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ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

好き勝手なことを書いています!

2018年01月17日 | 介護
毎度毎度好き勝手なことをブログに書いています。
従って適当、いい加減なことも書いています。
このブログコメントは受け付けておりません。
始めた頃にコメントを受け付けたらひどいコメントばかりなので受け付けないことにしました。
とりあえずランキングに参加していますがあまりランキングの数字は気にしていません。
以前は同居の母の悪口も書きました。
それはこれからも書くと思います。
しかし、母を憎んではいません。
生んでくれたことに感謝します。
主人に対しても結婚してくれたことに感謝します。
これからも他人様の迷惑にならない程度に好き勝手なことを書かせていただきます。
ご理解ください。
出来るだけ法律に引っ掛からないように書きたいのですが、法律に詳しくないので、もしも引っ掛かったら即座に削除します。
私も自分のブログ、そこまでして戦う気持ちはありません。
どうぞご理解ください。
このブログ6年あまり続けて来ました。
自分の病気に対しても正直に話してきたつもりです。
その事に関してもご理解ください。
出来れば面白おかしく読んでいただければ幸いです。

私と言う女遠い記憶part14

2018年01月17日 | 介護
2018.1.17
遠い記憶の糸を手繰っている。遠い遠い記憶でしかない。
自宅に帰った私は両親の愛をそこに感じていた。そこには呑んだくれの職を転々としてギャンブル好きの父がいたが暖かな家庭だった。私は少しの間家にいたが小遣いにも困り、前の会社に頼み込んで働くのであった。貯金はあった。しかし自分名義の貯金であっても母に管理されていて自由になるお金など皆無だった。職場では出戻りの私を快く受け入れてくれた。ところがまた職場で嫌がらせに合うのである。
一緒に働いていたおばちゃんがやたらと意地悪だった、吉祥寺のデパートだったのに開店時間ギリギリに来るのである。そして私が並べた商品が気に入らないのか並べ替えるのです。商品を床にこぼせばまるで嫌味のようにオーバーにモップで拭くありさまだった。営業中にお客様が目の前を通るのにミカンをパクパクと食べるようなおばさんだった。あまりにもひどいので私は会社の上司に行って職場を変えてもらった。
そのころ今倉千代子さんはまだ並木和子のところにいた。なぜか後援会の集いも並木和子の経営しているディスコで行われた。週刊誌に彼女がディスコのママだとか経営者だとか書かれた。それも今にして思えば並木和子の策略だったのかも知れない。私は彼女に会えるかもしれないと思い、職場の隣のお姉さんを誘ってディスコに行った。が、その日は会えなかった。
話を戻すと、並木和子と彼女のところをやめてから次の年の4月、私はNHKののど自慢の予選会のはがきを出し、はがきが通り、予選会に府中まで行くのである。前日の夜になぜか初めて自宅に彼女から電話があった。私がドキドキして受話器を取ると、彼女だった。とっさのことでびっくりした。「明日、浅草の国際劇場に来ない?」かというお誘いだった。私は明日のど自慢の予選があることを告げて、予選が終わったら行く旨を伝えた。電話を両親に聞かれては困るので蚊の鳴くような声で話した。次の日私は朝から府中ののど自慢の予選会場にはがきを持って出かけた。おそらく自分の番号の札をもらったと思う。自分の番号はあまりにも遅い番号だった。それでも何とか予選会は受けたいと思った。通れば次の日、テレビで彼女と共演出来るのである。
が、係の人が最後までいてくれないと結果がわからないと言われ、私はのど自慢の予選をとるか国際劇場の楽屋をとるかでのど自慢の予選会を泣く泣くあきらめてその足で国際劇場に向かうのであった。
国際劇場の楽屋口に着いた。たまたま入り口にこれから楽屋に行くと言う運転手の関谷さんに逢った。事情を話すと一緒に楽屋に行ってくれると言うので一緒に緊張しながら私は楽屋に向かった。ドキドキしていた。楽屋暖簾をくぐると私は小声で「おはようございます!」と、挨拶をした。この世界では午後であろうとも夜であろうとも「おはようございます!」は定番の挨拶です。楽屋に通される少し前に私は持参したカセットテープのスイッチを入れた。こっそり入れた。そのテープは今も自宅にあり大切なお宝です。
少しの間言葉を交わし、本を出したい話をして原稿用紙のようなノートに書いたものを渡した。彼女からはアメリカに行った時のp土産らしく1ドルコインのブレスレットかキーホルダーのようなものをもらった。彼女とお揃いだと言うそれは長い年月を経て失くしてしまった。

