御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

長谷川毅「暗闘」 スターリン、トルーマンと日本降伏

2015-09-01 23:49:26 | 書評
前から日本の降伏に向けて原爆とソ連参戦は不要だったよなあ、という気がしていて、この本はそれに答えるのかな、と期待して読んだ。
結論から言えば、ソ連参戦が決定的だったようだ。原爆は決して大きな要素ではなかったようだ。これは米国の自己正当化の論議を否定できる話である。

話は1945年4月のルーズベルトの死去とそれに伴うトルーマンの就任から始まる。トルーマンに加え陸軍長官のスチムソン、国務次官のグルーなどなどのさまざまなスタッフの考え方と力学が展開される。グルーや英国などの融和派は天皇制の維持をポツダム宣言に入れることに努力する。トルーマンや「苛烈和平派」とされる人々はそうではない。スターリンはもちろん後者である。天皇制維持を許す許さないのニュアンスにより、日本に早く降伏させるか、あえて拒否させるかという点の差異は大きかった。
もう一方の事情があった。原爆の開発とソ連の参戦意欲である。ソ連は終戦間際に参戦して日本の領土を分捕るつもりだった。ソ連の参戦は終戦を早め犠牲を減らす上で米国としても希望していたことであった。しかしそこで原爆の開発が間に合った。ならばソ連の参戦は必要ない、ということで、原爆で戦争を終わらせるつもりになった。
原爆の投下は軍の命令系統から7月25日に命令された。ポツダム宣言は7月26日であり、原爆の投下との関連で言えば単なる後付に過ぎない。ポツダム宣言はソ連の署名抜きで発出された。これは米国のある種のだまし討ちである。結局米国としては原爆投下のアリバイとして、またソ連なしで終戦に向かうべく、ポツダム宣言を出した。
スターリンは原爆投下にショックを受けたようである。しかしその一方で日本侵攻を急いだ。8月10日に満州に攻め入り樺太、千島を取っていったが、9月2日の日本の正式降伏にはさすがにおとなしくする必要があった。北海道の北半分をもらうつもりでいたようだがそれはできなかった。北海道の人間を徴用するつもりが、アテがはずれたので関東軍のシベリヤ抑留となったらしい。そもそも関東軍はいきなりシベリヤに送られたのではなくとりあえずは現地で捕虜になっていた。

さて、こうした動きに対する日本の動きだが、結局天皇さえも一撃和平論者でありソ連の仲介を信じるものであったから、ソ連参戦を見るまでは結局のところ日本は降伏しなかったであろう。著者としては、ソ連がポツダム宣言に署名するなどしていれば戦争終了はもう数日早かったかもしれない、と論じている。そのとおりであろう。しかしソ連に裏切られるショックがなければとにかく降伏の決断はできなかった、ということだ。
本書から少し視野を広げればサイパンの陥落~沖縄戦の敗北の約1年のどこにでも降伏の可能性はあったと思う。ただ首脳たちがまともに方向を考えなかっただけである。これは天皇も例外ではない。戦争目的がわからないと同じく降伏ポイントもわからない。結局中立を見込んだソ連の裏切りで絶望するしか降伏の仕方がなかったんだなあ、と思うね。まあ軍人が強いといえばそれまでだけど、サイパンぐらいのころ以降は負けてばっかりの軍の首脳なんだから閣議なんかでぼろくそに言われたって仕方ないぐらいだと思うんだけどねえ。

島本理生「ナラタージュ」

2015-08-09 22:16:09 | 書評
ナラタージュ、とは映画などである人物の回想の形で過去の出来事をつづってゆく形式のことらしい。フランス語かスペイン語かで地味な植物とかを意味するのかと思っていたが最後まで出てこなかったので調べたらそういうことだった。まあでもナラタージュの意味は知らなくても読めますよ。

どっからいえばいいかなあ。主人公の女性は自分でもわからずいじめにあったことがあるような孤立しやすいしかし感受性の高い女性。その子が高校から大学2年までの間に恋するのが葉山という先生。繊細で感受性が強く、主人公のような人は極力守ろうとするいい人。しかし事情あって別居中の女房とまだつながりを保とうとしているのに主人公に気があるそぶりを見せる、優柔不断というかある意味ずるいやつでもある。小野君という主人公の恋人に一旦なる人間、強姦のトラウマを引きずって結局自殺する下級生、これはおそらく健全世界の象徴と思われる、米国に留学する同級生とその恋人(これも同級生)あたりが主要人物。

