<つる鷹の羽> <桧扇に一本鷹の羽>
上の紋は小野木姓に特有な家紋である、とズーット以前に書いた事がありました。
しかし、いままで墓地を訪れても小野木姓の墓石紋は、「鷹の羽」「笹」紋などが見られるだけで、なかなか上記の紋に出会う事がなく、岐阜市の東部に多いとは分かっていましたが、少々自分に自信がなくなりつつありました。
最近の調査で、やっとその在り処が分かり、ホッとしました。
「つる鷹の羽」の名は、私が勝手に付けた名称で、正確には「三本葉に違い鷹の羽」でしょうか。菖蒲の葉かもしれません。
大島町墓地(各務原・蘇原)
細畑霊園(岐阜市)
「小野木」姓の家紋分布図
今まで、二五〇〇〇分の1の地図を使って墓地を捜していましたが、古い集落があり墓地の存在の可能性が高いにもかかわらず、見当たりません。
最近2万分の1の地図を使い、目を凝らしてながめますと、前の地図では地名の文字に隠れていた<墓地>マークが次々発見できました。
これからしばらくは、今まで見落としていた墓地を訪れる事にします。まずは「地図6」から・・・・・・・
墓石を訪ねて何千里・・・・・・・ではないですが、地図上の関係で尾張、愛知県に足を運ぶようになりました。
木曽川を挟んでお隣さんなので、人・家の交流もあったと想像され、家紋も関連していると思われます。
上のような「編笠に並び矢」紋が、「日比野」姓で「違い矢」紋と一緒に多く見られました。
この紋は、この地の西方の安八町で数少ないですが古い墓石の日比野姓でもみられ、珍しい紋ですので関係があるかもしれません。
下が笠松町長池で多く見られた廣瀬姓の「五本骨扇に三星」紋。
上は木曽川を挟んですぐ隣の尾張国宝江で見られた廣瀬姓の「五本骨扇に並び三星」紋です。二基と少ないですが、両者の関係が面白いです。
この紋は何だと思いますか?
森姓で多く見られましたが、未だかつて描いたことがありません。名古屋の知り合いの紋屋さんに聞いても分かりませんでしたが、凧の糸か釣り糸を巻く、糸巻きのようにも見られますが、確かな事は分かりません。
とりあえず「見本・糸巻き」紋と名付けておきました。
岩田姓では、私にとってはなじみの少ない「三星」紋と「下り藤」紋が多くある墓地もありました。
http://www.geocities.jp/zchitaya/sei-tizu/a/t-iwata.html
今一つ。「逆下り藤に赤の字」
赤座姓であり、変った紋です。
木曽川を挟んでお隣さんなので、人・家の交流もあったと想像され、家紋も関連していると思われます。
上のような「編笠に並び矢」紋が、「日比野」姓で「違い矢」紋と一緒に多く見られました。
この紋は、この地の西方の安八町で数少ないですが古い墓石の日比野姓でもみられ、珍しい紋ですので関係があるかもしれません。
下が笠松町長池で多く見られた廣瀬姓の「五本骨扇に三星」紋。
上は木曽川を挟んですぐ隣の尾張国宝江で見られた廣瀬姓の「五本骨扇に並び三星」紋です。二基と少ないですが、両者の関係が面白いです。
この紋は何だと思いますか?
