永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

パワーのつくり方。

2010-02-18 09:16:40 | 日記・エッセイ・コラム
流通などのプロデュースで活躍する藤巻幸夫さんの講演を小倉で聞く。風貌、語り口はTVなどで観る印象そのまま。ガッツの固まりみたいな人である。言っていることは、当り前のことを藤巻さんなりの思考でわかりやすく核心をついておしゃべりになっている。頭の回転は早く説得力のある人だ。藤巻さんの時間軸と生活行動サイクルはどうなっているのかに興味を持った。藤巻さんのパワーは辺りを巻き込む力を持っている方だと思った。


“I Love Earth”Art。

2010-02-16 14:19:53 | 日記・エッセイ・コラム
小倉で『I Love Eartth 赤瀬ミフサ アート展』を観る。動物や花などを画面いっぱいにダイナミックな構成で表現したアートにインパクトをもらう。2、3色のアクリルで単純にペイントされた絵は見事に感動をあたえる。若干29歳の女流アーティストは愛媛に工房を持つ陶芸家だつた。たぶん影響を受けたであろうアンディー・ウォーフォールのシリーズを彷佛させる画面はたんなるエピゴーネンではなく、作者の持つ内なるエネルギーのパワーで、オリジナリティーに昇華させている。彼女の作品を買いたかったけれど、手に届かず作品集を購入する。斬新な表現で画面と闘う彼女の作品を観た後に爽快感の余韻が残った。


路地裏の散歩者。

2010-02-14 10:28:50 | 日記・エッセイ・コラム
朝ご飯を終え久しぶりに雨が上がり休日なので、中断していた日課のウオーキングを再開する。新鮮な気持ちで町を眺めながら歩いたら、いつも暮している見慣れた町と思っていても、町は変化しているのに気づく。一ヶ月も経っていないのに道沿いにあった家が無くなって、急ごしらえの砂利を敷いた駐車場になっていたり、つい何日か前まで営業していた食べ物屋が閉じていたりと町の表情が変わっている。野坂昭如さんは氏と町との関りを『契り』と言う言葉で表現されている。なるほどと思う。自分の住んでいる家を中心に町で暮しを営んでいると、毎日が生活の繰り返しの連続で、平凡に当り前の日常と無意識に町を観ているが町は変化しているのだ。自分の暮す町での行動は目的地に、短い時間軸の日帰りで行けるし、用意周到と言う行動はあまりとらず無防備に、記憶に頼らず徘徊する。町の空気も音もからだに馴染んでいるし、これが町との『契り』というものかもしれならい。きょうも路地裏の散歩者となって町を歩く。


秘かな愉しみ。

2010-02-13 18:44:31 | 日記・エッセイ・コラム
夕方、Hスーパーで夕飯の買物していたらKさん夫婦とばったり再会。三年ぶりだ。息子さんが高校一年でこの四月には進級になるそうで、年月が経つのが早い。Kさんはぼくよりまだ若いけれど肺が尋常でないから、最近タバコを止めたと言う。ぼくは習慣病による肥満に悩みダイエットに励んでいるが、Kさんは一向にぼくが以前より痩せているこに気づいてくれていない。ぼくは思わせぶりに、「最近ぼくはからだが軽くなったんよ」と言う。Kさんは「お元気でしたか」で終る。ぼくは「お腹が少し引込んでね」。Kさんは「ああ、なんだかお顔の頬が」と、やっと気づいてくれた。


『お祭りに行ったよ』。

2010-02-12 19:38:22 | 日記・エッセイ・コラム
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ぼくの作品『お祭りにいったよ』が『第14回越後湯沢全国童画展』にノミネート展示されることになった。昨年秋、山口のとある里山限界集落を訪ねて見た光景が鮮烈だったので絵にしたものだ。子どもの頃の祭りの記憶をその光景に重ね合わせる心象風景としてのフロッタージュだ。地域の衰退は激しく、その集落は人がいなく廃村となっていた。段々畑は石垣に形態を残していたが畑そのものは草が伸びきり面影を消していた。家は形骸化していたが村のかたちは残っていた。たぶん栄えていたであろうその昔、人々の暮しの営み村の息吹きが想像できたので絵にした。かたちを残すには絵でできる。作品の展覧会は3月6日から15日まで新潟県湯沢町で開催されます。