ストーリーはまあ読めばわかるのだが、いろいろと思うことがある。小野君がもう少し寛容な男だったら主人公は幸せに葉山先生を諦められただろうし、葉山先生がもう少し男らしい男だったらそもそもこれは悲恋にはなってなかったろうし、主人公がもう少し強引で、たとえばラスト近くで電車で引き返したところで葉山先生に駆け寄り胸に飛び込んでれば葉山先生もかわっていたんじゃないかなあ、とか思うなあ。強姦がトラウマで自殺した子も、もうちょっと考え方が違っていればなあ、と思う。しかしここに登場する人たちにはそれが運命であり必然なのだろう。そしてそのほんのしばらくの経験がこれからの人生で皆に反芻され続けてゆくのだろう、特に主人公にとっては。こういうことを思うのは弱さを抱えた人たちに関してばかりである。留学した男とその恋人みたいに、おそらくその辺の道の石ころでつまずいても「本来のコース」がかわらなそうに見える健全派にはそういうことは思わないな。

こころとこころに関連した行動や情景の描写がとても細やかで精密だ。余白も含めて。三島の天人五衰を2回目に読んだときに情景描写の長さと精密さに感服したが、それに近い感想を持った。「若い心のふるえが瑞々しく描かれている」なんていう人も多いんじゃないかと思うが、まあそういう言い方は少々ベタで作者にとっても不本意なんじゃあないかな。そういうことじゃなくて精密なんだよね、リアルというべきか。ちょっと衝撃のある切ないラストなんて情景と会話とこころの動きと所作がとても精密に、そのまま映画のシナリオにできるように描かれている。これこそこの作品の真骨頂だな。

ちょっとわかんないところ。最後の近くの主人公と葉山先生が体を交わす場面は必要だったのだろうかなあ? まるで両方のそれぞれが片思いをしている見たいな、お互い好きだけど何かがすれ違う恋は、肉体の交わりなしでも良かったのじゃないかなあ、と思う。あるいはそのすれ違いを肉体の交わりが明らかにしたということでいいのかなあ。確かにコトがすんだあとに泣き出しそうな顔で「これしかなかったのか、僕が君にあげられるものは。ほかにはなかったのか。」なんていうやつはぶん殴ってやりたくなるがなあ。確かにそのあと彼女はきついことを彼に言う。でも愛想尽かさないんだよねえ。さらにそのあと男はちょっと抜けて電話料金を払いに言ったりしているのにね(笑)。と書いているうちに少し理解が変わったかな。こういう記述がなんかリアルなんだよね。そういうことなんかなあ、と改めて理解。

なお、中年さえも後期に入っている小生にとっては、こういう青春群像はとてもまぶしかったな。感受性高きあのころに、こういう空気をもう少し吸ってみたかったという気がする。

東京学生映画祭に行って来た

2015-05-31 08:52:38 | 時評・論評
縁あって東京学生映画祭に行って来た。
初日の金曜日がアニメ、2日目3日目が実写で、2日目を見た。
4本の出展作品と、1本の海外学生映画の特別映写があった。
4本の作品は以下のとおり。

自転車の外へ(多摩美):閉塞した島での高校生の生活、そこから抜け出そうとする主人公の姿。古いカメラとそれを狙う銃を持った中国語を話す女がスパイス。

日陰のスワン(早稲田):合唱団のピアニストの座を新入りの男の子に奪われる女の子の話。そのつらさとそれを受入れアルトに回って歌うことに積極的に取り組む姿を描く。

雲の屑(多摩美):田舎の閉塞した人間関係を、その中で展開されるネットワークビジネスと東京から帰ってきた凶暴な男を中心とした暴力から描く。

みんな蒸してやる(多摩美):案山子になりたい男の子とその男を慕う妙な女の子の物語。小ネタの連続で展開してゆく。

実写部門の審査員は大林、深田、古館。


作品に関して、また審査員のトークに関していろいろ感想はあるが、現時点では審査の結果が出ていないので記載しない。審査の結果が出たあと編集しなおす。

ひとつだけ海外作品の特別上映について、これは審査に直接関係しないので感想を言っておく。

作品の名前は「アルバート」。ポーランドの映画らしい。役者の迫力がすごいね。また荒涼とした工場地帯の光景が印象的。そこで働くアルバートは、食事やリラックスする時間さえも管理された工場労働者である。途中ねずみをひそかに飼うが、処分させられてしまう。隣に居た年老いた従業員は、咳が止まらず生ごみと一緒に運ばれてしまった。なにやら1984みたいな話。
しかし率直に言って古いね。ついこないだまで社会主義国であったポーランドではあのように時間がとまっているのだろうか?そのような世界がまだ記憶に新しいのだろうか?なんか不思議だね。
僕たちの現代の課題は、社会のほとんどの人が自由にある程度以上豊かな暮らしをしつつも何かに従属しているような、あるいは不安に押しつぶされそうな気分を持っていることなんだよね。ケインズの言う「孫たちの経済的可能性」を実現してなお人間が幸せにならないのは何でなのか、ということだよね。そういう視点から見ればこの話はもう済んだ話である。いったいどこが高く評価されたのかわからない。ま、学生映画だからこんなもんかなあ。

