喫茶 輪

コーヒーカップの耳

伊藤幸夫君

2017-03-05 14:49:20 | 懐かしい話
昨日、鳴尾将棋教室から帰ってきたら訃報。
伊藤幸夫君が亡くなったと。
70歳だったという。
釣りが好きだったという彼は、4年ほど前に三重県に釣りに出かけてその帰りに、
伊勢道で重大事故に遭い、その後元気になれずということだった。
事故に遭って再起不能のようなことを聞いたので、わたしはかける言葉も思い浮かばず見舞いにも行かず。
彼とは昔、大峰山に一緒に登った仲間。
年に一度の出会いだった。
昭和36年の写真がある。56年も昔だ。
左から2番目の一番小柄なのが彼。大峰山へ出発する前、圓満寺での写真。


手前に大きく写っているのは伊角君(この人の弟は関学のアメラグのスター選手、そして全国優勝した時の監督さんになった人)。その右が伊藤君。この場所は「西の覗き」。新客さんを崖から吊るすロープが見えます。


これは鐘掛岩の前。
そして頂上の大峰山寺の前での集合写真。

彼は真ん中辺りに写ってます。
不思議なのは、この写真に昭和36年5月24日の日付が入っていること。
そんな日に、わたしが行ってる筈はないと思うのだが。
というのも、父がその年の5月(4月だったか?)に腎臓がんの手術をして、6月3日に死ぬのである。
そんな大変な時に行ったとは思えない。
でもどの写真にも昭和36年の年号が。
しかも集合写真の裏には「今村様」と書いてある。
アルバムにもわたしの字で、「昭和36年5月」の書き込みがある。
間違いないのでしょうねえ。快癒祈願の思いでお参りしたのでしょうか。

伊藤君のことだった。
彼のお父さんも大峰山の行者講「一心組」の講員だった。それはわたしの父に誘われて入られたのだった。
だから、わたしも彼も二代目ということだった。
わたしの父が死んで、何年目かに、わたしは講の会計長になった。生前の父の役職である。
そしてその後、彼、幸夫君に副をやってもらっていた。
行者講の行事は、5月の大峰登山が最大のもので、あと夏冬に土用行、寒行をそれぞれ1週間ほど勤めること。
その他、定期的に地蔵盆祭りなどの護摩焚き供養。
ほかに御詠歌奉納など。
そしてたまに慰安旅行。
しかし、彼は登山の時だけ参加だった。仕事が忙しかったのでしょう。
地震前に亡くなられたお父さんはずっと護摩焚きなどには参加しておられた。
わたしは地震後間もなく講を脱会した。
頼りにしていた講元のU田さんが亡くなって、残った人たちとうまくやって行く自信がなかったからだ。
といえば簡単なことのようだが、ここには書けない事情が少しある。
わたしが脱会したあと、しばらくして講は解散した。

で、今日の葬儀告別式だ。
行ったら、葬儀社さんから「代表焼香をして下さい」と。
え?と思ったのだが「一心講代表」とのこと。
一心講はもう遠の昔に解散してしまっているのだが、しかもわたしは早くに脱会してしまっていたのに。
でも、彼とは、わたしが選挙の時の立会人をしている時に、彼が投票に来る度にわたしの側に来て、なんやかやと講のことを話していたのだった。
遺族にしたら、わたしと彼と一心講は結びついているのだった。
遺族といっても、彼は生涯結婚はせずだったので、弟夫婦が面倒を見ていたのだった。
その弟の奥様の想いが伝わって来て、引き受けることにした。

出棺の時、柩の担ぎ手が少なく(親戚の人はみな女性か弱った老人ばかりの様子)困っておられた様子だったので、
一角を担がせてもらった。
これも縁ですね。

伊藤幸夫君、どうか安らかに。
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