空技術などを探らせた。それを暗号に組んで参謀本部あてに通報する。これをするには途方もない費用がかかるが、父はすべて私費でまかなった。
・昭和十二年十二月、弘前第八師団を率いた前田部隊はソ連国境の綏陽(すいよう)に布陣して防衛にあたった。零下四十度の雪原である。ソ連軍は絶えず越境して来て小競り合いになるが、父は相手の挑発に乗るなと厳命して、事態を穏便に収拾することに心を砕いた。
・しかし当時、植田軍司令官が統率する関東軍やその配下の第三軍(山田乙三中将)の中にはいまだに日露戦争の勝利に溺れて「ソ連恐るるに足らず」と嘯(うそぶ)く将官が少なくなく、事ごとに父と衝突した。
・父は日本陸軍の実力と物量では、飛行機と戦車を主とする大平原の戦闘は勝ち目がないと進言し、中国とソ連の両国を敵とする二正面作戦は絶対に回避すべしと繰り返し意見具申する。わけても関東軍の参謀長の東条英機中将とは屡々(しばしば)机を叩いて激論を交わした。
・だが戦争回避を主張すればするほど、前田中将は弱気と見られ、関東軍の作戦に楯つくと疎(うと)まれて、遂に十四年一月に解任され、予備役に編入されてしまった。
・十四年九月、父はノモンハン惨敗の報を聞いたとき、日記に「残念至極」とのみ書き、愚かな指導者のためにむざむざ犠牲にされた多くの兵卒たちを思やって怒りを抑えかねた。
・太平洋戦争が始まると、父はボルネオ方面陸軍最高指揮官を拝命して軍務に服したが、十七年九月五日、司令部のあるクチンからミリに向け飛行中に消息を絶った。以来、陸海軍合同の捜索の末、十月十七日ビンツル沖の海中から飛行機の残骸とともに遺骨も引き揚げられた。父が愛用の「陀羅尼勝国(だらにかつくに)」の軍刀が”く”の字に曲がり、衝撃のすさまじさを物語っていた。
・墜落の原因は一人の目撃者もないことから、エンジン故障説、落雷説、敵機の襲撃説などが憶測された。戦後になってアメリカ太平洋艦隊の某提督の、「ジェネラル・マエダはB29の編隊が撃墜した」との話が伝えられたが、それとてもさだかではない。
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日本でゾルゲが逮捕されたのが1941年(昭和16年)、処刑は1944年(昭和19年)ということにも影響があるのかどうか。
前田利為は、東条英機と同期でいずれ陸軍大臣、首相といわれた人物であったので、戦後に戦犯とされて処刑されることになったかもしれません。
戦争は、有能な人物から先に命を奪っていくこともありそうです。
前田利為がどういう人物かも知らずに駒場公園を訪れて、この広大な建物を見学することになったのは不思議としか言いようがありません。カメラもくたびれるはずです。
時代も土地も家柄も選んで生まれることはできない・・・・・
けれど、伝えたい思いは伝わるのだ、ということではないでしょうか。
階段周りも気になります。
洋館2階は侯爵家の居住空間だったようです。とくに夫人室が立派で豪華でした。
イギリス製の家具が並べられ、壁紙・カーテンなども特別のように感じられました。
前田利為侯爵の夫人菊子について こちら
旧姫路藩酒井家の出身とのこと。
菅原道真の加賀前田家よりも土師氏→大江氏を先祖とする酒井家の方が格上!ということのようです。
世界恐慌は1929年(昭和4年)→ こちら
このころ円高となっていたようですから、多くの調度品購入や高級建材をふんだんに使うことができた、ということかもしれません。
また、前田利為は情報収集という役割もあったようなので、外国人バイヤーから多くの情報を提供されたということもありそうです。
私のカメラが豪華な部屋にびっくりしたらしく、2階で動かなくなってしまったのが残念です。
1階で魅力的だと思ったのは階段下のスペースでした。
マントルピースと隠れたところにソファがあります。
こういったスペースをイングルヌックというのだとか。
待合室とか来客同士が挨拶を交わすとかさまざまに使われたことでしょう。
広い部屋よりも小さな部屋のほうが居心地がいいのではなかろうか・・・・と思ったりします。
広壮な家を建てようかとお考えの方はご一考を。
窓についてもそれぞれが表情が異なっているように感じられます。
ガラスの縁が外側でカットされているのと内側でカットされている部屋があるようです。
たとえば太陽光線が部屋に入り床で虹色になる効果があるんだとか。
食堂です。
イギリスで暮らしたことから、食事は洋風であったようです。
前田利為夫妻は、内外の接客でパーテイ続きであったようで、外国人の賓客の接待のほかに軍人の宴会も開かれたようです。
意匠に使われている装飾は、ギリシア由来の「アカンサス」というものだとか。
→ こちら
あちこちに使われていて、装飾が過剰じゃないか・・・・ギリシアがヨーロッパ思想の源として尊重されているからなのだろうか、などと思ったりしたのですが、よくみると菊の葉に似ているんですよね。
アザミの種類でアザミはキク科だったとは。なおアカンサスはハアザミ属でキツネノマゴ科とのこと。またアザミはスコットランドの国花のようです。→ こちら
キクもアザミも食用になる、ということにも共通点があります。
酒井美意子によれば、父である前田利為は、いずれ日本に革命が起こると考えていたようですが、それでも残るもの、としてこの建物を考えたのではないでしょうか。
確かに数々の変遷にも関わらず残っています。
前田利為について こちら
戦死した加賀のお殿様の遺言としてこの建物があるような気がしてきます。