初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(第2話)

2006年10月14日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はルイ・エクトル・ベルリオーズ(第2話)です。

≪作曲家の肖像≫
こんな曲も作ってるんですね。
ベルリオーズ:テ・デウム
インバル(エリアフ), オトー(ラルフ), フランクフルト放送交響楽団, アイゼンベルク(マティアス), レウィス(キース), クレンデ, ヘッセン放送児童青年合唱団, フランクフルト声楽アンサンブル, マインツ・キリスト教会バッハ合唱団, ベルリオーズ
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【Louis Hector Berlioz】

さて、パリに医大生として来ることになったベルリオーズですが、音楽活動への夢はどうなってしまうのでしょうか。今日はその続きからです。

(第2話)【パリでの学生生活】
 親元を離れてパリで一人暮らし・・・、とくればもうお察しのとおり。ベルリオーズの興味は一気に音楽へと注がれるのでした。オペラ、コンサートなどに通い詰めキャンパスライフを別の意味で満喫するのでした。

 医大生としてパリへ来たはずのベルリオーズでしたが、大都会パリの誘惑には勝てず、医大の講義はそっちのけで、やがて作曲家グルックに興味を持ち大学の図書館で彼の事を調べる毎日が続いていたようです。

そして、医大に入学した翌1821年、パリでグルックのオペラ「タウリスのイフィゲニア」が上演されると、このオペラに痛く感動したベルリオーズは、いよいよ決心を固め、音楽家になる事を誓うのでした。

決心した彼は、その事を父親に手紙で告げます。当然父親をはじめ家族は、猛反対でした双方の決意は固く、何度も手紙のやりとりが続くのでした。

 さて、そんな親心などおかまいなしにベルリオーズは作曲にとりかかるのでした。早速自己流の作品を音楽院で作曲を教えていたル・シュール先生に見てもらうのでした。名も無い医大生の作品をル・シュールはていねいに見て、「熱意は伝わってくるけど、音楽の基本がまだまだだね。基本を学んでから僕のところにおいで」という言葉を受けるのでした。

この言葉を受けて、ベルリオーズは音楽院の友人から和声学の勉強を本格的に始めるのでした。こうして、和声学の勉強をひととおり終えると、ベルリオーズはパリ音楽院のル・シュールの講義を特別生として受講が許されるようになるのでした。

 そして、作曲活動も行った彼は「荘厳ミサ曲」を完成させるのでした。この曲が1825年にサン・ロッシュ教会で初演される事になるのでした。

 しかし、ベルリオーズが教会で演奏会を開催!という噂はすぐに両親のもとにも伝わり、父親は激怒するのでした。また手紙のやり取りが続き、父親からは「おまえをわざわざ高い学費を払ってパリの医大へ通わせているのは、音楽をさせるためではない、いい加減に頭を冷やして医学の勉強に専念しなさい!!」なんて書かれてたんでしょうね。

ベルリオーズの決意は固く、1年かけて父親を説得し、1826年には晴れてパリ音楽院に入学することを認めてもらうのでした。ところが、「荘厳ミサ曲」の演奏会を借金をして自腹で開催していた事がバレてしまい、「ワシの言うことも聞かずに、勝手ばかりしおってからに!もう知らん!!」とばかりに、借金は払ってくれたもののその後の学費などの仕送りを一切ストップされてしまうのでした。



ようやく音楽の道へ進むことを許されたベルリオーズでしたが、父親に仕送りを止められてしまったベルリオーズはその後どうなってしまうんでしょう?つづきはまた明日。


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