ここ1・2ヶ月の間に読んだ本の中で、クールジャパンというこのブログのテーマに関連の深い本をいくつか選んで、かんたんなコメントを付けてみた。本格的なレビューは、順次書く予定であるが、おそくなってしまうかも知れないので、とりあえず数行での紹介をする。
なお「日本の長所」のシリーズは、間隔はあくまもしれないが、今後も何回か続けていく予定でいる。
◆『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす (NB online books)』
遠藤誉著。今、中国の若者たちが日本のアニメ・マンガにいかに熱狂し、影響を受けているかを、中国の内部事情を知る著者が、綿密な取材によって報告する力作だ。たんに日本のアニメ・マンガの流行を追うだけではなく、中国の特殊事情の中でそれがどうしてこれだけ普及するようになったのか、なぜ、どのように中国の若者たちに大きな影響を与えるようになったのか、そして近年中国政府が、なぜその人気に危険を感じ、きびしい規制をし、対抗策を打ち出すようになったのか、までをつっこんで取材している。
◆『私を劇的に変えた 日本の美風』
著者・呉善花は、韓国出身だが、日本に留学し、日本文化と韓国文化の違いに悩みながらも、日本文化への理解を深め、ついには日本に帰化した人だ。それだけに、日本文化への洞察力は、並大抵のものではない。とくにこの本で印象に残ったのは、「お陰さまで」という言葉に表現されるような日本人の生き方への洞察だ。蕾が花開くように、大自然の作用を受けて自分の中から内発して開花しようとするものに従うという自己のあり方が、「お陰さまで」という言葉には含意されているという。
◆『日本力』
松岡正剛とエバレット・ブラウンの対談本。エバレット・ブラウンは、日本滞在のアメリカ人で、日本に伝承される食や生活の知恵、心身の調和、自然への畏敬の念などを実践的に追求する。二人の対話を通して、日本の古い文化と新しい文化との間に深いつながりがあることが洞察される。とくにアニメ・マンガ・コスプレ・ファッションなどに無意識のうちに伝統的なものが表現されているという指摘に教えられた。
◆『日本語は亡びない (ちくま新書)』
金谷武洋著。日本語を、英語をモデルとした文法で理解しようとする愚かさを鋭く指摘する。英語文法は、主語-述語を基本とした人間中心の構造をもつ。英語の話者は、他との関係で自分を捉えるのではなく、状況から独立した絶対的な私(主語)を中心に考える傾向が強くなる。それに対して、日本語文法は、自然や状況中心の文法であり、英文法モデルで分析するには無理がある。むしろ、混迷する世界の救える思想が日本語には含まれており、だからこそ日本語の脱英文法化が急がれなければならないという。日本語だけでなむ、日本文化全般への著者の愛情を感じさせる本だ。
なお「日本の長所」のシリーズは、間隔はあくまもしれないが、今後も何回か続けていく予定でいる。
◆『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす (NB online books)』
遠藤誉著。今、中国の若者たちが日本のアニメ・マンガにいかに熱狂し、影響を受けているかを、中国の内部事情を知る著者が、綿密な取材によって報告する力作だ。たんに日本のアニメ・マンガの流行を追うだけではなく、中国の特殊事情の中でそれがどうしてこれだけ普及するようになったのか、なぜ、どのように中国の若者たちに大きな影響を与えるようになったのか、そして近年中国政府が、なぜその人気に危険を感じ、きびしい規制をし、対抗策を打ち出すようになったのか、までをつっこんで取材している。
◆『私を劇的に変えた 日本の美風』
著者・呉善花は、韓国出身だが、日本に留学し、日本文化と韓国文化の違いに悩みながらも、日本文化への理解を深め、ついには日本に帰化した人だ。それだけに、日本文化への洞察力は、並大抵のものではない。とくにこの本で印象に残ったのは、「お陰さまで」という言葉に表現されるような日本人の生き方への洞察だ。蕾が花開くように、大自然の作用を受けて自分の中から内発して開花しようとするものに従うという自己のあり方が、「お陰さまで」という言葉には含意されているという。
◆『日本力』
松岡正剛とエバレット・ブラウンの対談本。エバレット・ブラウンは、日本滞在のアメリカ人で、日本に伝承される食や生活の知恵、心身の調和、自然への畏敬の念などを実践的に追求する。二人の対話を通して、日本の古い文化と新しい文化との間に深いつながりがあることが洞察される。とくにアニメ・マンガ・コスプレ・ファッションなどに無意識のうちに伝統的なものが表現されているという指摘に教えられた。
◆『日本語は亡びない (ちくま新書)』
金谷武洋著。日本語を、英語をモデルとした文法で理解しようとする愚かさを鋭く指摘する。英語文法は、主語-述語を基本とした人間中心の構造をもつ。英語の話者は、他との関係で自分を捉えるのではなく、状況から独立した絶対的な私(主語)を中心に考える傾向が強くなる。それに対して、日本語文法は、自然や状況中心の文法であり、英文法モデルで分析するには無理がある。むしろ、混迷する世界の救える思想が日本語には含まれており、だからこそ日本語の脱英文法化が急がれなければならないという。日本語だけでなむ、日本文化全般への著者の愛情を感じさせる本だ。