森姓で多く見られましたが、未だかつて描いたことがありません。名古屋の知り合いの紋屋さんに聞いても分かりませんでしたが、凧の糸か釣り糸を巻く、糸巻きのようにも見られますが、確かな事は分かりません。
とりあえず「見本・糸巻き」紋と名付けておきました。
岩田姓では、私にとってはなじみの少ない「三星」紋と「下り藤」紋が多くある墓地もありました。
http://www.geocities.jp/zchitaya/sei-tizu/a/t-iwata.html
今一つ。「逆下り藤に赤の字」
赤座姓であり、変った紋です。
上の紋は「野田」姓に多い紋で、今まで字面から「ヌの字」紋だと思い、家紋ギャラリーでもそう紹介してきました。
ところが、先日岐阜市から南、足近町北宿の墓地を訪ねると、この様な紋の墓石が数多く見られました。もちろん野田姓の墓石で、墓地の80パーセント近くが野田姓でした。
又の字にも見え、近くで畑作業をしていた地元の人に確認すると、「まるまた」と言い、「又」の字でした。
一瞬、野田姓の「又の字」紋の発見のうれしさと共に、自分の思い違いの恥ずかしさを味わいました。
話によりますと、江戸末期まで野田なにがしと云う庄屋がいて、明治になって姓を付ける時に、村の皆が庄屋の「野田」姓を名乗った、又野田には三系統あったらしい、という事です。
一昔の私でしたら、姓を持たない或いは名乗れなかった村民のほとんどが、庄屋の姓を名乗る事は、疑いませんでしたが、今は、一部の人はそうかもしれませんが、江戸時代のいつ頃からか野田氏がこの地に来て営農し累々と子孫を増やしてきて、一族を形成したのではないかと、推測します。
もっと江戸時期の村落の有様を勉強しなければなりません(汗)
まだまだ前回の北方墓地の調査にかかわっています。やっと半分くらい終わったところかな~
仕事の合間の1時間程度の調査ですから、なかなかはかどりません(汗)
でも、今まで描いた事のない紋に出会って、少々気が高ぶります。
鵜飼姓ですが、北部にあった鵜飼姓の紋と、水の流れの形が違っています。以前似た紋を描いたような気もしますが・・・・・・・・・・
桑原姓でありましたが、同じ見本・菊水紋の系統でも、変った紋で、中央に「日の丸地紙」紋が組合わされていました。これは描いた事はありません。
島影姓で、姓も変ってますが、扇紋の形も変っています。扇の骨の本数を考えると、上絵する時考えてしまいます。
矢部姓。「丸に見本・中陰地紙に十六枚菊」
この紋も初めて見ます。
紋は数多く描いてきましたが、まだまだ描いていない紋に出会います。
「丸に鷹の羽違い」ですがが、羽の筋の数が一部一本多いです。
「鷹の羽」紋に関しては、線の描き方で幾種類もの鷹の羽紋が墓石に彫られていて、分類するのに気が回りません。この場合は「見本・鷹の羽」にしましたが、多くは単に「鷹の羽」として記録してきた方が多い(汗)
仕事の合間の1時間程度の調査ですから、なかなかはかどりません(汗)
でも、今まで描いた事のない紋に出会って、少々気が高ぶります。
鵜飼姓ですが、北部にあった鵜飼姓の紋と、水の流れの形が違っています。以前似た紋を描いたような気もしますが・・・・・・・・・・
桑原姓でありましたが、同じ見本・菊水紋の系統でも、変った紋で、中央に「日の丸地紙」紋が組合わされていました。これは描いた事はありません。
島影姓で、姓も変ってますが、扇紋の形も変っています。扇の骨の本数を考えると、上絵する時考えてしまいます。
矢部姓。「丸に見本・中陰地紙に十六枚菊」
この紋も初めて見ます。
紋は数多く描いてきましたが、まだまだ描いていない紋に出会います。
「丸に鷹の羽違い」ですがが、羽の筋の数が一部一本多いです。
「鷹の羽」紋に関しては、線の描き方で幾種類もの鷹の羽紋が墓石に彫られていて、分類するのに気が回りません。この場合は「見本・鷹の羽」にしましたが、多くは単に「鷹の羽」として記録してきた方が多い(汗)
現在、北方の町営墓地を調査しています。
公共墓地は姓が様々で、集落に特長的な姓=家紋は見つかりにくく、苦労しますが、(ご褒美にというか)変った姓、家紋を発見することがあります。
この墓地は、路を挟んで南北にあり、今日やっと北部の墓地の調査を終えた所です。2日かかり、南部はもっと広いようで、4日くらいかかるかもしれません。でも木野村一族の「二の字」紋がある事を期待して、又頑張ろうと思っています。
この北方町墓地は、まとまった姓はあまりないけど、古いと思われる墓石が多く見られました。
例えば、「大野」姓の主だった紋「・五星」「梅鉢」「四つ石」「梅の花」が少しづつありました。
変った姓では、「横幕」姓があり、紋も今まで描いた事のない紋でした。
「丸に鴛鴦に水」でしょうか。鳥はオシドリに見えますが・・
この横幕姓の紋は、他に「抱澤潟」紋もありましたが、下のような変った形の「抱澤潟」紋もありました。
この鳥は何の鳥でしょうか?
