昨日N氏より頂いた冊子『CABIN』12(2010年9月)を読んでいる。

いい書き手がそろっているのだが、わたしの好きな、といってもお会いしたことはない山田稔さんの「生島さんに教わったこと」という文章。
その始めの方にこんなことが書いてある。
《生島先生――いや「先生」ではなく、ふだんどおり「生島さん」でいきたい。「先生」と畏まると敬語がふえるだろう。筆が縮むだろう。敬語や丁寧語の多い文章は嫌いだ。なにやら卑屈で息苦しい。言いかえれば、文章のなかでまで頭を下げねばならぬような偉い先生のことを書きたくない。》
う~~~ん、そうなのかなあ?わたしも足立先生のことを書く時には「足立先生」と書くよりないと思っている。しかし、読む人の目には煩わしいのかなあ?山田さんが言うように「卑屈で息苦しい」文章になっているのだろうか?これから考えなくてはならないのだろうか。

いい書き手がそろっているのだが、わたしの好きな、といってもお会いしたことはない山田稔さんの「生島さんに教わったこと」という文章。
その始めの方にこんなことが書いてある。
《生島先生――いや「先生」ではなく、ふだんどおり「生島さん」でいきたい。「先生」と畏まると敬語がふえるだろう。筆が縮むだろう。敬語や丁寧語の多い文章は嫌いだ。なにやら卑屈で息苦しい。言いかえれば、文章のなかでまで頭を下げねばならぬような偉い先生のことを書きたくない。》
う~~~ん、そうなのかなあ?わたしも足立先生のことを書く時には「足立先生」と書くよりないと思っている。しかし、読む人の目には煩わしいのかなあ?山田さんが言うように「卑屈で息苦しい」文章になっているのだろうか?これから考えなくてはならないのだろうか。