本日の夜に改稿します。

6/6追記:その日の夜に感想を書くつもりが1週経ってしまった。賞は「雲の屑」が観客賞もグランプリももらう総なめ状態だったようだ。それ以外はこの日のものは賞なし。
で、僕の感想。

自転車の外へ:題名がダサイよね。自転車でいける外、島の外の世界へ、という希求と希望を描く、ということであればもう少し題名もあったような気がするなあ。さてストーリーだが、確かにじいちゃんも父ちゃんも土方だとか、たった4レーンしかないボーリング場だとかそこで会うのは同級生で男でつるんでるとホモと簡単に言われるとか、島の閉塞を表現した場面は少なからずある。最後に丘に登ってカメラを構えフラッシュが光る場面で終わる。外への意思を象徴した場面かな。こういう風にせんをひけばまあいいかな、と思う。が、古いカメラの意味がいささかなぞだし、それを取りに来る中国語を話す銃を持った女とかその依頼者、最後の場面での発砲を含む両者のいさかいとかわけわからんので、そっちのほうの派手な動きに頭が行くと閉塞だのなんだのは印象から外れてしまう。もっとじとっとした閉塞を救いない感じで静かに描いてもらいたいと思った。

日陰のスワン:これはストーリーと画面が一番まとまっていたかな。その分印象が薄味だったと思う。案外余白が悪くないよね。ピアニストの座を奪われたあとのヒロインが静かに夜にピアノに向かっているところとか、奪った男の子と囲碁をしたあとの一人顔とかね。しかしヒロインが先輩に襲われそうになる場面は必要だったのかなあ?あれなしでもいいような気がする。

雲の屑:これは賞もとったし評価も高い作品だな。男の世界の不条理な暴力性のある交友というのは良く描かれているなあとは思った。要は「ブラック」ってやつね。ただ、最も凶暴な男の暴力が突出しすぎていて、それだとあいつが悪いって感じになる。実はネットワークビジネスやっているやつもその周辺も十分に暴力的な人間であり、そのことも描かれているのだから、「スターリン」と呼ばれる男の凶暴性を少し抑えたほうが、不条理な暴力性のある交友の描写、という点では優れていただろう。あと、ヒロインの女子高生の役割が薄く感じられた。またスターリンの最後が異人にバットで殴られて終わりかい、って感じ。彼が死んでも不条理な暴力性のある社会は続くんだよなあ、ヒロインにも救いがないんだよなあ、ってところで終わるとよいと思った。

みんな蒸してやる:まあこれは小ネタの連続だから統一的にどうのこうのという話ではないが、監督さんは人並みではない発想を持つ人なんだという印象は強かったね。

あとは審査員。大林さんはもうだめだね。ピンとはずれだったりあまりに包括的過ぎて異論が出ないような話をするだけの人であったように思う。昔話はある程度面白かったが。深田さんは実に誠実で的確な評価をする人だと思う。作品へのコメントは実に的を得ていたし、「技術的進歩が映画監督の特権性をなくした、皆が競い合える時代である」という認識は実に鋭い。古館さんも面白くまた心得たコメントしてたね。




藤堂志津子「秋の猫」

2015-05-17 21:57:22 | 書評
小谷野敦氏が本の中で薦めていたので前に買ったのだが、あまり面白くなさそうで読んでいなかった。
で、改めて読むと大変面白かった。小谷野氏の小説を読んでようやく私小説というものがわかってきたところで、藤堂氏のものの面白さもわかるようになったのかな、とも思う。
以下の短編が5つ入っている。

