小川未明たちの「近代童話」が「子ども不在」であったと批判した「現代児童文学論者」が主張した「真の子ども」「現実の子ども」「生きた子ども」もまた一つの観念にすぎず、「子ども」(文中の用語では「児童」)という概念自体が近代になって発見された概念にすぎないと批判し、「現代児童文学論者」に大きな衝撃を与えました。
アリエスの「<子ども>の誕生」に基づいて書かれていると言われていますが、内容は明治以来の日本の状況に合わせてあります。
日本の「児童文学」の確立が西欧より遅れたのは、「文学」自体の確立が西欧から遅れたのだからだと述べていますが、それは日本の「近代」が明治期以降に移入されたものであって西欧より百年ほど遅れていたのですから、自明のことでしょう。
「児童」を「風景」と同様に、疑いなく存在するがそれは見いだされたものであるという指摘は、現代児童文学者たちを「児童」という縛りから解放するのに有益でしたが、大半の「現代児童文学」の書き手はそれには無自覚で(柄谷やアリエスの指摘を、間接的にも読まなかったと思われます)、観念にすぎない「児童像」を追及し続けてていたように思えます。
ただ、現在の子どもと大人(特に女性)に共有される一種のエンターテインメントとなった「児童文学」では、皮肉にもその「子ども」という縛りからは解き放たれているのかもしれません。
しかし、その代わりに、「売れる本」という新しい観念に縛られているのでしょう。
また、現在の年齢で横並びの学校制度にならうように、「低学年向け」とか「高学年から」と限定されて出版している児童書の出版社にはその固定化した「子ども」像が今でも見られますし、それに影響されて観念的な学年別の「児童」像に縛られて創作している「児童文学作家」が依然として数多くいることも事実です。
日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫) | |
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