ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私と言う女遠い記憶part16

2018年01月18日 | 介護
2018.1.17
この話はほぼフィクションです。登場人物もほぼ仮名です。
遠い記憶に脚色してあります。だいぶあいまいなところが多々あります。事実に基づいた話とは少し違うかも知れません。万が一何かが起こり訴えられても困るのです。実名はほぼ私だけです。あとは適当な名前をあてはめました。出来れば法律の壁に引っかからないことを願っています。
遠い記憶の糸を手繰っている。遠い遠い昔の記憶です。その記憶が正しいかどうかも定かではありません。
度々話は戻すが私は常に誰かにいじめられ、友達の作り方も知らずに過ごしてきた。好きなことも思うように出来ずに悲し気な人生を送っていた。そこへ結婚という逃げ道を見つけたのはいいが、お金のない両親に私の結婚費用など出せるはずもなかった。
私が二十歳のころ両親は高円寺の駅の側でわずか三坪のラーメン屋を始めた。7人も入ればいっぱいの店だったがお客はあまり来なかった。その店も1年もたたずにつぶれてしまい、借金だけが残ったのである。その後、父は一時的にうつ病のようになった。来る日も来る日も部屋に閉じこもり出てこなかった。出てきてもご飯にお茶をかけて食べたら部屋に…。
私と母は精神科に連れて行こうと思ったが、本人が「病気じゃあない!」と、言い張るので病院に連れて行くのをあきらめた。母はつとめて父を表に連れ出した。すると、どうしたことだろう?父の体調は見る見るうちに回復したのである。もっともそれには母が「借金は娘のお金で返したから!」と、うそをついたのに他ならない。
体調が良くなった父は甥っ子の不動産屋を手伝った。母もパートの仕事を見つけて働いた。借金はやがて返し終わるのだが、それど同時に父と母は別居した。弟は母に付き、私は父に付いたが、父の側で家事をしながら外に働きに行くのは大変だった。やがて私も父の下を離れ母のところに行くのであった。
またまた話は戻すが、私の結婚式になぜか父は号泣をした。私はひそかに成田離婚をたくらんでいたので、号泣する父に複雑な気持であった。
因みに結婚式の費用は私の貯金から捻出したのは言うまでもありません。

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からたちの小径

2018年01月18日 | 介護
からたちの小径

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私と言う女遠い記憶part16

2018年01月18日 | 介護
遠い記憶の糸を手繰っている。従って話があっちこっち飛ぶこともお許しください。
あの日私が国際劇場の楽屋で彼女に渡したノートはとうとう返ってこなかった。私は本を書くという夢を諦めた。
どこで働いても大なり小なりいじめは付いて回った。多少良くしてくれる人もいてお茶や飲み会に誘ってくれることもあった。そんな矢先、私は池袋の三越に派遣された。
最初にここであったのは某新興宗教の勧誘だった。職場の周りのおばさん達が某新興宗教の熱心な信者だった。お昼休みや休憩時間などにおばさん達はやたらと某新興宗教の話をした。私はそれが嫌だった。とうとうある日私は会社の上司に話して職場を変えてくれるように頼んだ。しかし、ほどなくして職場に新しい人が入ると今度はその新しい彼女から嫌がらせに合うのであった。
その頃には私は某新興宗教の話などどうでも良くなり、その代わりに新しい彼女の態度が嫌になっていた。度々彼女は日曜日に休むのである。
その理由が「母の体調が悪いので…」とか「兄の嫁が仕事なので子供の面倒を見る!」とか言うことだった。兄の嫁が競輪場で働いていると言う。日曜日が仕事だと言う。子供が小さいので日曜日は保育園がやっていないと言うのである。嫁に代わった子供を見ると!また、母の体調が悪いというときは父が仕事で見れないとも言った。父は明治記念館で働いていると言う。
あまりにもひどいので私は明治記念館に電話するとその日は仏滅なので何もないと言われた。また義理の姉の競輪場も開催日があり、毎回日曜日が開催日とは限らないことを知るのである。
彼女は日曜日の度に彼氏とデートしていたのである。それは後にわかったことだった。私は忙しい日曜日の度に嘘をついて休む彼女が許せなかった。
その後やっとのことで職場を変えてもらうことになった。そしてその職場で私は32歳の夏まで働くのである。
32歳になった1月私は職場の近所のおばさんの薦めでお見合いをする。いい加減結婚をしたいと思っていた。それは両親の元を離れたかったのに他ならない。何故なら私は常に母の支配下にあった。私はそれを打開したかったのだ。自由になりたかったのだ。もう多少のことは目をつぶり結婚の道を模索していた。
お見合いした相手はやたらと小さな男であった。彼のことをどう思ったのかは定かでないが、1月にお見合いをして、何度かデートを重ねると仲人さんから「どうですか?」と、打診があった。私はもう少し付き合わないとわからない旨を伝えた。
少しすると再び仲人さんから「どうですか?」と、打診が来たのでok!を出した。とにかく自宅から出て自由になりたかった。
あれよあれよという間に5月に結納の運びとなった。そのうち10月に挙式の運びともなったのである。もちろん三十路を過ぎた娘に両親は反対するわけもなく私は10月の末に結婚式を挙げるのである。
結婚する前に主人になる人の趣味がオタクだとわかると私は密かに成田離婚を考えた。それ以前に新婚旅行中に仲人さんに話して主人となる人のオタクの趣味の物を処分するように話した。
あれは今にして思えば残酷だったかも知れない?しかし、新婚旅行中に仲人が主人となる人の両親に話、捨ててもらったはいいが、やはり私は成田離婚を考えていた。
新婚旅行から帰ると主人の両親が成田空港に迎えに来たので成田離婚は出来なかったのです。
私は主人の両親と自宅になる新居に帰った。帰った自宅に主人の趣味の物は大半を捨てられていて主人は悲しい思いをしたと思う。