私と言う女遠い記憶part13

2018年01月17日 | 介護
2017.1.17
遠い記憶の糸を手繰っている。ほぼ忘れかけた遠い記憶です。
今倉千代子さんは石川さゆりさんの楽屋に行き、挨拶を済ませ、通路ですれ違った宝田明さんにも挨拶をして、楽屋口を出た。私はそのあとをついて回った。何もかも初めてのことだった。心なしか私は緊張していた。楽屋口を出ると私たちは目の前のアマンドに入った。二人で向かい合って座った。遠い記憶なのでよく覚えていないが確かカツサンドとサラダとスープとアイスコーヒーのようなものを彼女が注文してくれた。私はやたらと緊張していた。運ばれてきたものが思うように喉を通らなかった。
途中彼女が気を利かせてコマ劇場の事務所に行ってはくれたが、食欲はなかった。食べ終わって私たちは楽屋口から入り、客席に座った。客席は満員だった。通路に折りたたみの椅子も用意され、そこにもお客さんは座っていた。私たちは客席の中央の通路に設置された折りたたみの椅子に座った。
少しばかり舞台を見ていたら客席のお客さんがすぐに今倉千代子さんがいることに気が付いた。客席がざわつく前に私たちはその席から立って一番後ろの誰からも気づかれないガラス越しの席に座った。そしれそのままそこで石川さゆりさんのミュージカルを見たのである。
私は終始ドキドキしていた。どんな会話をしたのかは今となっては覚えていない。終わって私もプログラムをもらいそのまま劇場を後にした。和子の男に頼まれていた背広のボタンをオカダヤで探すも見つからず、オカダヤを後にすると彼女は靴屋の店先で私にサンダルを買ってくれた。そのサンダルは真黒く汚れてぼろぼろになったが今でも私の宝物です。
私たちはサンダルを買い、そのままタクシーに乗ってマンションに帰った。
この日のことは遠い記憶の中のささやかな思い出です。今にして思えばよい思い出だったかも知れません。私は次の日も次の日も出来ない家事をやっていた。時には失敗もあった。心はすでにこのマンションに来て数日も経たないうちにホームシックにかかっていた。こっそり和子の目を盗んではそのころの友達に電話をしていた。電話口で私はいつも泣いていた。他人の飯を食うことがこんなに大変だと初めて知ったのである。
大好きな彼女はほとんど仕事でいないのです。たまにいても思うように会話も出来ず、辛く苦しい日々を送るのです。毎夜私は布団で泣いてばかりいました。二十歳の小娘に世間の風は冷たかったのかも知れません。和子に怒られたことに泣き、思うように彼女と会話が出来ないことに泣いていました。
それはいつだったか覚えていませんがあるとき、私のお風呂上りに私の寝ている部屋に来て寒いだろうと薔薇の花のタオル地のバスロープを持って来ました。それはお風呂上りに寒いからと彼女がガウン代わりに盛って来てくれたバスローブでした。優し心づかいに感謝しましたが、後日そのバスローブは私の元から去ってゆくのです。あれは悲しい思い出でした。
毎日毎日なれない家事に苦戦し、失敗を繰り返し和子に怒られていた私はホームシックにもなり、とうとう1か月と1週間でそこを去るのである。
その間1日だけ休日をもらい実家に帰ったが実家の両親の下で泣いたのは言うまでもない。辞めるときに和子が私に8万円という月給をくれた。その月給が高いか低いかは別として私はそのお金を持って、来るときに紙袋2つだった荷物が4つになり実家に帰った。
帰る前に彼女に挨拶し、色紙にサインをもらい。握手もしてもらうと私はその場で号泣をした。私は紙袋4つをぶら下げ母が迎えに来ると言う渋谷の駅まで地下鉄で向かった。

