永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

思考の種を蒔き、培養し、収穫した70年代前後。

2011-04-23 17:00:17 | アート・文化
今の時代は何かしら、どこかしこの場面で壁を抜けきらない、もやもやしたような空気が立ち篭めているようなイメージがします。
70年代前後は現在とは社会状況がまったく違う時代でしたけれど、ものごとの掴みどころはパワフルにそして精神的に得るものがありました。
日本独特というか通念というか、あいまいで不確実な社会スタイル(今の時代もこのあいまいさは変わっていませんけど、あいまいさの持つファジーいうかアンバラスなスタイルが、今日のようなグロ-バル化する前までの日本を支えていたのでしょうが)の状況にうねりで新境地を求めていた時代だと思います。あいまいさという虚像と新境地の境目にアートも変化を試みようとした時代でもあったように思います
回顧的になりますけれど70年代前後といえば、わたくしごとですがぼくは17から20歳のころ。今思うと恥ずかしくなるけれど、アートに生きるぞ!と粋がっていて、生活の全てにデザインとアートをコンバイン結び付けたような毎日を消化していました。被れていたんですかね。今でも底にあるものはそんなに変わりませんけれど。この時期は大阪万博もあってアートが商業化された時代でもありました。
このころ北九州の公立美術館は八幡駅前にありました。九州でも先端をいく展覧会がありアートファンから注目されていた存在でした。今は市民会館と併設した市民ギャラリーになっています。また、小倉にあったデパート玉屋では斬新な企画の展覧会をやっていました。このころのデパートは豊富な資金を持っていたのでしょうか、公立美術館にもできない展覧会ばかりでした。たぶんパッケージ企画としての全国巡回展だったと思います。
それまで、ぼくが感化されていたのはカルダーやピカソ、マチス、マグリット、クレーなどのアートでしたが、東京を経由して地方にも情報として入ってきたアメリカのアートに取り憑かれるようになりました。当時アメリカのアートはポップアートの最前線、ちょっと際物的な面もありましたけれど、日常の車やファッション、食べ物などの身近な情報がアートになるという考え方にかなり感化されました。こういうアートの思想がおもしろかったです。ただ田園風景や花瓶などを絵に描くのと違い、大げさにいえばアートやデザインにも思想が必要なんだなという啓示を受けました。現象軸が思考軸になる時代でした。美術手帖、みずえなどが情報源でした。
マスプロダクション・商業的に培養し始めたポップアートはみずみずしく体内にしみこんできました。
マルセル・デュシャンにはじまり、ウォーフォールのヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ジャスパー・ジョーンズ、ジョージ・シーガル、ラウシェンバーグ、デ・クーニング、オルデンバーグのアート。廃車などスクラップを組み合わせるジャンク・アートなどなど。
ジャスパー・ジョーンズの描くアルファベットの羅列、アメリカ星条旗やアメリカ合衆国の地図がアートになるなんて、それまでの固定された価値観が、ガラッとひっくりかえったような気がしました。
このころ読んだマクルハーンの記述『メディアの理解?人間の拡張』にある「印刷や青写真、地図や幾何学がなかったら、近代科学やテクノジーの世界はほとんどありえないだろう」のことばが、ジョーンズの描く星条旗や地図が表しているのだと、ぼくは観念的にですが捉えてひとり悦に入り楽しんでいました。
夜行列車に乗って、有楽町そごうでのウォーフォール展を観にいったりしたのもこの頃です。そうかと思えば、日宣美展にデザインの学習をもとめたり、プッシュピン・スタジオのミルトン・グレイサーとシーモア・クワストのイラストレーションに憧れたり、谷内六郎さんの描く週刊新潮の表紙絵に景仰してみたりもしました。余談ですけど、シーモア・クワストさんのスタジオには38歳のころに不躾にいきなり訪ねたことがあります。
今という現在から顧みるとそれらのことはすべて古典ですが、でも、70年代前後はあらゆるものごとの価値を焦点移動させて変貌させる時代の試みであり、分水嶺の時代でもあった思います。不確定なものの現象が一夜にして創造の開放へと繋ぐ変種する、云わば思考の種を培養して収穫する時代でもあったのだと思います。今でも思うと気持ちが高揚してきます。