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私と言う女遠い記憶part15

2018年01月18日 | 介護
どれくらいの時間楽屋に居ただろうか?おそらく15分くらいは居たと思う。彼女の計らいでコンサートが見れることになった。無論自由席です。私は彼女に誘導されながら劇場の客席に続く入り口を教えてもらい、そこから自由席の客席に着いた。
私は舞台の彼女を見てから自宅に帰った。
それ以降彼女からは電話の一つもなかった。むしろコンサート会場の楽屋口で出待ちしていても他のファンと同じように扱われた。私はその時プレゼントされたブレスレットだかキーホルダーを大事に持っていたが、気がついてみたときにはどこかになくしていた。
再び話は戻すがあのもらったバスローブは母が勝手に入院している従兄弟の嫁に勝手に持っていってしまい帰らぬものとなった。何故ならその後従兄弟の嫁は亡くなったのである。私は母にバスローブの一見を責めたが、悲しかった。
弟は22歳で結婚をした。その時私も結婚をしなければと思った。ただ漠然と結婚をしなければと思った。何故なら彼女も一度結婚しているからに他ならない。あわてて父に結婚したいことを告げると父はお見合い相手を…。
お見合いの相手とは喫茶店で会った。左官屋か何かの職業でスーツが無いらしく9月のまだ暑い盛りにウールのジャケットを着ていた。相手はすぐにでも結婚したそうだったが、私はまだ暑い盛りにウールのジャケットの男が嫌だったので一度帰ってから断って欲しい旨を父に告げた。後から聞いた話では私が断ったことはショックだったらしいと言う話だった。
私はその後いくつかお見合いをするが、帯に短し襷に長しで、あちら良ければこちらダメ、こちら良ければあちらダメ見たいになった。それでは思いきって会社を辞めて花嫁修行でもと思い本当に会社を辞めてクッキングスクールに通い始めた。しかし、自宅にいると家事をする羽目になるのでしばらくしてまた職安で仕事を探し働き始めた。
新しく会社は週休2日だった。これならクッキングスクールに通えると思った。それ以前に他の習い事もしたかったが両親の反対にあい近所の自動車学校をどうかと言ったら自動車学校は行ってもいいと言われ行っては見たものの元々運転免許は欲しくなかったのですぐ辞めた。
新しい会社でも小さないじめはあった。職場に馴染めなかった。会社から何度か配置転換をされあっちこっちのデパートで働いた。どこへ行っても大なり小なりいじめはあった。
それでも良くしたもので職場の人に飲みに誘われたり食事に誘われることもあった。相変わらず帰りが遅くなる日は理由を言って自宅に電話しなければならなかった。
おこづかいも決められすべてを母の管理下に置かれた私はそれでもこっそり休日に今倉千代子さんの追っかけをした。その事は母にすぐばれこっぴどく怒られたことは言うまでもない。
クッキングスクールは一年で卒業証書をもらった。他に習い事をしたかったが全て両親に却下された。
その頃読んでいた月刊誌に毎月作詞募集があったので何度か応募したが!雑誌に名前とタイトルが載るだけだった。私は密かにプロの演歌の作詞家になることを夢見ていた。
何度か応募しているうちにその本の出版社から六本木の作詞教室のお試しがあることを知らせてもらい、、私は両親に話してそこに行きたい旨を伝えた。
が、しかし、それは父の反対にあい、それでもなんとかお試しだけ行くことが出来た。教室は夜だった。テレビ朝日の側の教室だった。講師は里村龍一先生でした。2時間程話を聞き帰って来た。そして私はそれ以来プロの演歌の作詞家の道はあきらめるのである。
度々話が前後するがそれは私が遠い記憶の糸を手繰っているので仕方がないことです。

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