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日本を今一度「カンサ」致したく候

日本社会は一体どうなっているのか。先週末25日の朝日新聞の内容は悲惨だ。第1面には“基幹統計22統計に誤り”とあり、第2面にその“統計不正、内輪で検証”とあって、その不正の内容を調査した報告書の内容は“一般の水準に照らすと「0点」だ。”とある。
この第1面の記事は、厚労省の“毎月勤労統計”だけではなく、それ以外にも不法不正の基幹統計が22件もあるという事実を示している。これは国家官僚の遵法性が毀損している例が多数あるということだ。というおとは法令順守という面で調査すれば、違法行為がさらに発覚する可能性があるということではないか。

さらに同日第7面には例によって民間会社の“住友重機、検査不正”とあった。翌26日の朝日新聞の第1面には“技能実習、認定取り消し 三菱自・パナソニック(法務省、受け入れ5年認めず)”とあった。第2面にはその詳報があって、大手民間企業の不法行為を指弾している。

そもそも中央政府の官僚に遵法性が無いのは、もう国家・社会が終わっている印象だ。それに民間での遵法性も問題は大いにある、と見て良い。官主導でそうなったのだろうか。
ここに挙がった3社(住友重機三菱自パナソニック)もいずれもCSR報告書またはそれに類する報告書を作成し公表している。それでも指摘されるような不正があるというのは、その会社のガバナンスそのものに大いに問題があるということだ。だが報告書にはその統制そのものも大丈夫だ、と言っているのだから始末に負えない。
報告書は作文ではないが、日本では修辞学の粋を込める。それが本社スタッフの仕事であり、巧く表現することで、評価が決まる。その頂点が高級国家官僚の“霞ヶ関文学”とされる。正に“文学”なのだ。

“毎月勤労統計”に関する特別監察委の報告書も、その極み、いわば忖度修辞の結晶だ。要は何を言いたいのか不明なのだ。こういう作文に元高級官僚や高級裁判官や弁護士の司法関係者が参加しているのは驚きなのだ。日本の司法関係者の脳ミソも最早腐敗していることを示しているのではないか。これで日本の正義は保証できるのか。
これに絡んでの問題は、不正の統計を修正しようと元データから再計算しようにも、それが既に廃棄されている、ということだ。日本の役所は廃棄が得意だ。記録を改竄し廃棄するのに何のためらいもない。だが、“歴史は記録”だ。だから“文字の発明”から有史となる。その伝で言えば、近・現代日本には“歴史はない”ことになる。中世の日本には世界的に見て稀にみる豊富な記録があるとされるが、現代に至って社会が劣化しているのではないか。今やビッグ・データでも大きく遅れを取っている。情けないことだ。

かつて、東芝のCSR報告書は最も先進的な報告書だと評価されたことがあった。しかし、会計報告の粉飾が発覚したことがきっかけで、実際に経営内容が悪いことが判明し、企業存続の危機に陥った。その後、東芝は稼ぎ頭の部門を次々と売却し、今や何のトップ・メーカなのか分からない状態だ。あたかもアイデンティティ不明のまま漂流しているように見える。
修辞を尽くしてウソをつくと何を言っても信じられないのだ。それでもこれらの会社の株価は日本市場では影響は驚くほど軽微。そして、三菱自動車には大きな前科がある。そしてこの会社のアイデンティティも今や影が薄い。

そう言えば隣国の国家統計は粉飾されているとして、国際的に信用されていない。多くの日本人はこういう状況にある意味優越感を感じていたはずだが、今、どう感じているのだろうか。
これまで“間違いない厳密・厳正だ”という認識そのものが“間違っていた”のだ。日本もどんどん中国化してきている。そういう点で、アジアの一員となって来ている。日本全体の国際的信用はじわじわと毀損していると言ってよいのではないか。

