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70億人が幸せになる方法[その40]

2015-11-19 07:32:20 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その40]」です。

私はアダルトチルドレンです。これは一生付いて回る問題です。

まずはアダルトチルドレンについて、私が初めて知ったのは、パソコンショップで、
お客様にホームページを作るソフトの使い方を教える事になり、その為の調べ物を、
ネットでしていた時にたまたま見つけたホームページが、アダルトチルドレンの事を、
書いていたページを読んでみた時から、私自身がアダルトチルドレンであると、
自覚した事から、今まで自分自身がなんで、自分はこんな性格なんだろうと、
常日頃感じていた事が、すべて、このアダルトチルドレンという言葉で説明できる、
と感じました。

アダルトチルドレンとは、本来ACOAと呼ばれるアルコール依存症の親を持ち、
そこで育った子供たちが、生き延びる為に、子供なのに精神が大人にならざるを得なかった、
そんな人達の事です。実は私も機能不全家庭で育ちました。

私の場合9歳の時に、両親の離婚で、父の実家である瀬戸内海の島に移住した、
その頃からの生活が主な原因となったのです。

引っ越して、数ヶ月は父が、離婚の話し合いの為に私の生まれた大阪へ行っており、
当時借りていた市営住宅の引っ越し手続きなどに、父が一人で作業をしてました。
その間、私たち4人兄妹を面倒見てくれたのは祖母でした。

引っ越しした初日はまるで夜逃げのように夜の最終便のフェリーで島へと渡り、
そのまま父の実家に連れて行かれました。

その夜は親戚の叔母がカレーライスを作ってくれていました。
当時の私たちにとってカレーライスはご馳走だったのです。

未だに私はカレーにはこだわりがあります。

翌日から私たち兄妹と祖母と祖父の生活が始まりました。

祖父は物静かな優しい人で、当時は岡山へ出稼ぎに出ていました。
祖母は、島の中にある国民宿舎で職員として働いていました。

祖母から、「ウチは働かざるもの食うべからず」と言われて、家事全般を子供が、
やる事になったのです。当時、9歳だった私がまず初めに家事を覚えさせられました。

食事の支度や、掃除のやり方、洗濯、風呂焚き(当時の実家は五右衛門風呂)、
など、一通りの家事をやらされました。当時は嫌々やっていましたが、
料理を作っていると段々と楽しくなってきました。

そんなこんなで、私が先頭になって、あとの兄妹へと私が家事を教える役目も、
行っていました。

そんな折に、父が大阪から帰ってきて、島に当時あった車海老の養殖場に、
勤める事になりました。父は初めの3ヶ月くらいは真面目に仕事をしていました。

しかし、年が明けて、春になった頃から、段々とお酒を飲むようになったのです。
元々、父は下戸でした。しかし、今思うと寂しさを紛らわす為に、お酒へと走っていったのです。

段々酒量も増え、しまいには朝からお酒を飲んでそのまま仕事に出るようになりました。
そのうち、私たち子供に、酒を買ってこい、と命令するようになりました。

それ以来、父はお酒が入ると、鬼のようになり、お酒が抜けると大人しくなる、
という事を繰り返していました。

段々、父から暴力を振るわれるようになったのも、この頃からでした。

酔っ払っては何度も包丁や灰皿を持ち出して、私たちに灰皿を投げつけたり、
包丁を突きつけたりするようになりました。

父はアルコール依存症へと突き進んでいったのでした。

その父の元で育った私たちはそれぞれ、父に捨てられないように、兄妹それぞれが、
それぞれの役目を自然と受け持つ事になりました。

私は長男として、とにかく下の兄妹を守る為に、父に対して「小さな親」を演じました。

弟は、「ピエロ」で道化を演じ、上の妹は「世話役」として下の妹を世話する役を、
一番下の妹は「マスコット」役を演じていました。

それでも当時の周りの大人たちは、特に祖母は「ふがわるい」が口癖で、
みっともない、という事で、家の事は隠す様にしていました。

しかし、そこは小さな島で、噂はたちまち島中に広まっていきました。
「あそこの家はオカンに逃げられた家や」とひそひそ話をされていました。

それでも時は過ぎていきます。状況が少しずつ変わっていきました。
私は相変わらず、「小さな親」を演じていました。

「ピエロ」だった弟は中学生になるとグレ出したのです。「スケープゴート」へと変わり、
祖母に反抗する様になりました。上の妹は「ロストワン」へと変わり、
変わらなかったのは一番下の妹だけでした。

父は一番下の妹だけは特に可愛がっていました。それでもお酒を飲むと人が変わり、
私たち兄妹は4人ともその犠牲になったのです。

私はこんな家から、早く逃げ出したいと強く思う様になりました。

その為に、手に職をつけて、自立したいと小学6年生で思う様になり、当時は家で、
料理をする事が多かった私は、調理師になろうとしていました。

しかし、小さい頃からの夢だったロボット開発者になりたかったのです。
その為に中学生になった頃には、工業の高等専門学校に行きたいと思う様になり、
学力不足から工業高校へ進学を決めました。

私はなんとかギリギリで工業高校へと合格する事が出来たのです。

それからは島を出る為の準備を少しづつ、自分の中でしていきました。

一つ心残りは、私が島を出て独り立ちした後、残された妹たちがどうなるのか、
だったのです。

グレた弟は中卒で私より1年先に名古屋へと就職していきました。

私が高校2年の春でした。

[その41]へ続きます。

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