鳩かカワセミでしょうか?分かりません。
「稲見」姓であり、明治初期からの墓です。
この「丸に見本・菊水」紋は、北方町墓地の北方の千部墓地の「鵜飼」姓に見られました。この墓地の鵜飼姓は紋帖通りの「菊水」紋がほとんどですが、このような変った「菊水」も三基ありました。
同じ千部墓地の「佐藤」姓の「見本・源氏車」紋
公共墓地は姓が様々で、集落に特長的な姓=家紋は見つかりにくく、苦労しますが、(ご褒美にというか)変った姓、家紋を発見することがあります。
この墓地は、路を挟んで南北にあり、今日やっと北部の墓地の調査を終えた所です。2日かかり、南部はもっと広いようで、4日くらいかかるかもしれません。でも木野村一族の「二の字」紋がある事を期待して、又頑張ろうと思っています。
この北方町墓地は、まとまった姓はあまりないけど、古いと思われる墓石が多く見られました。
例えば、「大野」姓の主だった紋「・五星」「梅鉢」「四つ石」「梅の花」が少しづつありました。
変った姓では、「横幕」姓があり、紋も今まで描いた事のない紋でした。
「丸に鴛鴦に水」でしょうか。鳥はオシドリに見えますが・・
この横幕姓の紋は、他に「抱澤潟」紋もありましたが、下のような変った形の「抱澤潟」紋もありました。
この鳥は何の鳥でしょうか?
鳩かカワセミでしょうか?分かりません。
「稲見」姓であり、明治初期からの墓です。
この「丸に見本・菊水」紋は、北方町墓地の北方の千部墓地の「鵜飼」姓に見られました。この墓地の鵜飼姓は紋帖通りの「菊水」紋がほとんどですが、このような変った「菊水」も三基ありました。
同じ千部墓地の「佐藤」姓の「見本・源氏車」紋
岐阜市西部の又丸墓地での西垣姓の「丸に見本抱き澤潟」紋
江戸末期からの墓石が多く残されていて、この地の有力者だったと思われますが、上のような形の違う墓石紋がありました。
「抱き澤潟」紋
一般的には 下のような紋です。
このような紋は、今まで「見本紋」として描いてきました。
「丸に葉付き下り藤」とでも言いましょうか。
同じ墓地の「小林」姓でありました。
「下り花桐」でした(汗)
「子持ち分銅に鉞」紋でしょうか。
松岡姓でありました。
「丸に子持ち折入角に花角」
石原墓地で<堀口>姓にありました。
この堀口家の墓石も江戸末期からのものですが、同じ堀口家でも、紋がほかに「花菱」「橘」「剣片喰」「下り藤」紋が2~4基づつあり、出自が違う家柄かもしれません。
画像をひっくり返して載せたのではありません!
