戦争の条理、不条理とは?
よく使われるのが不条理の方である。それじゃ、条理 不条理とは何か?と考え始める御仁は少ない。それでドクター康仁が代わって説明いたします。(今日は月曜で、予約患者も少ないようだ。週明けは憂鬱になるが、考える楽しみがあるので、今日は良しとするか。)
私が起こした保証金請求訴訟
賃貸契約で出た物件の持ち主に契約どおりの保証金返還を要求したら、断られ、調停には欠席を繰り返したので保証金請求訴訟を提訴した。(丁度、竹島の領有権をめぐって国際司法裁判所に提訴しようとしている日本政府の如き有様で、相手が一顧の値打ちにも値せずと相手にしない。)ならまだしも、逆に公序良俗に反する、社会通念上許されない違法請求であり、精神的苦痛、肉体的変調による損害賠償請求も加えられ反訴されたことがある。裁判用語であれば「私が条理に反する」とする原告側の反訴ならびに損害賠償請求は事実根拠なしと棄却され、再び私からの請求事案に戻り、被告側敗訴→高裁で控訴棄却→そして私の完全勝訴(金が戻ってきた)となった。
このような「条理」の用法は社会における物事の道理、筋道、公序良俗とかいう意味であろうが、これまた「循環理論の類」で意味がはっきりしない。思考の罠に近い。
裁判心得として、「民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ。」とある。そうしてみると「習慣>条理」となる。ややこしい。「民事の裁判について法律や習慣がない場合に条理が法源となる」となると、条理とはいったい何ぞや?の疑問が尽きない。
「習慣>条理」であれば、解説は省くが自然法に近い。ところがであるトマス アクィナスの「神学大全」中の「自然法ならびに神法は神的意志から発出するものであるから、人間の意志から発出するところの慣習によっては改変されえないものであり、ただ神的権威によってのみ改変されることが可能である。したがって、いかなる慣習といえども神法や自然法に反して法たるの力を獲得することはできない。」となると、「神的意思>習慣=慣習>条理」となる。当然、エジプトの太陽神、神とされたファラオ、キリスト教の神、イスラムの神、インドの神々、現人神、軍神などなど までとは言わないが全て条理より上位に位置することになる。まあ、そこが日本人の柔軟性であるわけだが、現実的対応として日本のそれまでの伝統的な考え方を条理に紛れ込ませて裁判していたわけだ。
万が一法令も慣習法もない場合であっても、それを理由として裁判を拒むこともできないので、その場合には条理に従わざるを得ない場合もある。ただ、この場合でも、条理それ自体は法の源(みなもと)としての一般的な規準にはならず、法の欠缺がある場合の法解釈の一般原理の問題に帰することなる。
そろそろ読者も飽きてきただろうから、「戦争の不条理」の不条理に論を進める。
不条理(absurd)私は16歳の高校時代に(ばかばかしい、理屈に合わない、理不尽な、反常識、不協和的)と覚えた。ノートが残っている。名詞形はabsurdity(名)と記載してある。医学部入試には出なかったと付記までしてある。類義語?unreasonable, beyond or anti- common sense, not logical, nonsense? ×(違うという意味で)immoralと記載してあった。当時の辞書は紛失した。出典は私のノートである。私が「パクッた」原典は行方不明である。記憶力が良かった当時と比べると、脳細胞の絶対数が減少したものの、ネットワークは比較にならないほど現在の方が改善している。
で、現在の私からすれば、類義語の類は無視して、absurdはabsurdであると限定する。非倫理的などとは思わない。それじゃ不倫と同じになる。Against humanity(非人間的、非人道的)ともagainst pacifism(非平和主義)とも思わない。カミュの「ペスト」「異邦人」カフカの「変身」も読んだがabnormal(変身ならぬ変態)と感じただけで、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」トルストイの「復活」野坂昭如の「四畳半襖の下張」なんかを愛読した。
