喫茶 輪

コーヒーカップの耳

記憶の彼方から

2023-10-01 09:25:23 | 懐かしい話
ふと思いついて、わたしの最も古い記憶の我が家の略画を描いてみました。
居住空間は6畳一間でした。その頃の近所の家はみんなそんなものでした。
日本全体が貧しい時代です。
父親は蒙古(シベリヤ抑留の一環のモンゴル抑留)から復員してきて間のない頃。



わたしは4歳位でしょうか。
昭和22、3年ぐらい。

父母と私の3人暮らし。この後、弟が昭和23年12月にここで生まれます。
配給所では主任さんの白井さん以下、小路さん、桜井さん、事務員のお姉さんの名川さん、その他何人かが働いておられました。

小路のおじさんは面白い人で、子どもが洟を垂らしていると、手にメリケン粉を握って追いかけてきて、その子の鼻の下に塗り付けるのでした。
すると鼻の下に二本の白い線が現れて笑っていました。いつも餌食になるのはU谷さんのM重ちゃんでした。
彼は後に神戸大学を出てオムロンKKの重役さんになります。
桜井さんのお兄さんは、隣のお地蔵さんで事件を起こされたことがありました。
近所の田淵さんの正さんが空気銃を持っていて、雀を撃ち落として日本盛の塀を乗り越えて落ちた雀を拾いに行っている間でした。
桜井さんは置いてあった空気銃を手に取り、蓑田さんのたけしさんの顔を目がけて撃ったのです。
弾が入ってないと思い込んでいて。
ところが弾は残っていて発射され、たけしさんの左目の下に当たりました。
そばにいたわたしは、とろりと血が流れるのを見ました。
その後のことは忘れましたが、近所では大きな事件でした。たけしさんの顔にはいつまでも手術の傷痕が残っていました。

父はこの配給所ではなく、国鉄西宮駅のそばの食糧公団(後阪神米穀KK)に行っていて、オート三輪で配給のパンを市内の各配給所に配達していました。
何度かその助手席に乗せてもらったことがあります。オート三輪にはドアはなく、バー(棒)をはめるだけのものでした。

これは配給所の隣の畑の前での写真。

女の子は隣の朝日さんのみちこちゃんです。大人は桜井さん。
後ろにはサトウキビ。
履物が時代を表しています。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 納屋 | トップ | おもしろすぎる! »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

懐かしい話」カテゴリの最新記事