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三浦雅士「ニヒリズムとしての現代芸術」

2009-11-08 22:40:05 | 書評
佐伯啓思と三浦雅士の論文・対談集「資本主義はニヒリズムか」に収められた一遍。非常に鋭い筆致で、資本主義のニヒリズムと現代芸術のニヒリズムは並行関係にあることが論じられている。第一節の表題「現代芸術は資本主義のニヒリズムを体現する」はずばりそのことを表している。

美術も音楽も舞踏も、芸術のための芸術、という自由を手にした。しかし、そもそもすべてのものはそれ自身の中ではなく外部の文脈の中でその価値を発揮する。ミケランジェロが法王の発注で聖堂を飾るものとして作品を作ったように。ところが、そのような文脈を失ってしまうと芸術は非常に不安定になる。なぜなら芸術作品はそれ自身で価値で測れる価値があるわけではないのである。芸術が芸術であるというだけで価値があるというのは強がりに過ぎない。そこに根源的不安の源がある。ボロックの窶れと自殺のような死はそれを象徴する。

これは貨幣にしても同じである。もはや金兌換ではない貨幣が貨幣というだけで価値があるはずはない。
←これは三浦さんの認識不足。貨幣が貨幣を生むようになり自己目的化したとはいえ、貨幣は実物との交換価値により支えられるものだから、不兌換であっても相対価値を保つ(もちろんその先を問うことはできるが)。その一方で、自己目的化した芸術には交換価値がないため不安定性は貨幣よりかなり高いと思われる。

「芸術のための芸術」の価値不在性、あるいは根源的不安を補うのが、美術であれば美術館であり画商である。これらは金融市場の格付け会社のようなものである。本来価値のないものに価値をつけてゆく。だから、「傑作だから美術館に入る」のではなく「美術館が保有しているから傑作」と言うような転倒的判断も起きる。

金融も芸術も自己目的化して自由を謳歌し、その一方でいまや決定的に「何のために」を欠いてしまった。しかし続いているのは、人間の本性の何かがそこに表現されているのであろう。


以上がざっとした論旨。氏の金融の決め付けが些か通俗的な部分を含んでいたのは気になったし、まだ詰めきられていない部分を含む論考であるとは思うが、なるほどよくわかった。
自由な活動を手にした経済も芸術も、自由の反面、その暁には決定的に「何のために」を欠く存在となってしまった。現代美術に自分が感じてきたフラストレーションは僕が年来感じてきた仕事や生へのフラストレーションとほぼ一致する。そういうことだったのだ。 あと、前に書いた、GEISAIで秋元康なんかが個人賞をもっていることの意味もよくわかった。美術の格付けシステムとして、ある種美術の外部の権威を導入する必要があるということのようだ。転倒した話だけどまあ納得。うーん、いまさら改めて思うが、世界はそういうことだったんだよなあ。遊戯として軽やかに戯れることができなかったのは残念。ま、空しかったろうけどね、僕みたいなタイプだと。

ところで、「なんのために?」は若いころの僕が非常に頻繁に人々に対して発して、すごく嫌われていた質問だ。それは僕の聞き方に皮肉が含まれていたこともあるが、多くはそこを追求されるのが嫌、ということだったと思う。ほんと、何のためにあれをやりこれをやっているのか、ほんと知りたかったんだよね。それに対して、権威ある重層的な迫力を持つ答なぞもはや世の中になかったんだな。既に僕が十代の頃から。いらいらしたわけだなあ。

なお、三浦氏編集の「大航海」の現代芸術特集を発注中。読んでからまたこの件は論じる。

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