ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私と言う女遠い記憶part5

2018年01月13日 | 介護
遠い記憶の糸を手繰っている。
母は幼い頃に実の母を病気で亡くしている。それ以前に母は実の姉を亡くしている。母の父、いわゆる私の祖父は幼い母を連れて再婚した。母のところへ来たのはまだまだ若い18歳の義母であった。
後に義母は私の祖母になる。
義母は祖父に子供がいることを知らずに嫁に来た。従っていきなり18歳で子育ても家事もしなければならないのである。義母はその後次々と子供を産む。それは母にとっては妹や弟である。幼い母は次々生まれる義理の妹弟の世話と家事をする羽目になるのである。母の話では小学二年生から家事をするのである。何故ならば義母のお腹がいつも大きかったからに他ならない。
ガスの通っていない田舎である。朝から火を起こし家事をこなすのです。もちろん幼い母の背中には妹や弟が背負われていました。
遊びに行きたくても遊べず、子守りを強いられた幼い母の苦労は今思うといかばかりかと思われます。
そんな苦労した母は私に対してもあらゆる面でうるさかったのです。私はいつも母の管理下の元に生活していた。自由があるようでない暮らしを強いられていた。
毎夜毎夜寝る時間も決められていた。小学生の低学年は8時までに寝るのが鉄則だった。高学年になると就寝時間が9時になった。その後、中学生、高校生、社会人になるにつれ就寝時間が11時になった。
学校に行っても就寝時間が同級生より早いので同級生達とのテレビの話は良くわからなかった。
私は時々覗き見していた。母の目を盗んで襖を少し開けて母が見ているドラマ等をこっそり見ていた。
母は何でも私のことはお見通しだった。私は学校から帰ってくると私の行動はすべて母に見張られていたと言っても過言ではない。ランドセルを置いて遊びに行っても帰る時間は決められていた。夏冬関係なく一年中表の街灯が点く前に帰らなければならないのである。暗くなって帰ることは許されないのである。
就寝時間を決められ、もらったおこづかいの使い道も何を買ったか知れることになる。
小学生の低学年の頃は毎日5円か10円をもらって駄菓子屋に行くのが楽しみだった。それが高学年になるにつけ月決めのおこづかいになった。
私に至っては幼い頃から母の管理下の元で育てられるのである。それは悲しくも寂しい私の運命だったのかも知れない。今で言うなら「母原病」だったのかも知れない?
母は娘を自分の思い通りに育てたかったのかも知れないと思う。私とて無論反論しない訳ではなかった。しかし、反論しても叶はずもなく私はいつも心の角に悲しい気持ち抱えていた。
父は呑んだくれのギャンブル好きのタバコを吸う父だった。それでも休日は家族サービスを良くしてくれた。宵越しの銭は持たないような父でも私たち子供にはサービスは惜しまなかった。私たちは家族で休日に良く出掛けた。はじめの頃は遊園地だったりした。渋谷に引っ越すと浅草に良く行った。デパートが近かったのでデパートにも良く行った。外食も良くした。
職を転々とする父に代わり母はいつも働いていた。それは今にして思えば内職だったりパートだったりした。