墓石巡りをしていると、時折下記のような家紋を逆さにした墓石紋に出会います。
逆さ「丸に剣片喰」
逆さ「八角に剣片喰」
逆さ「亀甲に鬼蔦」
この様な見本が来ても、着物などに紋入れに来る場合は、紋が逆になっているかどうか、お客さんに確認して紋入れをします。
未だかつて家紋を逆さに入れた事はありません。
ただ、以前に書いたように、加藤氏の「逆さ上り藤」紋もありますので、あながちこれらの<逆さ紋>が間違いだとは断定できません。
間違いかどうかは別にして、これらの紋はこのまま未来に伝えられて行くのでしょう。
ところで、寒風が吹き荒れる中、今まで見た事の無い「黒揚羽蝶」が、墓地の片隅の生け垣に、寒さを堪えていました。「カラスアゲハ」とも「クロアゲハ」とも違うようです。季節を間違えて飛んで来たのでしょうか。
クロアゲハチョウでした。胴体部分の色が違うので、別の種かと思いましたが、後ろ羽の色、模様はクロアゲハでした。
こちら参照
墓石巡りをしていると、時折下記のような家紋を逆さにした墓石紋に出会います。
逆さ「丸に剣片喰」
逆さ「八角に剣片喰」
逆さ「亀甲に鬼蔦」
この様な見本が来ても、着物などに紋入れに来る場合は、紋が逆になっているかどうか、お客さんに確認して紋入れをします。
未だかつて家紋を逆さに入れた事はありません。
ただ、以前に書いたように、加藤氏の「逆さ上り藤」紋もありますので、あながちこれらの<逆さ紋>が間違いだとは断定できません。
間違いかどうかは別にして、これらの紋はこのまま未来に伝えられて行くのでしょう。
ところで、寒風が吹き荒れる中、今まで見た事の無い「黒揚羽蝶」が、墓地の片隅の生け垣に、寒さを堪えていました。「カラスアゲハ」とも「クロアゲハ」とも違うようです。季節を間違えて飛んで来たのでしょうか。
クロアゲハチョウでした。胴体部分の色が違うので、別の種かと思いましたが、後ろ羽の色、模様はクロアゲハでした。
こちら参照
去年の今頃から始めた墓石調査は、やっと100回を超えました(中には調査途中の墓地もありますが)。私的には去年のうちに100回をやり遂げたかったけど、仕事の傍らでする作業ですから仕方ありません。
100回目の墓地は、「坪内」姓の多い墓地でした。
坪内氏といえば、徳川・旗本の坪内氏が有名ですが、徳川・旗本の坪内氏の家紋は「丸に州浜」を代表に「藤丸に左鎌」などがありますが、この墓地の坪内姓の家紋は「左三巴」がほとんどで、「丸に州浜」紋は二基しか無かった(もっとも紋の入っていない古い墓石が数多くありました)
坪内氏
前野氏系坪内氏に「巴」紋「鷹の羽」紋「州浜」紋を使用する、と書かれているので、こちらの系統の「坪内氏」かもしれない。
近くで農作業をしていた古老に聞くと、<この地の坪内は京都・伏見の坪内氏で、関ヶ原の合戦で西軍につき、破れて身を隠すようにこの地と笠松?に落ち延びた。各務原の少林寺にも一族の墓石がある。またこの集落の坪内は三〇〇年の家系図を皆持っている>という事。
関ヶ原で徳川についた坪内氏とは異なった「坪内氏」かもしれない。ただ墓地が少林寺にもあるのは、徳川旗本の坪内氏と混同してられるかもしれません。
まだまだ美濃国は広く、墓石巡りは果てしなく続きます。
100回目の墓地は、「坪内」姓の多い墓地でした。
坪内氏といえば、徳川・旗本の坪内氏が有名ですが、徳川・旗本の坪内氏の家紋は「丸に州浜」を代表に「藤丸に左鎌」などがありますが、この墓地の坪内姓の家紋は「左三巴」がほとんどで、「丸に州浜」紋は二基しか無かった(もっとも紋の入っていない古い墓石が数多くありました)
坪内氏
前野氏系坪内氏に「巴」紋「鷹の羽」紋「州浜」紋を使用する、と書かれているので、こちらの系統の「坪内氏」かもしれない。
近くで農作業をしていた古老に聞くと、<この地の坪内は京都・伏見の坪内氏で、関ヶ原の合戦で西軍につき、破れて身を隠すようにこの地と笠松?に落ち延びた。各務原の少林寺にも一族の墓石がある。またこの集落の坪内は三〇〇年の家系図を皆持っている>という事。
関ヶ原で徳川についた坪内氏とは異なった「坪内氏」かもしれない。ただ墓地が少林寺にもあるのは、徳川旗本の坪内氏と混同してられるかもしれません。
まだまだ美濃国は広く、墓石巡りは果てしなく続きます。