現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

森忠明「花をくわえてどこへゆく」

2017-01-30 08:28:15 | 作品論
「美しい足」をした岸昌子先生が、自分の担任の矢崎先生と結婚することを知って、学級委員で優等生だった森壮平は強いショックを受けます。
 さらに周囲の状況によって愛犬のテツを捨てなくてはならなくなった森少年は、逆にテツに見捨てられてしまいます。
「美しい足」と「好きな犬」という自分がもっとも大事にしていたものが、もう手に入らないのだと感じた森少年は、生きていく気力を失ってしまいます。
 「なんのために生きていくのか」「なんのために学校で勉強しなくてはいけないのか」ということに強い疑問をもった森少年は、両親にしばらくの間の休学を申し入れます。
 森少年の苦しみは、両親や先生、医者たちからはまったく理解を得られません(この本が出版された1981年当時では、まだこういった少年たちは今よりも少数派で、周囲の理解も現在より不十分だったと推測されます)。
 ただ、幸運なことに母方の祖父だけは森少年に理解があり、自宅のはなれや山梨の湯治場で、森少年を好きなだけ休ませてくれます。
 森少年を取り巻く状況は最後まで好転しませんが、ラストシーンで急死した祖父を抱きかかえる森少年は、それでもこれからも生きていかねばならないことを自覚します。
 1975年の「きみはサヨナラ族か」(その記事を参照してください)から、主人公のアイデンティティの喪失はさらに深くなっています。
「きみはサヨナラ族か」の主人公は、それでも絵を描くことで自分のアイデンティティを回復させようとしていましたが、この作品ではそれも完全に失われています。
 「生き続けていくこと」に対して諦念にも似た主人公の気持ちに、現代の子どもたち(あるいは若者たちも含めて)の置かれている生きていくことが困難な(あるいはその裏返しで非常に安易な生き方しかできない)状況を先取りした作品だと言えると思います。
 一連の森作品は、一方に熱烈な愛読者は持ちつつも、いわゆる「現代児童文学」論者からは、その「変革の意志」の欠如を批判されました。
 しかし、今になって振り返ってみると、すでに既存の「現代児童文学」の創作理論では、その当時の子どもたちの状況をとらえきれなくなっていたのかもしれません。
 また同様に、いわゆる社会主義リアリズムを偏重していた「現代児童文学」の批評理論では、森のような作品は正当に評価できなかったと思われます。

花をくわえてどこへゆく (文研じゅべにーる)
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