現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ポメラ DM5

2017-01-10 09:00:35 | 参考情報
 2012年12月20日に、事務機器メーカーのキングジムのポメラDM5を購入しました。
 ポメラには、デジタルメモという名前がついていますが、いわゆるテキストエディタです。
 8000字までのテキストを、6ファイルまで書くことができます。
 マイクロSDを装着すれば、8000字の制限は残りますが、ファイル数はかなりたくさん増やせます。
 購入の目的は、児童文学関係の学会、研究会、合評会などでのメモの作成です。
 それらの記事を読んでいただいた方々にはおわかりだと思いますが、記録をブログの記事にして残すためにディジタル化する必要があるのですが、手書きのメモや記憶を頼りに書くと、二度手間だったり、不正確だったり、抜けがあったりして困っていました。
 そのため、時には重い思いをしながら、会場にノートパソコンを持ち込んだりしていたのですが、さすがに重労働ですし、バッテリーの時間にも不満がありました。
 そこで、軽くて小さいウルトラブックの購入を検討したのですが、値段はノートパソコンよりも高いし、いらない機能もたくさんあるので、かなり迷っていました。
 そんな時、他の記事にも書きましたが、芥川賞作家の津村記久子さんのエッセイでポメラを知り、すぐに飛びつきました。
 使ってみると、私のニーズにぴったりなので、外出には手放せなくなりました。
 津村さんはポメラでエッセイを書いているようですが、なかには小説を書いている人もいるそうです。
 そのためには、ひとつのファイルあたりの字数の多い、私のよりも上位機種のポメラが必要です。
 私は外出する機会は少ないので、作品や記事などのまとまった文章は、自宅の書斎でパソコンを使って書きます。
 そのため、ポメラではメモを取るだけなので、この最下位機種がぴったりです(上位機種は値段も高く、大きく重くなります)。
 使ってみると、文字変換や編集機能はワードよりだいぶ劣るのですが、それは家に帰ってからワードに変換して編集すればいいので不満はありません。
 何より安くて(ウルトラブックのニ十分の一以下の価格)軽くて(285グラム、ただし電池は含まず)バッテリー(単四二本、アルカリ電池も使えますが、私は省資源のためにエネループを使っています)のもち時間が長い(25時間(エネループは20時間))ので、携帯には最適です。
 8000字の制限は、作品を書くのには全く足りませんが、二時間程度の講演や発表のメモを取るのには十分です。
 ファイル数6の制限はちょっときついですが、足りない時はマイクロSDを装着すればいいので問題ありません。
 ちなみに、2012年10月の日本児童文学学会の研究大会は、一日目は2セッション、二日目は3セッションでした。
 年四回開かれる日本児童文学学会の東京例会は、通常2セッションです。
 2012年12月の宮沢賢治学会は3セッション、2013年3月の冬季セミナーは4セッションでした。
 日本児童文学者協会の評論研究会は、通常一つか二つの作品を取り上げます。
 以上のように、私の属している学会や研究会のためには、ファイル数が6でも十分なようです。
 ただ、児童文学の同人誌の合評会では、多いときは十作品以上を取り扱う場合もあるのでファイル数が足りませんが、その時はマイクロSDを装着すればいいのです。
 しかし、2015年11月に、タブレット端末とブルーツースのキーボードを購入したため、外出時の文章作成もこれらを使ってやるようになりました。
 こちらだと、ワードも使えますし、ブログの編集ページで直接記事もかけるので、ポメラよりはるかに便利です。
 だいいち、タブレット端末はネットやメールやラインのために常に持ち歩いているので、文章作成のために荷物が増えるのはブルーツースのキーボードだけです。
 そのため、ポメラを使う必要性は、まったくなくなってしまいました。
 けっきょく、ポメラの使用期間は約三年間でした。
 ディジタル機器の進歩は日進月歩なので、多くの場合短命になってしまいます。

KINGJIM デジタルメモ「ポメラ」 DM5クロ クールブラック
クリエーター情報なし
キングジム
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