秋の猫:男はこりごり、と思い定めた主人公が警戒心が強い猫を最後はてなづける話。対猫で悩める主人公に割り切りをもたらしたのは散々苦労させた前の男の言葉というのは皮肉というか福音というべきか。
幸運の犬:だんなと別れるさい、本来は置いてゆくことが条件であった夫婦の愛犬をひそかに連れ出す話。5つの中ではこれだけが意外な結末(連れ出す、というのは最後にわかる)。他のものと多少テイストが違う。
ドルフィン・ハウス:ラッセンを真似た絵を自分の所有するアパートの壁に自ら描いた家主と近づく主人公。相手は猫を飼っていて、その猫を預かっていたときにのろいの言葉をかけたらしばらくしてその猫が死んだことに主人公はひそかに大きな罪悪感を感じる。しかしアパートのオーナーとはうまく接近している。この辺で手を打っていいのだろうか、と打算をしつつも。
病む犬:病弱な犬を抱えた主人公が生活さえ圧迫されつつも犬の面倒を見て医者に通う。その医院で出会った丸い男と接近し、ついには結婚する。結婚は打算である。だんなを愛していたというよりもシングルマザーが良い父親役を求めるように自分の飼い犬の父親的な存在を求めた。経済的な打算も少なからずあった。そして二人には子供が生まれる。生まれたこともを連れ帰ったとき夫は犬を抱え「お前も可愛いけど人間の子供も可愛いね、お前の弟だよ」という趣旨のことを犬に語りかけつつ彼女と息子を迎えた。そのとき「私の胸のうちに、夫への感謝と謝罪が湯水のようにわいてきた。気がつくとあたたかな涙をこぼしていた。」
感謝と謝罪かあ。素敵で正直だなあ。そういえば小谷野氏の「黒髪の匂う女」の終わりのほうも似たような感情を言う場面があったなあ、と思い出した。
公園まで:愛犬が取り持つ縁で今は猫を飼う男性と近づきになる話。だんだんとお互いの過去の不幸がわかってくる。しかしそれでもおそらくこの人たちに平安の日々が来るのだろう、という感じが少しずつ強まってきたところで終わる。

どの話でも主人公の女性が計算高いのが共通している。ただ、性格として計算高いとかけちとか言うのではなく、経済的に厳しい人たちばかりであり、また年齢も三十歳をいくらか超えて選択の幅も狭まっており、計算高さはおそらくその産物である。そのような計算高さは親に莫大な資産があるような人以外は社会人の初期におおむね身に着けるものであり、たとえいま高収入を得ていても多くの人は「計算高い」といえる。その点ではこの設定は多くの人の共感を得られるのではないだろうか。そのようなある意味したたかな女たちが、打算を残したまま、あるいは打算を超えて、打算のない男たちと接近して行くのが3,4,5話である。1,2話は男とのハッピーエンドあるいはその予感を持ってこないからこの範疇からずれるけど、一応どちらも男抜きでペットとともによき境地に達するのでやはりこれもハッピーエンドということではある。

なにやら僕も犬か猫を飼いたくなったな。

 6/6追記:なんと秋の猫は2回目のエントリーだった。もうボケだねえ。まあそれでも感想の文面を見る限り前回より明確に理解している印象はあるね。
それと、やっぱり「病む犬」でおんなしように感動してたのはまあ妙に感心したというか安心したというべきか。

小谷野敦の小説をいくつか読んだ

2015-05-10 17:51:57 | 書評

ここ2-3日は小谷野敦の小説ばかり読んで過ごした。この人の小説には、女性に不器用な男性の、また周囲より頭が良く知識があるがそれゆえうまく交われない人間の、葛藤と意外に平凡な思い、あるいはよこしまな思いそれからドンくさい行動やうまくいった事実などが良く書かれている。ある意味日記をだらだらと集大成しているみたいなんだが、なんだかひどく共感する。全く、本来の私小説というのはこういうものなんだろうな。自分の心や主観や行動の思惑や相手の対応から感じられたことなどがとても正直に書かれている。ストーリーに仕上げるための作為がない、少なくとも目に見える形ではほとんどない。その分共感ができるのだろう。
ここ2-3日読んだのは以下のとおり

グンはバスでウプラサに行く:太宰さんの話
僕のエメタリス:蘭(あららぎ)さんの話。後述の吉川さんも出てくる
童貞放浪記:これは表題どおり
黒髪の匂う女:吉川さんの話、現在の妻の話も少々。エンディングの筆者の思いが正直でまた美しい。
ミゼラブル・ハイスクール1978:表題どおり
鴎たちのヴァンクーヴァー:ふられた彼女を追いかけていったカナダ留学の話。だが、つらい面は主に「悲望」に書かれており、こちらはどちらかというと日本から大挙してやってきた(おそらく立命の)大学生たちとの楽しく明るい交友を主に描いている。
ピトロッホリーの秋:夏目漱石とマーラーの仮想的な遭遇を描いた小説。驚くような結果はないのだが淡々と味わいがある。


