永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

変わる街。

2011-04-12 12:59:19 | 日記・エッセイ・コラム
市立医療センター前を通っていたら、ばったりUさんと出会う。何年ぶりだろう。ぼくより10くらい歳が離れているけどイメージは昔とひとつも変わっていない。Uさんはもともと建築設計畑の人だけど、なぜかグラフィックデサインの仕事をしていた人。設計といえばどちらも同じようなプランニングの仕事だから似たようなもの。
Uさんは現在グラフイックデザインの仕事をやめて環境の会社を立ち上げているとのこと。今の時代に通じる仕事である。Uさんは熱っぽく環境のことを話し始めた。こんどの震災のこともおこるべくして起きた環境問題だと、時代と環境と設計をつなぐようなことを云う。Uさんの熱心な話しを聞いていて、ああ、これもUさんのデザインなんだと納得。Uさんは昔からベンチャ-的なところがあり行動力にあらためて納得する。
通りの向こうのビルを指して、そのビルに事務所を持っているという。「あの辺りのビルに画材屋のG堂さんがありましたよね」というと、Uさんは「ああ、でもいつの間にかになくなってしまったよ」という。ある時期、医療センターあたりは立地としてデザイン関係に結構便利なところでした。
小倉駅から走る大通りが旦過あたりからゆっくりとカーブして左側に古いお寺があり、その裏手に田川ホテルと川の流れに沿うように町並。その風景に小倉らしい、しっとりとした風情と趣きを感じることができて好きな町のひとつであります。
向こうの紫川方面には高層ビルがニョキッと、あたりを制するようにそびえています。Uさんと話しをしていると少しづつ街の様子が変化してきているようでした。



継なぎ目。

2011-04-11 13:57:10 | インポート
選挙が終って東京だけが盛り上がったように思います。地方はしらけていて、当選された方のほとんどは相変わらず、地方からの発信とか繁栄といった型通りのメッセージしかありません。結果後も当人さんたちの個性と魅力は感じませんでした。
それからすると都知事のメッセージは個性的でアピール力がありました。自動販売機やパチンコは必要ないと言い切るリーダーは、わかりやすく身近なことばで発信しているようです。文学者らしくことばが明解です。やはりことばは大事だと思います。
いまからの時代を生きていく上でのアンチテーゼとして、ひとそれぞれのアイテンティティや生き方が問われてくるののかなと思います。モノに対する価値判断がひとつ狂うとおかしくなるだろうし、ちょっとした判断で、これまでと違う生き方ができるかもしれません。
日本の文化には、生活や行動に“ワビ・サビ”といった茶の文化みたいなものがあったと思うのですが、それは質素な生活の中に知性や感性を感じる精神文化みたいなものだと思います。それは美意識にもつながる日本独特のものだと思います。このことは、それほど資源を使う必要もなく、ほんとうの意味でのエコだと思います。便利さ、享楽、豪華さを追い求めてきた高度成長期からバブル期を経て現在まで、質素というデザインの考え方は、便利さ、享楽、豪華に引け目を感じることなく新しい価値になって、これからの時代の大系をつくっていくことになるのかもしれません。



春の訪れと関門海峡。

2011-04-05 11:10:53 | 日記・エッセイ・コラム
先日、日曜日に門司港・和布刈に花見に行きましたが、まだ桜はちらほら。海峡の風がまだ冷たいから、桜も縮こまっているのでしょうか。ことしはちょっと開花が遅いようです。
奥さんの友達、ぼくの友達でもあるKさんとめかり海岸横の芝生から見える春の海峡観潮会をしました。
午後3時くらいになると潮が曵き始め、田野浦方面からの潮流が凄いスピードの流れに変わりはじめました。東流れから来る船は、ゼイゼイ喘ぐように流れに逆らいながら走ります。
幕末の頃の関門海峡で長州と戦争をした英、蘭、佛、米の四カ国連合艦隊の船は、よくこんな海峡の流れの中で作戦を展開したものだと思います。
海面には穏やかな陽が差し始め長かった冬も終り、やっと関門に春が来たようです。


Rimg0003
Rimg0004



子どもが遊ぶ町。門司港。

2011-04-04 14:24:20 | アート・文化
わたしの思う町は、子ども時代、規則的に立ち並ぶ家々の瓦屋根の軒先。いわゆる甍の屋根。日本家屋がわたしの目線で記憶している日本の町並です。
私が小学生のころ、昭和30年代のころのこと。町にはちらほら三階建ての鉄筋コンクリートでできたアパートが出現してきました。昔の言葉で云う『文化住宅』です。そのアパートに憧れて、親にあの箱の家に住みたいと親を困らせたことがあります。
そのころから日本のあらゆる場面がおかしくなってきました。ニヒリズム漂う町になってきたと思います。



Ring001

陽が暮れるまで遊んだあの頃。門司港・錦町界隈。〈C〉永野宏三・ひろみプロ



町の記憶。

2011-04-02 14:08:33 | アート・文化
早いものでことしも月日が4 分の1経ちました。何なんでしょう、この早さ。
この三ヶ月を振り返ってみると、やはり大震災が街を破壊してまったことのショックが脳裏のほとんどを埋めてしまいました。町は人のこころの拠りどころでもあります。
ぼくは知らない町が好きなので、よく唐突に、そして、ふらっと地図を見て電車やバス、タクシーに乗ったり歩いたりして町を探究します。山陰や大分などの都市から外れた小さな町は特に面白いです。
ほとんどの地方都市は駅を中心とした町割りで形作られています。そして、だいたたい駅前はいろんなお店で立ち並んでいます。駅を一歩出ると、その土地の匂いがするものです。
今どきのほとんどの街はカタカナ文字で店のサインで溢れ無国籍なイメージをつくっています。福岡や小倉の街の中心は原宿と同じ店の構えで、売っているものも似たようなものばかりです。
そして、今どき、中核都市の中心には必ずといっていいほど質感のない長高層のバブルの塔がそびえたっていて、無個性な街を形つくっています。
ぼくが住んでいる門司の門司港駅前のレトロ地区船溜りには観光客相手のお店が異空間をつくっています。原宿にあるスーベニールショップやレストラン店と何ら変わりありません。
門司港の街は港湾、鉄道で経済が動いていたころは、わりかし街が複合的だったのだろうと想像できます。それは貨物などを取扱う商社を中心とした経済的機能性からくるものと思われ、そこに夢を追い働く人たちの街であったと思われます。
門司港の栄町や錦町・老松町には当時の面影が残像としてあり、歩いているとデジャブな感覚に落ち入ることがあります。町の路地、道ち道との交わり、曲り角などは今風の街路ではなく、道路巾や家屋の高さは子どもの頃の感覚に戻ってしまいます。


Dscf0047

門司港・栄町界隈。〈C〉永野宏三・ひろみプロ