初めてヤフオクに出品して見ました。
最初作った時、1点づつ作っていたら割に合わないと思い、2,3点づつ作り置きをしていましたので、在庫があり、思い切ってヤフーオークションに参加しました。
いまどき「家紋額」は、人気というか関心が薄いせいか、訪問者も少ないです。
もしよろしければ、一度ご覧になってください。
ヤフオク
私の独断ですが、この岐阜地区特有だと思っている紋があります。(「繋ぎ五星」紋のように全国区になった紋のありますが)
「五星」
この紋は紋帖には右の紋として掲載されていますが、岐阜では左の紋の方が断然多いです。
この紋は岐阜市の栗本霊園を主に則武・島付近の「栗本」姓に多く見られました。
この紋は他に大野姓などにも見られます。
「井桁にギボシ」
この紋は「常川」姓に多いと聞いていましたが、場所は特定できず、最近ようやく分かりました。
切通霊苑・長森地区に多く見られ、線の描き方もそれぞれです。
「日の丸二つ扇」
この紋は「長縄」「永縄」姓に多く、まず永縄姓のありかが分かりました。
岐阜市から東、各務原・中屋地区の下中屋(仮)墓地にありました。長縄姓はもっと東・芋瀬(おがせ)の方にあるのは確認しています。
「松葉月に豆三星」
春日姓に多く見られ、尻毛大豆田霊園・下尻毛にありました。
参照 <家紋ギャラリー>
<姓と家紋と集落>
まだ、穂積の廣瀬姓の「木瓜の中に二木」紋(所々の墓地で散見しますが集団ではみられない)、早川姓の「見本・七本扇車」紋などはこれからです。
前の投稿で白木姓の「逆左一巴」紋があった事を書きましたが、別の墓地で藤井姓で同じ紋を見つけ、この様な紋もあるのだと納得しました。
「五星」
この紋は紋帖には右の紋として掲載されていますが、岐阜では左の紋の方が断然多いです。
この紋は岐阜市の栗本霊園を主に則武・島付近の「栗本」姓に多く見られました。
この紋は他に大野姓などにも見られます。
「井桁にギボシ」
この紋は「常川」姓に多いと聞いていましたが、場所は特定できず、最近ようやく分かりました。
切通霊苑・長森地区に多く見られ、線の描き方もそれぞれです。
「日の丸二つ扇」
この紋は「長縄」「永縄」姓に多く、まず永縄姓のありかが分かりました。
岐阜市から東、各務原・中屋地区の下中屋(仮)墓地にありました。長縄姓はもっと東・芋瀬(おがせ)の方にあるのは確認しています。
「松葉月に豆三星」
春日姓に多く見られ、尻毛大豆田霊園・下尻毛にありました。
参照 <家紋ギャラリー>
<姓と家紋と集落>
まだ、穂積の廣瀬姓の「木瓜の中に二木」紋(所々の墓地で散見しますが集団ではみられない)、早川姓の「見本・七本扇車」紋などはこれからです。
前の投稿で白木姓の「逆左一巴」紋があった事を書きましたが、別の墓地で藤井姓で同じ紋を見つけ、この様な紋もあるのだと納得しました。
岐阜の白木姓の紋は、八代地区で「丸に剣片喰」、河渡地区で「丸に五三の桐」紋が多く見られ、他に「橘」「三柏」「違い釘抜」「左一巴」などが少しづつあります。
「姓と家紋と集落」参照
今日黒野町・下鵜飼地区に行きましたら、「左一巴」紋の墓石が多くありました。
ところが、下の写真のように上下逆の二通りの紋が彫られていました。
紋帖の「左一巴」紋は左の紋です。下は「家紋ギャラリー」からの上絵紋。
右の「左一巴」紋が、元々あったのか、上下間違えて作ったのか、今の所分かりませんが、双方同数の墓石がありました。残念ながら古い墓石には紋は彫られていませんでした。機会がありましたら調べてみます。
この白木姓、この下鵜飼地区には古くは(昨日書いたように)鵜飼荘の神社の祭頭になっていて、幕末の庄屋にも名が残っています。更に明治初期の村議選にも名を連ねていて、地元の有力者だった事が分かります。
まだまだ他の地区の白木姓に違った紋があるかもしれません。
「姓と家紋と集落」参照
今日黒野町・下鵜飼地区に行きましたら、「左一巴」紋の墓石が多くありました。
ところが、下の写真のように上下逆の二通りの紋が彫られていました。
紋帖の「左一巴」紋は左の紋です。下は「家紋ギャラリー」からの上絵紋。
右の「左一巴」紋が、元々あったのか、上下間違えて作ったのか、今の所分かりませんが、双方同数の墓石がありました。残念ながら古い墓石には紋は彫られていませんでした。機会がありましたら調べてみます。
この白木姓、この下鵜飼地区には古くは(昨日書いたように)鵜飼荘の神社の祭頭になっていて、幕末の庄屋にも名が残っています。更に明治初期の村議選にも名を連ねていて、地元の有力者だった事が分かります。
まだまだ他の地区の白木姓に違った紋があるかもしれません。
田中姓の紋は、今現在調査した中では「鷹の羽」紋と「剣片喰」紋が多く、次いで「梅鉢」「澤潟」「橘」「桔梗」・・・・となっています。
因みに私(田中)の家紋は「丸に鷹の羽」で、戦前は岐阜の町の中を転々としていたと聞いてますが、出身地は不明です(親によく聞いておけばよかったと後悔してます)
墓石巡りをしている中に、田中=鷹の羽と結びついた墓石群が見つかるかな、と密かに期待を持っていましたが、なかなか出合えませんでした。
先日黒野町・小野地区の墓地を調査したら、上のような「丸に澤潟」「丸に梅鉢」「丸無し梅鉢」紋の田中姓の墓石が数多く見つかりました。
この黒野町ー後ほど詳しくレポートするつもりですがー鵜飼七郷・九郷と云われ、その中に小野(小埜)村があって、その鎮守深坂大明神の祭頭は田中姓であったと、黒野史誌に記載されています。その後明治初期の村会議員にも名を連ねるような地元の有力者であった事が伺えます。
この地区の田中さんは、何故二通りの紋があるのかは未だ不明ですが、「澤潟」紋、「梅鉢」紋を受け継いできたの事は確かです。
因みに私(田中)の家紋は「丸に鷹の羽」で、戦前は岐阜の町の中を転々としていたと聞いてますが、出身地は不明です(親によく聞いておけばよかったと後悔してます)
墓石巡りをしている中に、田中=鷹の羽と結びついた墓石群が見つかるかな、と密かに期待を持っていましたが、なかなか出合えませんでした。
先日黒野町・小野地区の墓地を調査したら、上のような「丸に澤潟」「丸に梅鉢」「丸無し梅鉢」紋の田中姓の墓石が数多く見つかりました。
この黒野町ー後ほど詳しくレポートするつもりですがー鵜飼七郷・九郷と云われ、その中に小野(小埜)村があって、その鎮守深坂大明神の祭頭は田中姓であったと、黒野史誌に記載されています。その後明治初期の村会議員にも名を連ねるような地元の有力者であった事が伺えます。
この地区の田中さんは、何故二通りの紋があるのかは未だ不明ですが、「澤潟」紋、「梅鉢」紋を受け継いできたの事は確かです。