私と言う女遠い記憶part12

2018年01月17日 | 介護
2018.1.17
この話の決論から言おう。私はわずか1か月と1週間で今倉千代子さんと並木和子の下を去ったのである。
私の仕事の時間は何時から何時までと決まっていたわけではなかった。朝起きてから就寝するまでが仕事の時間だった。なれない家事に一つやっては「どっこいしょ!」とへたり込むのでそれを和子に見つかるのは怖かった。しかし、ある時それを和子に見つかりこっぴどく怒られた!泣いて私が謝ったのは言うまでもない。
私はだんだん痩せて来た。履いていたジーンズがゆるゆるのなり、ベルトを持っていないのでビニールひものようなものをベルト代わりにした。食事をしていたが私の食事はみんなの食事が終わってからの残り物をいただくのでそうなったのかも知れない?あれはいつだったか夜に彼女と二人っきりになった。私は夕食を作ることになった。私は何が食べたいのか今倉千代子さんに聞いた。彼女が「天ぷら」と言うので私は生まれて初めて天ぷらを揚げた。手元に持っていた料理の本で天ぷらを検索し、こっそりその本を見ながら作った。おまけに天つゆまで作るのである。彼女は私の揚げた天ぷらを「美味しい!」と言い、玉ねぎの天ぷらをいたく気に入ったようだった。私にも食べてと勧めてきたが私がいると食べられないと席を外してくれた。それでも私は思うように食事が出来なかった。
天ぷらはきっちり小麦粉を冷蔵庫で冷やし、冷たい水と氷と卵で衣を作った。油の温度にも気を付けた。天つゆはこれまた鰹節で出汁を取り作った。サクサクの天ぷらだった。冷蔵庫のありもので作ったので野菜ばかりの天ぷらだったと思う。その後いつだったか朝食も作った。前日、彼女と和子と和子の男が自宅でふぐちりを食べた。その残りの大根があった。ふぐちりは赤坂のどこかの料亭かお店のふぐちりだったと思う?私の口には入らなかったが3人は前日の夜にふぐちりを食べていた。そのふぐちりの残りの下茹でされた大根が冷蔵庫にあった。私は次の日にその大根をみそ汁に入れた。みそ汁の具材は大根と油揚げだったかも知れない?鮭を焼き、卵焼きも作った。納豆も並べたかも知れない?後にも先にもそのマンションで食事を作ったのはその時だけだった。
そういえばこんなこともあった。彼女はなぜかトニックシャンプーを使っていたので私もトニックシャンプーを買った。そしたら彼女にちょっと怒られた。彼女曰くファンの人からもらったので仕方なく使っているとのこと。自分の頭皮に合ったシャンプーを使うように勧められた。ごもっともな話である。
ある日和子が私が毎日退屈だろうと彼女と気晴らしに出かけて来るように言って来た。紙袋2つで家出のように来た私にはろくな服も無かった。痩せてブカブカのジーンズに紐をベルト代わりにして出かけた。表に出ると彼女はタクシーを拾った。私もそのタクシーに乗り込んだが離れて座った。ドキドキしていた。緊張していた。初めての経験です。タクシーで向かった先は新宿のコマ劇場だった。彼女と二人、楽屋口から中に入った。初めに事務所に行った。彼女は事務所の人に挨拶をし、そのまま石川さゆりさんの楽屋に行った。
そのころの私は石川さゆりさんが嫌いだった。なぜなら私は彼女と同じ年であったのだ。おまけに今倉千代子さんは彼女を可愛がっていた。いわゆるそれは嫉妬だった。

私と言う女遠い記憶part11

2018年01月17日 | 介護
遠い記憶の糸を手繰っている。まさに遠い遠い記憶です。
彼女は来る日も来る日も働いていと、言うより働かされていたと言った方が正しいかも知れない?
その頃和子は事務所の社長という肩書きの他に都内でディスコを経営していた。元々和子はやり手の女であったそれ以前にも夜の店を経営していた。その手の手腕はかなりのものだった。経営能力にたけていた。そして和子は何でも出来た。料理も普通に出来るのである。
それはある日和子は糠を炒っていた。もちろん糠味噌に入れる糠である。炒り糠である。今の私なら元々出来ている炒り糠を買うが、和子は糠を炒って塩水を加えて糠味噌に足していた。それはきちんと糠床が作れると言うことである。確かに和子は糠味噌を漬けていた。
しかし、今倉千代子さんは漬け物が大嫌いなので和子の糠味噌で漬けたお新香を食べる訳もなく…。
和子は自分が何でもそつなく出来るので私に対しても酷しかった。私は良く和子から怒られた。二十歳になったと言ってもまだまだ子供です。ましてや自宅では何もしたことがありません。毎日あれもこれもは出来なかったある時彼女の仕事がオフになった。たった1日の休みだった。風邪気味だという彼女はしきりにその頃流行りのルームランナーを自室でやっていた。それもこれも今は遠い記憶でしかない。
彼女は仕事でやたらと地方にも行っていた。遠い地方では前日に前乗りします。従って彼女は仕事から帰ってきたらすぐに荷物を詰め替えて出掛けてしまうこともあるのです。