社会的惨事の消化あるいは昇華の仕方-東日本大震災4周年に思う

2015-03-14 15:34:24 | 時評・論評
親族の命日はその人物をしのぶ契機である。普段は雑事にまみれた生者たちも死者の生前の姿や言動を想起し、感慨を持つ。そのことにより死者は生者の記憶の中でなおも生きることができる。年を重ねるにつれ感慨は丸みを帯びてくるだろう。次第に薄れていくだけかもしれない。しかし、それはそれでよいのだろう。そうやって死者は緩やかに生者の中でも消化されまた昇華され、ある意味再びの死を迎える。そして次はしのんできた生者の番である。

この3月11日は東日本大震災の4周年であった。テレビは追悼的番組一色であったようだ。私は一切そのような番組を見ていないが、あれこれ聞くに感情的なものが多かったように聞く。また原発絡みで誤解を広げるような話もいまだに絶えたわけではないようだ。まあいつもあるような日本のテレビ放送がされたってことだろう。

追悼というのは本来宗教的感情を伴うものであるから、感情的になるのはまあ当たり前である。しかし冒頭に述べた親族や身内、知り合いならともかく、社会的追悼となると少し違ってくる。皆で黙祷をする、ささやかに式典をする、ぐらいならいいんだが、テレビがあり新聞があり雑誌があり、実に余計なことをしでかす。他人の追悼の感情を理解したつもりになって安直な映像にまとめて適切な時間に収め、直後にコマーシャルを入れてスポンサーから金をとる、というのそもそも最低であるが、それに似たことを新聞も雑誌もやっている。テレビの場合で言えば、多くのああいった映像の背後に感じられる世をなめたテレビ関係者の傲慢を思うといつもむかむかする。追悼どころか冒涜である。すぐにテレビを消すかチャネルを変えてしまっていたが、近頃はテレビのニュースや報道番組、ドキュメンタリーは一切見ないようになった。わざわざ腹を立てるために見ることはない、という当たり前のことである。

こんな風に自分が腹を立てるのは、原爆の町に生まれたから一層強い感覚があるのかもしれない。まあテレビの話ではないんだが、その日のちょっと前ぐらいから共産党系の原水禁と社会党系の原水協の連中が町にやってきて、追悼とか原爆許すまじ、とひと騒ぎして帰る。あとは何にもない。僕の親戚にも居た原爆の生き残りの人や原爆で死んだ人の親族が持つ追悼の思い、惨事の消化と昇華には全く関係なく騒ぐだけであった。今は地元を離れたからわからないがおそらく今でもそうなんだろう。冒涜の馬鹿者どもめ。ああいう輩を駆除する権利がほしいものだ。

別に遺族や被害者に寄り添ってくれ、というつもりはない。おそらくいやらしいべたべたとした寄り添いをされるだけだ。いや、しているかもね。そんなことではない。ほっといてほしいのだ。ほっといて、まあそれでも気がすまないなら遠慮がちに話を聞いてくれ。もし被害者や遺族が許すなら画像でも文章でも記録にしてくれ。ただし、安直に編集せず。そして、希望を穏やかに聞いてくれ。金かも知れない、追悼施設かも知れない、あるいは遺族や被害者の前から黙って立ち去ることかもしれない。取材者の感情を満たすのが目的ではないのだから、遺族や被害者の思いが最優先である。

これが追悼としてできることである。それ以上は何もない。復興を助けるなら金を落とせ、職場を作れ、遊びに行け。それでいい。そしてうまい食事にうまいと言おう。TOKIOのように。ただしこれは追悼ではない。ある地域に対する経済的な手助けである。恩に着せることなく金をおとし、必要がなくなれば黙って引こう。

まあそういうことだ。しかし社会としての追悼にはもう一段やるべきことがある。徹底的に科学的にまた理性的にやるべきことをやる。更に、その惨事の原因となった罰するべき対象があれば罰するのだ。そして一歩一歩進めてきたことを周年日に報告するのが真の社会的追悼であろう。原爆に関して言えば、市の中心の平和公園から過去帳に記された人々が町の発展を見守っていると考えたい。でも復興の歩みは毎年忘れずに報告しよう。あと原爆は震災と違って人災だから、人災を起こした人を裁こう。だれがなぜ落としたのか、それに罪はないのか、ということの明確化しよう。おそらくアメリカの大統領の謝罪と、ルメイの子孫の謝罪が必要だ。本当ならルメイとトルーマンを平和公園で磔にしてゆっくり死んでもらうぐらいの罪なんだがね。いや、それでも甘いかもしれない。この罪の明確化を徹底的に怠るがごときことをしたは残念なことだ。「あやまちはもうくりかえしませんから」ではなく、「過ちはもうくりかえさせませんから」という構えを取り戻すことだ。敗戦後の政治状況で困難であったことは良くわかるのだが、60年安保の学生の騒ぎのときにアジェンダとすることはできたと思う。何らかの工作をして学生運動側から提出させアメリカの世論に影響を与えることで何かが変わったかもしれない。今からでも遅くはない。いろいろなやり方はあると思う。

