御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「右翼と左翼」浅羽通明

2007-01-03 01:23:07 | 書評
全く予想外に面白かった。「丸山真男の時代」で少し左翼運動の歴史が頭の中で整理されたところで本屋で見つけ表題だけで買った。
最初は右翼左翼の辞書的な定義、フランス革命時の元祖右翼左翼の話、と続きややじれったかったが、5章の「戦前日本の「右」と「左」」あたりから俄然面白くなり、戦後および現代を論じた6章7章は痛快極まりなかった。たちまち傍線だらけとなってしまったが、その一部を引用する。

-アメリカは社会主義の敵で反動勢力、悪である、だから倒すべきだが、日本の共産主義者は「平和」を唱えて何もせず、資本主義打倒の闘いは、ソ連の赤軍や中華人民共和国の人民解放軍へお任せしよう。そういうなんとも虫のいい、マルクス主義者、左翼ばかりだったのです。-
-「左翼」も「右翼」もともに、日本人が血を流して戦うのは懸命に避けようとし、ためにどちらの「正義」をも犠牲とした。これが戦後「平和」主義の正体でした。」-
-自分個人の生きにくさを世の中全体がゆがんでいるせいにして、世の中が変われば幸せで面白い日々が私にも来ると信じる。自分自身の矮小さ脆弱さを、民族だの階級だの革命だのといった偉大な使命へ自分をゆだねている自覚で乗り超えた気になる。「新世紀エヴァンゲリオン」のヒット以来、自分の危機と世界全体の危機とがシンクロしてゆく物語を「セカイ系」と呼びますが、「右翼」「左翼」に代表されるイデオロギーはもとより「セカイ系」だったのかもしれません。-
-かつては存在感もあった「理念」の輝きが色褪せて、その分、相対的に「現実」が過剰に露出している。「右傾化」「保守化」とは、実のところそうした状態に過ぎないのではないか。-
-要するに、昨今の「左」は、多くの国民が「平和主義」を、それだけで正義だと受容してくれた時代への郷愁を捨てきれず、「現実」のリアルさばかりが輝く時代の到来を前に、新たな理念構築へのしんどい一歩を踏み出すべくもなく、本当にこれでいいのかと叫びつつおろおろするばかりなのです-

まあ何とさわやかにするどく本質を指摘してくれることか。僕が昔から日本の左翼どもがきらいだったのは、そのなんとはないへなちょこさゆえだったわけだが、こうすっきり言ってもらうと改めて僕が言うこともなかろう。「丸山真男の時代」の感想に書いた学生運動の甘えは、実は戦後の左翼全般を覆う甘さでありへなちょこさであったのだな、と納得。なお、著者は返す刀で左同様に(あるいはそれ以上にへなちょこな)右翼も批判している。また右翼は左翼への対抗として発生したわけだからそもそも左翼がしっかりしないと立派な右翼はありえないわけだ。

さて、左右の対立および相互依存を超えた大事なことを著者は言っている。
-おそらく、「自由」「平等」の思想は、人間が求めるあり方の一面のみしか充たしてくれないのでしょう。縛られず、秩序付けられず、個として生きたい欲求と同程度に、人間は、崇敬できる権威から自らの使命を与えられ、世の序列のどこかに正しく位置づけられたい欲求を抱いている。そうされてこそ、人は生きる意味に充たされ、安心立命できるのですから。-
-「自由」「平等」が、それが実現へ向かうにつれ、生きる意味、規範としての力を弱めてゆくのに対し、神の国や弥勒浄土、尭舜の世は、現世がそこから程遠い時代には、為に闘うべき理想とされるし、現世が理想に近づいた時代には、人々の生きる意味を充たす規範となりうるのです。-

左右対立の起原である自由や平等の理想も状況に依存した理想であったこと、それに比した宗教的理想の強さを語っている。後者はにわかには納得しないが、別の著者の文章でライブドア事件と小泉劇場の祝祭性を語っているのと合わせると、著者の見解はなかなか深いものがありそうに思う。

浅羽通明。初めて接したが一部では有名な人のようだ。フォローの価値あり。


1/4付記
すこし考えたことがある。
世界の危機と自分の危機がシンクロする「セカイ系」って、実は社会全体を考える心情の根本ではなかろうか。
上でも引用している戦後左翼右翼のへなちょこ平和主義ってのは、クラスの中でいじめや公然とした暴行が行われていても巻き込まれないようにしている姿と同じで、クラスのなかの別の場所の危機を自分の危機と切り離そうとしているわけだ。
いじめられているやつへの溢れる同情からにせよ、正義という観念を経由するにせよ、そういう場面で体が怒って悪者をやっつけようと思う心にこそ主張があり生があり、おそらく社会正義がある。その意味では単純な勧善懲悪物語、つまり誰の目からも正義は明らかな話は共有される「セカイ系」だったのだろう。
どうも「セカイ系」度が不足してしまったんだな、もはや。現実の世界はそうなっているらしい。
その現実をいかに生きるか。あるいはそういう問題設定自体がもはや陳腐なのか。それが現代のテーマだろう。浅羽氏もそういっていると思われた。

コメントを投稿