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ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

作詞家になれなかった私part5

2019年12月08日 | 介護
 前の章で書いたがそもそも北海道もオホーツクも行ったことが無い。想像でしかないのだ。あっちこっち旅行も行ったこともなければ人生経験も恋愛経験も乏しいのだ。そのすべてにおいで乏しい私が作詞をする。想像の世界で作詞をする。実生活のあらゆる制約の中から作詞を生み出すのだ。作詞は自己流です。
 誰かに師事を受けたわけでも指導を受けたわけでもない。先生に付いたわけでもない。その日の気分で思うがままに作詞をする。作詞をするがすぐに母に見られてしまうので作ったら応募をする。当然のごとく落選をする。手元に残った作詞はわずかしかない。そのわずかな作詞を今読み返すとひどいものだと言うことがわかる。
 いかに自分が人生経験が乏しいのかが手に取るようにわかるのだ。それでもいつか日の目を見たいと思っている。叶わぬ夢を追い続けているのだ。
 それはある意味私の過去をさかのぼることにあると思う。和裁の学校に行かれなかったことを悔やみ、プロの作詞家になる路を絶たれ、こっそり密かにプロの作詞家になりたいと時折演歌系の月刊誌に応募をしたのが始まりだった。
 入賞こそしなけれど本に名前が載り、時にはタイトルも載るので少しは見込みがあるのかと自分で勘違いしていた。ましてや作詞家教室のお試しのDMまで来たのだ。何とか親を説き伏せてお試しだけは行ったが、お試しだけで終わってしまった。そこから先には進めなかったのだ。その後、自宅のアパートの裏に有名なプロの作詞家の先生の家があったのに、門をたたくことも出来ずに…。
 自分のやりたいことはことごとく両親に反対され、母に文句を言われた。そもそも和裁の学校に行き、手に職を付けて働いたお金で反物を買い、大好きな某歌手に1枚着物を縫ってプレゼントしたいと言う夢があったのだ。それと手に職を付けていれば将来独身でも困らないとおもったのも事実です。
 しかしその夢を絶たれ、次なる夢がプロの作詞家になってその某歌手に1曲作詞をすることだった。自分の作詞した曲を某歌手が歌い、その歌のレコードやCDがレコード店に並ぶことを夢に見ていた。が、その夢も叶わぬまま、某歌手はこの世を去って行った。
 今、私は将来に自分の足跡を残すべく作詞家になりたいと思っているのかも知れない?和裁の学校に行きたいと思う以前に物書きになりたいと思っていた。「ペンは剣よりも強し」と言う言葉が頭の中にあったのだ。ペンの力で世に出ることを望んでいた。しかしそれはもっとも険しい道のりだとも思ってもいた。物書きになる夢をあきらめ和裁の学校に行こうと思ったが、その夢も絶たれ、泣く泣く就職したのは言うまでもない。
 その後、作詞家になりたいと言う夢を持つようになったのだ。しかし、その夢も絶たれ、事はひそかに行われるのだが、叶わずにいるのが現実です。
 世の中はそんなに甘くはないのだ。すべてを反対され否定されて生きて来た私は事をこっそりと運ぶようになっていた。一々断りはいれないのだ。こっそりと自己判断で行うのだ。落選しても落選しても応募をする。そこには一縷の望みがあるのだ。

作詞家になれなかった私part4

2019年12月08日 | 介護
私はプロの作詞家になりたかった。が、なれずにいる。いまだになれずにいる。ここで、以前に作詞した詞をいくつか載せておこうと思う。
🎤遠い夢
逢いたいよ 逢いたいよ 今すぐ逢いたいよ
手をつなぎ 歩いてた あの道を
咲いていた 紫の 花ひとつ
そっと摘み 髪に差し 歩いたね
好きだよと 言えないで うつむいたあれは夢 あれは夢 遠い夢

泣きたいよ 泣きたいよ 今すぐ泣きたいよ
声あげて 思いっきり 泣いてみた
幸せが 逃げてゆく 気がしたよ
つかまえて 離さずに この胸に
好きだよと 言ってみた 大声で
あれは夢 あれは夢 遠い夢

追いかけて 追いかけて 今すぐ追いかけて
あの人を あの人を 追いかけて
いつまでも いつまでも 追いかけた
叶わない 夢だって 知ってても
好きだよと 言いながら ほほえんだ
あれは夢 あれは夢 遠い夢

🎤一人オホーツク
北の海に一人来ています
あなたの忘れる一人旅です
波の飛沫が心を濡らす
未練なんてとっくに捨てたのに
なぜか涙が流れます
ここは最果てオホーツク
身体までも心までも凍ります
もう逢えないのです
もう逢わないのです
海鳥泣いて私も泣いた恋しくて

北の海は一人しばれます
あなた忘れる一人旅です
やっと見つけた宿屋の明かり
心さえも身体さえも温める他人の心が温かい
ここは最果てオホーツク
身体までも心までも温かい
もう逢わないつもり
もう逢わない気持ち
海鳥泣いて私も泣いた悲しくて