東日本大震災については、現在までの復興を周年日に報告しよう。何がとこまで戻り、何がまだ(もう)ダメか、は実は皆に知れ渡っているわけではない。徹底的に科学的にまた客観的に記述し、犠牲者の前に報告をすべきである。全国の原発を止めてしまうというとんでもない二次災害を民主党政権が引き起こして、それを自民党政権も元に戻せず国富を失っているが、それも客観的に報告しよう。そうした淡々とした事実の報告と記録を行い、その整理・記述する行為自体が行政の優先順位の設定をより厳しく規定し、包括化して行くことは大変結構なことだと思う。そうやって進展を伝えるのが社会としての惨事の追悼の仕方である。

みひろ原作 映画「nude」

2015-02-08 15:37:42 | 書評
映画をみた。「AV男優という職業」を読んでいて調べ物をしていて行き当たった。AV女優のみひろが原作を書いた「nude」という作品である。ありがたいことにネットですべて見ることが出来た。これは実に名作であった。

平凡な高校生が、卒業後華やかな東京で地味な仕事をして、それでもなんとなくモデルとか女優とかをやりたいみたいな気分を持っていて、モデル事務所と称したAV・グラドル事務所にスカウトされる。グラビアだけで始めて結構なところまで進むが、ここですでに彼氏や地元の友達とはギクシャクし始める。そういうことが続いたあとあるときついにAVデビューを決意する。きっかけとなったのは意地の悪い有名プロデューサーのきつい言葉だ。「女優になりたいというがどういう女優になりたい」ときかれ答えられず、「中途半端だ、あなたのようなのははいて捨てるほど居る」といわれる。おそらく、華やかになること・有名になることにぼんやりとあこがれていたに過ぎない自分を深く反省したのだろう、また改めて自分はここでのピークで終りたくはないと考えたのだろう、その後まもなくAV出演を了承する。2社で2年で24本、いわゆる単体女優契約で条件は破格によかったとのこと。ここで彼氏とのつらい別れがあり、また初AVへの苛立ちと恐れを見せ、また故郷での悪評の高まりなどAVのつらいところがあらわれる。しかしAV女優みひろは前進する。AVに出演したことから知名度は大きくあがり、イベントへの参加や歌の披露などもするようになった。いまや有名アイドルである。最後の場面は、強姦演技で首を少々強く絞められ気絶し、そこから目覚めたあと、再びせりふに取り組む姿が映る。傍らの持参したパソコンには書きかけの自伝小説が入っている。みひろはつらいことを乗り越えて自分の場所にたどり着いたのだ。もう迷いはない。

ある意味成功話なのだが、その展開はつらく、重くまた静かである。自分の肌をさらすことと引き換えに実績を積み上げ名声を得なければならない女性の、つらい葛藤と静かな前進への決意が画面からあふれてくる。美しい画像はそれをうまく捉えていると思った。主題と直接関係するわけではないかもしれないが、AV撮影現場の小気味のいいきびきびした現場スタッフたちの動きは印象的であった。
試写会の半分超は女性で、その中にはモデル・タレント・女優もかなり含まれており、涙ぐむ人も多かったという。そりゃそうだね。自分の苦労と成功を彼女に重ね合わせてみているんだろうな。皆何らかの意味で女を売ることで生きてきた人たちだろうから、きっと思い入れはひとしおだったと思う。みんな、がんばれよ!と声をかけたくなるね。

ところでみひろってまだ24歳なんだ。2010年AV引退、っていうから20歳で引退だよね。はやいねえ。まあ名前を確立したなら(AV業界にとどまっていると突入する)この先の下り坂にしがみつくよりは新しいあり方を選んだわけだよね。利発そうな女性だしいろいろやっていけるんだろうなあ。僕の半分以下の年であれだけの経験をしているんだ。たくましく進んでゆくに違いない。
みひろさん、がんばってね!


フランスの風刺画新聞社襲撃事件について:これは殺人事件であって、言論の自由とテロの戦いではない!