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私と言う女遠い記憶part4

2018年01月13日 | 介護
学校へ行ってはいじめの対象だった。これといって学校では楽しいこともなかった。
授業が始まって今倉千代子さんのことを考えているうちに睡魔に襲われて寝ていた。気がつくと授業は終わってチャイムが鳴っていた。給食だけが楽しみだった。それでも女子は誰もおかわりをしないので私も好きなおかずの時も我慢した。
今にして思えば私はクラスでバイ菌呼ばわりだった。もちろんお風呂にもきちんと入っているので汚いわけはないのだが、なぜかバイ菌呼ばわりをされていた。
体育のフォークダンスに至っては男子などろくに手も繋いでくれなかった。それはどうもバイ菌がうつるらしいと言うことだった。
そんなわけで私の小学校時代の楽しい思い出は皆無に等しいのである。
家族は私が今倉千代子さんを好きなことを知っていた。私は時々テレビで見るだけの今倉千代子さんに強い憧れを抱くようになった。
小学五年のある日のこと、私はどこからか今倉千代子さんが芸能生15周年を浅草の国際劇場でやることを知り、父に頼んでチケットを買ってきてもらった。
買ってきたチケットが1階席のやたらと後ろの席だったので私は父に文句を言った。
父いわく「並んで買ったらこの席のチケットしかなかった。我慢しろ!」みたいなことを言ってきた。あれは忘れもしない夏休みに入ってすぐの日だった。私たち家族は私のためにわざわざ興味もない今倉千代子さんの15周年記念のコンサートに行くのである。
その日生で見た今倉千代子さんは童のかっこうをして登場すると、私が心の中で思ったことは短い着物の裾から覗いた足が子供心に太いと感じたことだった。
帰りに父はロビーで売っていたプロマイドを買ってくれた。私はそのプロマイドを大事に家まで持って帰ったのである。
私は学校で同級生にバカにされるのでテレビでは普通の歌番組も見た。自宅では良く歌を歌っていた。私は将来歌手になろうと思っていた。
今にして思えばあれは歌手になればあの今倉千代子さんと共演出来ると言う夢でしかなかった。
しかし、自分の顔がブスだと気がつくと歌手になる夢はさっさとあきらめた。
その後私は歌を歌える仕事を模索してバスガイドになることを夢に見たが、これもあっけなく同級生の家でリール式のテープに自分の声を吹き込んだら音痴なことがわかり、バスガイドになる夢も諦めざるえなかった。

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私と言う女遠い記憶part3

2018年01月13日 | 介護
遠い記憶の糸を手繰っている。遠い遠い昔の記憶です。曖昧であやふやな記憶です。いつどこでどのテレビで私は今倉千代子さんを好きになったのかわかりません。でも気がついたら私の心の中に今倉千代子さんの存在は確かなものとなって現れました。
友達の作り方も知らない私は勉強も出来ずに頭の中はいつもあの歌手の今倉千代子のことを考えている子供もでした。
勉強も出来ずに友達の作り方もわからない私は同級生にとっては格好のいじめの材料だったのかもしれません。
職を転々とした父は私が小学校4年の夏休みに家族で世田谷から渋谷に引っ越しました。渋谷の駅から徒歩7分のところの雑居ビルのマンションに私たち家族は移り住みました。
両親はそこのビルの管理人の仕事を始めました。管理人と言ってもビルの共有スペースの掃除もするのです。父も母も朝からビルの清掃をしていました。
私と弟は二学期から新しい小学校に転校しました。新しい小学校は自宅のマンションから徒歩7分でした。私は新しい小学校にも馴染めず、新しい小学校でも格好のいじめの対象でした。
それに引き換え弟は頭が良く何でも出来る子供でした。新しい小学校でも友達をさっさと作りました。最も弟はきちんと幼稚園を出ています。
私と言えば毎日いじめられ泣いていました。勉強するより学校では授業が始まるや否や頭の中は今倉千代子さんのことを思い授業が始まって15分もしないで睡魔に襲われていました。
楽しい学校での思いではほぼ皆無でした。遠足に行っても一緒にお昼を食べる友達さえも居ない有り様でした。
そんな中卑劣ないじめにもあいました。あれは今にして思えばいわゆるリンチの類いでした。学校の校舎の屋上で私は数人の同級生にビンタを食らったのです。
原因は国語の漢字の読み書きが一番出来ないことでした。毎回教室に国語の漢字の読み書きテストの点数が貼られていました。そして毎回私はビリだったのです。それを同級生は「何で出来ないんだよ!」と、攻めて来たのです。
数人の同級生が私の頬を撲ったのは悔しくも悲しい思い出です。