どうすれば良いのか。先ずは、日本の官公署に対する監査機能が無いように思うが、どうだろうか。せいぜいで会計検査院くらいではないだろうか。それも絶大な権限があるようではない。だから“役人天国”となっているのではないか。国会でも“予算委員会”は結構花形のようだが、“決算委員会”はあまり報道もなく関係者の活躍は寡聞にして聞かない。
国会に行政監察委員会を設けるか、行政側に行政監察院のような常設組織を作ることで、緊張感を持たせる工夫が必要ではないかと思うのだ。

民間についても同様だ。監査といえばISOがその機能を果たすべきだが、実際は不十分としか言いようがないのが、非常に残念だ。そのためかISO認証登録を前面に押し出す企業は少なくなった。ここに登場した3社でも何らかの事業所でISO14001をJABで登録しているが、ISO9001はパナソニック1社だ。各社のホームページを見ても直ちには、ISO認証登録しているのかどうか不明だ。JAB以外外国で登録していることも考えられるのだが。
それほどISOの社会的信頼は落ちているのかもしれない。何故ならばISOのシステムは被審査組織が顧客だから、審査側は顧客満足を上げる審査とならざるを得ない。つまりここでも“忖度”審査をしなければならない。本審査の前に予備審査する手もあるが、そんなことをすると工数がかかって審査組織が持たない。一方では安価な審査の要求も強い。だから本審査1本でそれなりの審査となってしまう。
酷いのは審査指摘を受けるとトップ・マネジメントがISOの管理責任者を叱責するというもの。審査指摘そのものは、組織にとって大した問題ではない。たかがISOマネジメント・システムの問題だ。だが、それを放置すれば多くの場合、組織の致命傷となりうる問題をはらんでいる。つまりは組織の問題であることは、トップ・マネジメントの問題でもあることが多い。それを管理責任者一人の問題にわざと矮小化するケツの穴の小さい経営者が多いようだ。そんな事態になるのならと、忖度審査が多くなっている側面もあるのではないか。

また本来、ISOマネジメントには内部監査の実施状態も審査対象となっている。少なくともそのレベルを上げて、審査会社の第三者監査(審査)に耐えられるように仕上げることも組織側ではできるはずなのだ。それすらできない組織であるにもかかわらず、第三者による審査指摘で、逆上して管理責任者の責任にするのは、飛んでも8分の経営者ということになる。
だから、ISOの仕組は上手く使えば非常に有効だということになるのだが、使う側にそういう認識が薄いのが実態ではなかろうか。

さはさりながら、ISO9001も人類の英知を集約した国際標準である。それに準じて品質保証・管理体制が構築できないのは、組織の存在意義が問われる。住重や三菱自のホームページを見てもどういう体制なのか判然としないのは、大いに疑問だ。何よりも組織の“透明性”に大いなる疑念を生じる。現に、透明性が低いので、ガバナンスが欠如する結果につながっているのではないか。その点で、パナソニックは他の2社より“カイゼン”が容易で、優位にあるのではないか。他の2社、その割には調達先には厳しそうだが、それで良いのだろうか。そういう点でESG投資だけではなく、ここにQを付加することが重要ではないかと思う。

言っておきたいのは、ISOの仕組は遵法をベース・ライン、つまり当たり前であるので、遵法について審査する機会は少ない。環境で環境関連法の常識的な遵法を問うことはあっても、組織経営の技術的な詳細な側面までも審査する能力をISO審査員に期待はできない。それはあくまでも組織側の責任ということになる。一応、そういう問題を避けるために、被審査組織の業界の経験がある等の審査員が起用されてはいるものだが。

まぁ、ここで言いたいのは、あらゆる組織的活動に“監査”の仕組や相互監視機能が働くような組織構成にすることが肝要ということだ。問題は、それが日本の組織にはあまり考慮されていないこと。特に政府機関にそうした機能の組織が手薄なのは、日本全体をダメにする契機になるように思うし、大いに危機感を覚えるがいかがだろうか。
少なくとも司法は厳正・厳格であるべきだが、先に見たように それに関わる人々の脳ミソが腐敗している可能性があるのは、大問題ではないか。

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