2015-01-18 17:07:59 | 時評・論評
この件についてはたくさんの人がいろんな意見を言っているから、僕なんぞが言うべきことはないんだが、もやもやするので下手なりに書いておく。

1.あの風刺画は最低である
第一に言いたいのは、あの風刺画は最低である、ということだ。風刺というのは権力と権力をからかうことにあるのである。フランス社会でマイノリティーのイスラム教徒を対象にしてどうする? やるとしても一番最後だろう? カソリックとかアメリカとかフランス政府が本来大々的からかいの対象でしょうが!
それから、あの絵はどこがからかいなんだ? 単に侮辱しているだけじゃないか? 描かれたほうも気分によっては苦笑いするような、そういう絵を描けよ。クオリティが最低の仕事をしている。風刺画じゃなくて侮辱画だ

確かフランスでは大震災のとき腕が六本あるゴールキーパーや3本足の相撲取りを描いたよね。弱っている国に誤解というよりも侮辱・差別とも言うべきメッセージを出してきた。あんときも何が風刺だ、何がユーモアーだ、とい思ったが、今回も一緒だね。少数派・弱ったものに対して当人にとっては侮辱か差別としか思われないものを出してくる。フランス人の風刺だとかユーモアは要はヘイトだね。今回のではっきり見切りがついた。

2.ユーモアーは伝わらなかったら発信者の負けである
襲撃後の記者会見で「テロリストはユーモアがなかった・理解できなかった」とかほざいているらしいが、そりゃ芸人がスベッたとき、「観客はセンスがなかった」といっているようなものだ。見苦しい負け惜しみでしかない。相手につたわるように描けばいいのだ。イスラム教徒を苦笑いさせる風刺画を一生懸命考えろよ。ムハマンドがケツこっちに向けて星出しているのなんて誰も笑えないよ。風刺なら風刺らしく、まじめにやれ。

3.人殺しはいけない
それでも人殺しはいけない。下らん侮辱画を書いた人間を殺すのがいけないのではなく、どんな人でも殺してはいけない。それがすべてだ。
侮辱画があまりにひどいからといって人殺しが許されるわけではない。
ただ、逆も言える。殺されたからといって侮辱画に何の問題もないということではない。

4.言論の自由は別途論議すべきである
ホームズ判事だったか、「映画館の暗闇の中で、実際には何も起きていないのに「火事だ」と叫ぶことはいかなる基準から見ても言論の自由として守られるべきことではない」といっていたがそのとおりだと思う。社会的圧力とか正しい慣習により守るべき範囲というものを守らせる必要があり、またやむなき場合は名誉毀損などの法的手段を確保しておく必要があろう。ただ、「どのくらいなら」というのを明文化するのは難しいとは思うので、必要があれば誹謗中傷の被害者が対抗できる手段を確保するといったことで整備すべきであろう。
侮辱画を描く自由が全面的に認められるかどうかは社会的判断だ。侮辱画を書く自由=言論の自由⇔テロ 見たいな形で扇動された400万弱のフランス人と巻き込まれた(言論が自由でない)各国首脳の興奮が収まったところでまともに論議したらいいんじゃなかろうか。そうでなければ言論の自由に名を借りたイスラム迫害だね。

5.これはフランス国内の問題である。
日本で言えば在特会の(初期の)デモにしばき隊が武器を持って殴りこんで死人が出たような話である。何で世界的な話に騒ぎがひろがるのか?
フランスはイスラム教徒の過激化を防ぐ必要があるし、自動小銃なんてものが国内に出回っている現状を何とかしなければなるまい。

三島由紀夫 「天人五衰」

2015-01-18 16:27:25 | 書評
「豊饒の海」4巻の最終巻である。ストーリー自体というよりも文章による情景や心象の「スケッチ」にひたすら感心した覚えがあり、また最近人にそれを雄弁に語ったこともあったので読みたくなったしだいである。

改めて読んで、実にすばらしいと認識しなおした。おそらく全体の半分以上は情景描写ではなかろうか。もちろん情景を見ながらの透や本多の心も描かれるわけではあるが。それらが実に緻密で、リアリティーと適度な意外さ・抽象性・詩情をあわせ持っていると思う。末尾を飾る月修寺の庭の描写は有名だが、それ以上に船の動きを観察する透の目から見た駿河湾の情景がすばらしい。

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沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる。それでも沖はきのうよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。5月の海はなめらかである。日は強く、雲はかすか、空は青い。
きわめて低い波も、岸では砕ける。砕ける寸前のあの鶯いろの波の腹の色には、あらゆる海草が持っているいやらしさと似たいやらしさがある。
乳海攪拌のインド神話を、毎日毎日、ごく日常的にくりかえしている海の攪拌作用。たぶん世界はじっとさせておいてはいけないのだろう。じっとしていることには、自然の悪を呼びさます何かがあるのだろう。
五月の海のふくらみは、しかしたえずいらいらと光りの点描を移しており、繊細な突起に満たされている。
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これが冒頭にある。このあと船の動きが出てきたりして景色は動くのだが、それにしてもこんな感じの記述が5ページも続く。これがすばらしい。たとえば上の引用では「いらいらと光りの点描を移しており、繊細な突起に満たされている」という記述があるが、海のきらきらがさざなみににしたがって絶え間なくその場所を移していく様をきれいに描いている。
そうした記述のあと後ようやく、