もう逢えないのです
もう逢わないのです
海鳥泣いて私も泣いたオホーツク

今、思えばこの頃の作詞がいかにいい加減かがわかる気がする。これではどこに応募しても無理だと思う。

作詞家なれなかった私part3

2019年12月08日 | 介護
 そもそも何故作詞家になりたかったかと言うと、元々子供の頃から文章を書くことが好きだったに他ならない。原稿用紙が好きだった。中学生の時に大学ノートに詩を書いて国語の先生に見せに行ったことがあった。しかし自宅では何かを書いても3日もすると母に見られていた。日記を書けば3日目には母に見られると言うアクシデントに見舞われ、日記は3日と続かなかった。
 作詞家になりたいと思ったのは大好きだった某歌手に自分の作詞した歌を1曲歌ってもらうと言う夢と、街のレコード店にそのレコードが並ぶと言う夢があったのだ。
 叶わぬままに彼女はこの世を去り、私も叶わぬままにこの歳を迎えた。それでもわずかな夢と微かな希望を持ち、落選しても落選しても作詞大賞の新人賞に応募をしている。死ぬまで無理でもあきらめない。
 世の中にはあらゆる意味で法律の壁があるので、他人の作詞を真似ることは許されないのだ。そこにオリジナルを求められるのだ。似たような作詞は許されないのだ。あくまでも要求されるのはオリジナルなのだ。私は足りない知識と教養から作詞をしている。
 時に行ったこともない場所も見たことのない景色も光景も登場する。すべては想像の世界でしかないのだ。
例えば「吹雪の日本海」と作詞をしても実際に私は吹雪の日本海はテレビでしか見たことが無いのである。そこらへんがいい加減と言えばいい加減だろうが、実際のプロの作詞家が作詞をするにあたって本当に現地に行ったかと言うことはいささか疑問も感じるのだ。プロの作詞家がわざわざ時間を作っていちいち現地に赴き作詞をすると言うことはそんなにないと推測される。
 実際に某歌手の歌う「霧の何とか」は現地にはそんなに霧は出ないと聴いたことがある。また別の某歌手が歌う「シクラメンの何とか」も元々シクラメンに何とかは無く、後から埼玉県の農業技術研究センターがバイオテクノロジーを駆使して開発したものだと聞く。
 作詞では時としてこのように実際に無いものや無いことも作詞に出来るのだ。
1.他人の真似をしない。
2.同じような作詞をしない。
3.出来るだけオリジナルを心がける
この3つが私が重要にしていることです。それには常に多くの唄を聴くことで、ジャンルを問わず多くの唄を聴くことはある意味重要だと思われます。
 恋愛経験も乏しい私が時として不倫も歌も作詞をし、あらゆるジャンルに耳を傾けているのも事実です。ただし英語や外国語の作詞は出来ないのが現実です。そもそも語学力がないのですから…。ジャズもシャンソンのフランス語も意味も分からず、聴くのは雰囲気で聴きます。好きになるのはインスピレーションと雰囲気とメロディですね。歌の歌詞の意味はわからないのが事実です。苦手な音楽がハードロックとレゲエとデスメタルです。これはさすがに聴きませんね。ラップも良くわかりません。
 基本私は作詞の勉強をきちんとしたわけではありません。どちらかと言うと自己流です。

作詞家になれなかった私part2

2019年12月08日 | 介護
世の中プロの作詞家になれるのは本の一握りだと思う。単に私のように文章を書くのが好きだからと言ってなれるのもでもない。誰か先生についてもプロの作詞家になれると言う保証もないのだ。カルチャースクールの教室に通ってもプロの道は険しいと思う。
 私はあらゆることを反対され否定されて生きて来たので、今更カルチャースクールも反対されると思っている。それにもまして同居の母が認知症である。ましてやこの歳では無理に近い。それでもわずかな夢に向かっている。叶わない夢に向かっている。
 行ったことのないところをほぼ想像で作詞をする。したことのない経験をほぼ想像で作詞をするのだ。なぜなら現地に行かれないからだ。なぜなら経験したことがないのだ。想像を膨らませるのだ。
 そもそも日本国中を旅行もしたことが無い。夜の店もせいぜい安い居酒屋しか行かない。恋愛経験も乏しい。子供を産んだことも子育てをしたこともない。したがって孫もいないのだ。その中で作詞をする。
 とりあえず字数があって起承転結があってつじつまが合えばいいと思っている。そこらへんがいい加減だ。果たしてプロの作詞家と言われる人は実際に現地に行くのだろうか?人生経験は豊富なのだろうか?
 私のような乏しい人生経験で良い作詞が出来るとは決して思わない。思わないが、テレビでは歌番組も聴き、時にカラオケにも行き、良い作詞の唄は心に響くと言うものだ。出来れば心に響く作詞をしてみたい。
元々演歌系だったのが、フォーク系やポップス系やはたまたシャンソン系にまで手を染めて、今や歌謡浪曲まで作詞をした。
 したはいいが、箸にも棒にも掛からないのは紛れもない事実なのだ。そこに一筋の光が見えていればいいのだが光は見えてはいない。とりあえず箸にも棒にも掛からなくても応募はするのだ。昨今は募集が毎回誰誰さんに向けてと、言うのでその人を」イメージして作詞をし、応募するが見事に落選する始末です。
 何事にもプロになると言うのは険しい道のりがあり大変なのだ。世の中に出るのはほんの一握りの逸材でしかないのも事実です。私はその一握りにもなれないのだ。あと何年生きられると言う保証もないのだから、せいぜい残された人生を作詞家になりたいと思うことは自由だと思う。それに関して他人は否定は出来ないと思う。
 私は常に自由を求めて生きて来た節がある。が、現実は自由に見えるだけで思うような自由も無く過ごしてきた。それは何もかも否定されて監視されて反対されて生きて来た生活の中にあるのだ。常に自由を追い求めて生きて来た。半ばストーカーのような母に育てられすべてを監視されて育った私は、日々の寝る時間さえ決められていた。
 私は夜な夜な布団を頭からかぶり頭の中で物語を作っていた。そう言うことも後に作詞家になりたいと言う夢につながるのかも知れない。自分をいつも悲しい物語の主人公に置いていた。主役の自分は不幸な女優を布団の中で演じていた。