VHSのビデオの極初期の時代で、同階の金持ち息子の下宿人が留守の間に(当時はマンションという言葉すらなかった)、その男の所有する今村昌平の「ニッポン昆虫記」のビデオを何度も見返していたら、テープが絡んで、ビデオの本体が再生機器から出なくなってしまい、無理やり引きずり出したら未練たらしく延びたテープがずるずると出てきたのでハサミでちょん切って知らん顔を決め込んだ。テープの所有権を有する男は、私の家宅侵入、器物損壊に気が付かず、時効成立となった。
風に連動して波動する麦畑を眼下にして荒井由美の「あの日に帰りたい」を壊れかけたソニーのラジオ付き再生機で聴き 灰皿としていたコーヒーカップを洗ってはまたそのカップでコーヒーを飲むのを繰り返す学生時代だった。
あのころは勝共連合、革丸派、キリスト教勧誘派、創価学会青年部なんてのがよく来たもんだ。
ドアを蹴破って入ることは無かったが、「やー」「こんにちは」「また来ましたよ」なんて「旧知の如き馴れ馴れしさ」で私のジャン卓にしていたコタツの対面(といめん)に座り込んでくる。中にはカミチャに横座りしてくる物もいた。シモチャは麻雀する時以外はガラス窓の西向きの壁にくっ付いているので、座るスペースが無い。灰皿代わりのコーヒーカップを廊下の共同流しで極(ごく)簡単に洗浄し、砂糖も入れず、ましてやクリープも入れずに安コーヒーに水道水を注ぎ、ダマになってもお構いなしの代物を対面にポンと置き「それ飲んだらケーってくれ。俺は忙しいんだよ。ただいま勉強中」と言うも、こちらの「黙殺」にはお構いなしで、ピカドンは食らわなかったものの、勧誘行動の一貫としてのマニュアル会話をお粗末な頭脳で言い始める。以下思い出すままに
「歴史の必然から、我々は不条理な共産主義を破滅させるが、鈴木君はどう思うか?」
「思うか?なんて訊かれても思わないんだからしょうがねいよ。歴史ってのに条理とか必然性は感じないし、後になって一部が事実認定できることだろ。もともと親父同様、共産主義なんてのには興味なし 時空的四次元の話は止めよう 以上!」
「自己批判しなければ駄目だよ! 鈴木君!」
「俺は他人も批判しないから、ましてや自己批判などしないさ。許可なく対面に座って俺を洗脳しようとする馴れ馴れしいのみならず横柄な君の態度!こそ自己批判しなくちゃならないって。自己批判?興味なし 以上!」
「イエス様の再生復活って信じます?鈴木さん」
「輪廻ならある意味共感も出来ないことはない けどな 死体がおのずから蘇生するわけはないから医者の卵に信じろという方が土台無理。そういう不条理をお姉さんたちは条理としているんだから、住む世界がちがうって やたら下宿を絨毯爆撃するんじゃないよ。以上!」
「不条理にもキリスト教のシンボルの浦上天守堂の上になぜ原爆が投下されたか ご存知ですか? 鈴木さん」
「俺に聴く前に、落とした方に聴くのが先だろう。天守堂の隣には野良で働く仏教徒、稲荷信仰の物売りオバチャン、おしら様信仰のオジイサンだっていたんだぜ 以上!」
私の発した、だいたい2センテンス(文章 判決)で相手は帰っていった。性懲りもなく再訪する際にはそういうマニュアル的会話からは距離を置いて、身近な話題から話し出す。ドアがロックできない構造になっていたから、侵入を防御しようが無い。「考えたことも無いよ。興味も持てない。忙しい ケーってくださいな」で帰って行く。「マグダラのマリア様の真似できるかよ。ヌード付きラインダンス見せてくれたら考えんでもないけど お姉ちゃん達(だいたい年上が多かった)」これで二度と来なくなる。
そして、半年前
「あっそうですね、まだアナログのテレビでなんですね。チューナーをおとり付けてないのですね。それではチューナーをお取り付けになりましたら、NHKの方にご連絡くださいね」
「みれば分かるだろうによ。お互いワーキングプアだしな、そんな自己申告するやつがいねーってことは、あんたのような頭がいい可愛いこチャンだったら分かるだろう、頃合を見計らってまたこいや いけねえ 俺は風呂入ってたんだ、お爺ちゃんのヌードってのも、たまにはいいだろう うん?」
半年は来ていない。
ワーキングプアの医者の部屋。迷い猫のリリーが右端で俺を見ている。
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