--安永透は倍率三十倍の望遠鏡から目をはなした。

と主人公が登場し、そして主人公の仕事が船の監視、ということが記述される。

ただし三島を甘く見てはいけない(笑)。このあとも3-4ページも続く情景描写は頻発する。そのそれぞれが引き込まれるようなスケッチである。記述された景色を想像するのに頭が回り、夢中になる。僕も安永透のように一日中何かの使命を持って(しかし思索する時間をたっぷり持ちつつ)1日中海を眺めてすごしてみたい、と思ってしまう。

僕もそうだったがおそらく初読でストーリーを追いたい人にとってはこういうのは少々辟易するだろう。実際、書評をググッて見ても情景描写を賞賛する声は少ない、というかない。しかしそれはバレーやオペラをストーリーだけで評価するに等しい愚である。ストーリーをおって先をあせって読んでしまった人には、是非とも改めて情景描写のすばらしさ(僕は決してこれを美文などとは言いたくないが)を味わってほしいと思う。

だれか駿河湾の映像と冒頭5ページの朗読をあわせた番組を作ってくれないものだろうか、などとも前から思っているのだが。。




「吉田茂と昭和史」

2014-10-19 00:47:11 | 書評
吉田茂という人は意外だが戦後の宰相時代よりも戦前の外交官時代のほうが輝いているように見えるね。戦後のことばっかりしか知らなかったから戦後の人とそう思っていた。また風貌のせいもあるがイギリス大使というのはイメージとしてはぴったりだ。しかしこの人は戦前に活躍した人であり、その舞台は中国である。大きな考えと戦略は戦前戦後とも持っていたが、やはりさすがに戦後は占領下、その手腕の発揮もある程度は限定的である。もちろん戦前も政党や軍部、はたまた天皇という難しい相手はいたのだが、より自主性が発揮できているように思う。

それにしても豪胆なひとである。若手の分際で白馬に乗って外務省に通ったというエピソードは有名であるがそのほかにも多くある。

対中強硬方針を主張して(ただしそれは当時の国際的所ルールに準拠したものであったのだが) 孤立し、奉天総領事から一見栄転のスウェーデン大使に転任を命じられたが、田中首相に直接自分を事務次官にしろと売り込んだ。そしてそれは成功した。そして田中首相の下、後には浜口首相・幣原外相のもと自分の得意分野である対中政策を満州事変も含む難しい時期において指揮をとった。

戦後、吉田を嫌うGHQの民生局が吉田の党を分裂させ中道の別の首班の内閣を作ろうとしたときはいささかも動じず、マッカーサーに「これは貴下の命令か」と真意を問い、マッカーサーに吉田首班を認めさせた。

昭和21年最初の首班指名後、組閣前に「食料メーデー」で21万人が皇居に押しかけるなど騒然とした空気の中、これまた吉田いささかも動じず、マッカーサーが動くまで組閣を待った。おそらく下手に組閣して現状の食糧不足に早速責任と方針を問われる立場になるよりもマッカーサーの約束を得てからにしようとしたのだろう。案の定食料メーデーの2日後マッカーサーは吉田に「日本国民は1人も餓死させない」と約束した。

あとしみじみ感じるのは、吉田のように大きな意味での外交として政治を仕切るのは大事なことだと思った。たとえば戦後に関して言えば、豊かで独立した国を作るためならば、押し付けとはいえ非武装憲法も当面の策としては厭わない、天皇規定が大きく変わっても「国体は変わらず」と言い通す、など、臨機応変といえば臨機応変、目的のために手段を選ばないといえばそのとおりの活躍をしている。

まあ誤算はなかなかそういう融通無碍なことを堂々とまたしれっとできる人間はいないってことかなあ。その後継は生真面目すぎるか、あるいは大目標への視点がなかったような気がする。だから吉田のような堂々とした狡さがなかったのかなあと思う。
ただし、そうはいっても池田隼人はオポチュニスティックだったし、あいまいを続けた佐藤栄作とか越後を豊かに、が潜在的目標であったかもしれない田中角栄は吉田に比肩するのかな。まあ彼らの業績が吉田ほどには目立たないのは時代の平穏さから見てやむをえないとは思うけどね。「吉田的偉大さ」というのは少々研究に値するような記がするね。