遠い記憶の糸を手繰っている。
母は幼い頃に実の母を病気で亡くしている。それ以前に母は実の姉を亡くしている。母の父、いわゆる私の祖父は幼い母を連れて再婚した。母のところへ来たのはまだまだ若い18歳の義母であった。
後に義母は私の祖母になる。
義母は祖父に子供がいることを知らずに嫁に来た。従っていきなり18歳で子育ても家事もしなければならないのである。義母はその後次々と子供を産む。それは母にとっては妹や弟である。幼い母は次々生まれる義理の妹弟の世話と家事をする羽目になるのである。母の話では小学二年生から家事をするのである。何故ならば義母のお腹がいつも大きかったからに他ならない。
ガスの通っていない田舎である。朝から火を起こし家事をこなすのです。もちろん幼い母の背中には妹や弟が背負われていました。
遊びに行きたくても遊べず、子守りを強いられた幼い母の苦労は今思うといかばかりかと思われます。
そんな苦労した母は私に対してもあらゆる面でうるさかったのです。私はいつも母の管理下の元に生活していた。自由があるようでない暮らしを強いられていた。
毎夜毎夜寝る時間も決められていた。小学生の低学年は8時までに寝るのが鉄則だった。高学年になると就寝時間が9時になった。その後、中学生、高校生、社会人になるにつれ就寝時間が11時になった。
学校に行っても就寝時間が同級生より早いので同級生達とのテレビの話は良くわからなかった。
私は時々覗き見していた。母の目を盗んで襖を少し開けて母が見ているドラマ等をこっそり見ていた。
母は何でも私のことはお見通しだった。私は学校から帰ってくると私の行動はすべて母に見張られていたと言っても過言ではない。ランドセルを置いて遊びに行っても帰る時間は決められていた。夏冬関係なく一年中表の街灯が点く前に帰らなければならないのである。暗くなって帰ることは許されないのである。
就寝時間を決められ、もらったおこづかいの使い道も何を買ったか知れることになる。
小学生の低学年の頃は毎日5円か10円をもらって駄菓子屋に行くのが楽しみだった。それが高学年になるにつけ月決めのおこづかいになった。
私に至っては幼い頃から母の管理下の元で育てられるのである。それは悲しくも寂しい私の運命だったのかも知れない。今で言うなら「母原病」だったのかも知れない?
母は娘を自分の思い通りに育てたかったのかも知れないと思う。私とて無論反論しない訳ではなかった。しかし、反論しても叶はずもなく私はいつも心の角に悲しい気持ち抱えていた。
父は呑んだくれのギャンブル好きのタバコを吸う父だった。それでも休日は家族サービスを良くしてくれた。宵越しの銭は持たないような父でも私たち子供にはサービスは惜しまなかった。私たちは家族で休日に良く出掛けた。はじめの頃は遊園地だったりした。渋谷に引っ越すと浅草に良く行った。デパートが近かったのでデパートにも良く行った。外食も良くした。
職を転々とする父に代わり母はいつも働いていた。それは今にして思えば内職だったりパートだったりした。
母は幼い頃に実の母を病気で亡くしている。それ以前に母は実の姉を亡くしている。母の父、いわゆる私の祖父は幼い母を連れて再婚した。母のところへ来たのはまだまだ若い18歳の義母であった。
後に義母は私の祖母になる。
義母は祖父に子供がいることを知らずに嫁に来た。従っていきなり18歳で子育ても家事もしなければならないのである。義母はその後次々と子供を産む。それは母にとっては妹や弟である。幼い母は次々生まれる義理の妹弟の世話と家事をする羽目になるのである。母の話では小学二年生から家事をするのである。何故ならば義母のお腹がいつも大きかったからに他ならない。
ガスの通っていない田舎である。朝から火を起こし家事をこなすのです。もちろん幼い母の背中には妹や弟が背負われていました。
遊びに行きたくても遊べず、子守りを強いられた幼い母の苦労は今思うといかばかりかと思われます。
そんな苦労した母は私に対してもあらゆる面でうるさかったのです。私はいつも母の管理下の元に生活していた。自由があるようでない暮らしを強いられていた。
毎夜毎夜寝る時間も決められていた。小学生の低学年は8時までに寝るのが鉄則だった。高学年になると就寝時間が9時になった。その後、中学生、高校生、社会人になるにつれ就寝時間が11時になった。
学校に行っても就寝時間が同級生より早いので同級生達とのテレビの話は良くわからなかった。
私は時々覗き見していた。母の目を盗んで襖を少し開けて母が見ているドラマ等をこっそり見ていた。
母は何でも私のことはお見通しだった。私は学校から帰ってくると私の行動はすべて母に見張られていたと言っても過言ではない。ランドセルを置いて遊びに行っても帰る時間は決められていた。夏冬関係なく一年中表の街灯が点く前に帰らなければならないのである。暗くなって帰ることは許されないのである。
就寝時間を決められ、もらったおこづかいの使い道も何を買ったか知れることになる。
小学生の低学年の頃は毎日5円か10円をもらって駄菓子屋に行くのが楽しみだった。それが高学年になるにつけ月決めのおこづかいになった。
私に至っては幼い頃から母の管理下の元で育てられるのである。それは悲しくも寂しい私の運命だったのかも知れない。今で言うなら「母原病」だったのかも知れない?
母は娘を自分の思い通りに育てたかったのかも知れないと思う。私とて無論反論しない訳ではなかった。しかし、反論しても叶はずもなく私はいつも心の角に悲しい気持ち抱えていた。
父は呑んだくれのギャンブル好きのタバコを吸う父だった。それでも休日は家族サービスを良くしてくれた。宵越しの銭は持たないような父でも私たち子供にはサービスは惜しまなかった。私たちは家族で休日に良く出掛けた。はじめの頃は遊園地だったりした。渋谷に引っ越すと浅草に良く行った。デパートが近かったのでデパートにも良く行った。外食も良くした。
職を転々とする父に代わり母はいつも働いていた。それは今にして思えば内職だったりパートだったりした。