上の紋は「野田」姓に多い紋で、今まで字面から「ヌの字」紋だと思い、家紋ギャラリーでもそう紹介してきました。
ところが、先日岐阜市から南、足近町北宿の墓地を訪ねると、この様な紋の墓石が数多く見られました。もちろん野田姓の墓石で、墓地の80パーセント近くが野田姓でした。
又の字にも見え、近くで畑作業をしていた地元の人に確認すると、「まるまた」と言い、「又」の字でした。
一瞬、野田姓の「又の字」紋の発見のうれしさと共に、自分の思い違いの恥ずかしさを味わいました。
話によりますと、江戸末期まで野田なにがしと云う庄屋がいて、明治になって姓を付ける時に、村の皆が庄屋の「野田」姓を名乗った、又野田には三系統あったらしい、という事です。
一昔の私でしたら、姓を持たない或いは名乗れなかった村民のほとんどが、庄屋の姓を名乗る事は、疑いませんでしたが、今は、一部の人はそうかもしれませんが、江戸時代のいつ頃からか野田氏がこの地に来て営農し累々と子孫を増やしてきて、一族を形成したのではないかと、推測します。
もっと江戸時期の村落の有様を勉強しなければなりません(汗)