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私と言う女遠い記憶part2

2018年01月13日 | 介護
今倉千代子さんについて
いつ頃からか覚えていない。物心ついた時にには歌手の今倉千代子さんが好きだった。
小学校に行っても頭の中は今倉千代子さんのことでいっぱいだった。授業中も今倉千代子さんのことを考えた。なので勉強はまったく出来なかった。友達の作り方もわからず勉強の出来ない私は同級生には格好の餌食だったのかも知れない。
小学校に上がるとすぐに私は同級生からのいじめにあった。それは今にして思えば卑劣ないじめだったかもしれない?今はその頃のいじめの内容をはっきり思い出せないでいる。
いじめに会えば私はいつもピーピーと泣いていた。いわゆる泣き虫な小学生だった。しかし自宅では母や父にその事は言えなかった。
父は良く呑んでギャンブルをした。そのくせ休日には家族サービスもした。そのくせ母とは相変わらず喧嘩をしていた。
母は良く働いた。父の稼ぎはお酒とギャンブルとタバコに消えて生活費を少ししか入れないので母は働かなくてはならなかった。
内職もしていた。近所の新聞店の賄いもしていた。布団を作る仕事もしていた。家事もこなしながら子育てもしながら良く働いた。それは生活のためだった。
たいして友達もいなかった私は学校から帰ってくると母からもらう五円や十円の小遣いを握りしめ近所の駄菓子屋に行くのが楽しみだった。
自宅では漫画も見るが歌番組も良く見た。もちろん今倉千代子さんの出る番組も見るが、学校に行けば同級生にバカにされるので普通の歌番組も見た。

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私と言う女遠い記憶part1

2018年01月13日 | 介護
私と言う女は昭和33年に栃木県は宇都宮で生を受けた。物心ついた頃に両親は新興宗教の支部の隣で六畳一間にトイレが付いた小さなお店をやっていた。
お店はうどんやそば等を売っていた。夏場はところてんやかき氷も売っていた。そしてなぜかお店の片隅で仏具も売っていた。
お客の大半はなぜか隣に来る新興宗教の信者ばかりだった。
私の下には三才歳の離れた弟がいた。母は難産で私を生んだらしい?父は初めて生まれた我が子をとても可愛がった。
父は仕事の傍ら隣の新興宗教の仕事もしていた。貧しい暮らしだった。遠い記憶です。木造のバラックのような家の天井裏には夜な夜なネズミがうろうろしていた。
泥棒に二度も入られた。いや性格に言うと一度は未遂だった。泥棒が玄関の鍵の錠前を開けかけた時に母と私と弟が出くわした。母は大声で「泥棒!泥棒!」と叫んだら泥棒は一目散で逃げて行った。母は私をほおって背中に背負った弟と泥棒を追いかけたが泥棒は捕まらなかった。
二度目の泥棒はトイレの下の窓から侵入した。
母と私と弟が出掛けて帰ってくると六畳の部屋は泥棒に荒らされていた。
幸いにも箪笥の一番上の引き出しの新聞紙の下に隠していた母のへそくりは盗まれなかった。
最もそれ以外この家に取るものはなかった。
その後父は商売がうまくいかず東京に働きに行った。
私が3才を過ぎると家族は宇都宮を後にして東京に行った。私にとって宇都宮は生まれ故郷だが遠い昔の話である。
東京に行った。住んだ先は吉祥寺のおじさんの家である。
その頃おじさんは炭屋をしていた。いわゆる燃料屋です。おじさんの連れ合いのおばさんは新興宗教のお偉いさんなので、その頃地方の支部長をやっていて、今で言う単身赴任だった。
炭屋の家には息子二人がいた。使用人もいた。
いわゆる私たち家族は居候だった。母はその日から家政婦のように働いた。おじさんはやたらとうるさかった。そしておじさんの口癖は「東京でタダなのは空気だけ!」だった。
父は呑んだくれだった。母とは良く喧嘩していた。母は喧嘩しても謝ることは皆無だった。
私と弟はいつもそれを見てピーピー泣いていた。
父は東京でサラリーマンをしていた。母はとうとう喧嘩の末に家出をした。私と弟を残してである。しかし母は一週間もすると帰って来た。その後私たち家族は一年足らずでおじさんの家を後にするのである。
その後住んだのは東京の世田谷だった。父は職を転々とした。
世田谷では六畳一間のアパートに住んだ。私は幼稚園や保育園に行く歳になっていたがどこも店員オーバーなのか断られ、今で言う待機児童だったらしい?
小学校は自宅のアパートからすぐのところにあった。幼稚園も保育園も行っていない私は友達の作り方もわからなかった。
勉強は出来なかった。

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