USBヘッドフォンアンプ

2016-12-13 08:33:40 | 参考情報
 以前の記事に書きましたが、2012年の2月に、適当な現代日本児童文学研究環境が見つからなかったので、大学院進学を断念して、自宅と公立図書館で研究することにしました。
 その時に、自宅の四畳半の部屋を書斎に改造するために、大学院の費用を以下の投資にまわしました。
 パソコンデスクとライティングデスクの間を、往復反転して使うためのハーマンミラーのアーロンチェア。
 Windows7のノートパソコン(東芝ダイナブック)。
 WiHiルーター。
 天井で固定できる9段の本棚を四つ設置し、所蔵の児童文学関係の本を書庫などから移動して、不足する本をアマゾンから購入。
 ディジタル音源の整備(ソニーのXアプリで一元管理しています)。
 自宅での研究はうまくいっているのですが、公立図書館での研究環境は悪く(閲覧席でもまわりをうろついたり大声を発する人たちがいます。ノートパソコンをインターネットにつなげられるところもありますが、使えないところもあります。
 また、机の作業スペースが狭くて、本とパソコンの作業を共存できないので、期待したほど成果はあがりませんでした。
 そこで、2013年からは図書館は本の貸し出しのみを利用することにして、研究は書斎だけで行うことにしました。
 そのため、以下の機器を追加投資しました。
 ポメラ(テキストエディタ。外出時および書斎でパソコンが使えない時の文章の作成。その後、タブレット端末を購入したので、現在は使っていません)。
 キンドル(電子書籍リーダー。読書環境とプライベート資料管理(ワード、PDF)の改善。外出時はタブレット端末を使うようになったので、今は家にいる時のみ使っています)。
 マジックスキャン(ハンディスキャナ。本や雑誌のディジタルコピーとOCR機能によるJPEGデータのテキスト化)。
 以上の機器についてはそれぞれの記事で紹介しましたので、この記事では2013年1月26日に購入したUSBヘッドフォンアンプについて紹介します。
 中学生のころから常に音楽がないと生活できないので、書斎でも音楽環境は作業効率アップのためにすごく重要です。
 高校生のころから購入(レコード、CD)したり、録音(FM放送をカセットテープにエアチェック、ディジタルラジオ放送をMDに録音)したりした音源(クラシック、ジャズ、ロック、ポップスなど)を全部ディジタル化(ソニーのウォークマンのダイレクトエンコード機能を使ってアナログ音源をディジタルに変換)して、パソコンにインストールしたソニーのXアプリやMedia Go(ウォークマン用の音楽管理ソフトウェア)に40Gバイト(40000分)以上保有しています。
 今までは、パソコンのヘッドフォンジャックに、5メートルのオーディオケーブルで、本棚に組み込んだミニコンポにつないでいました。
 音源の種類や量、Xアプリの操作性には不満はないのですが、パソコンの音質(内蔵のDAC(Digital to Analog Convereter)の性能で決まっていしまいます)と長いオーディオケーブル(アナログ)による減衰やノイズレベルの増加によって、せっかくのディジタル音源の品質が生かせていませんでした。
 そこで、USBヘッドフォンアンプ(ラトックシステムのREX-A1648HA1で、まあまあのオーディオDACを内蔵しています。音源がハイレゾではなくCDやそれ以下の音質なので、これ以上DACの性能をあげても無意味です)をミニコンポの横に置き、5メートルのUSBケーブルでパソコンとつないで(ここまではディジタル信号なので減衰やノイズレベルの増加はありません)、そこからは50センチの短いオーディオケーブルでミニコンポに接続しました。
 さっそくいろいろな音楽を鳴らしてみると、格段に明瞭なサウンド(それぞれの楽器の音が一つ一つはっきりと聞き分けられるようになりました)で非常に満足しています。
 おかげで、書斎生活がより快適になって、児童文学研究の作業効率も高まりました。
 
ラトックシステム USBヘッドホンアンプ(16bit・32kHz/44.1kHz/48kHz対応) REX-A1648HA1
クリエーター情報なし
ラトックシステム

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キンドル・ダイレクト・パブリッシング

2016-12-07 08:13:27 | 参考情報
 「現代児童文学者の経済学」という記事(カテゴリーは評論)で、児童文学の作家や評論家が、それだけで生活していくことがいかに困難かを分析しました。
 その中で、将来的には中間搾取層(出版社、取次ぎ、書店など)がなく印税が高い電子書籍に期待したいことを述べました。
 その時、頭の中にあったのは、すでにベストセラー作家を生みだしているアメリカでのKDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)のことでした。
 そのKDPの日本語版が、2012年末にスタートしました。
 ためしに、将来の日本の児童文学者たち(純文学の作家たちも)を、KDPが経済的に救済できるかを検討してみました。
 結論からいうと、まだ一般的な児童文学者たち(当然のことですが、彼らは基本的に文系で英語も苦手な人が多いです)には、KDPは参入障壁が高いことがわかりました。
 KDPは自己出版(自分で編集作業や印税の経理処理をする)なので、いわゆる自費出版(百万円以上かかることが多いです)や協力出版(著者が自己負担金を出します)と違って、費用はいっさいかかりません。
 印税は35%(特定の要件を満たせば70%)と、期待通りに高いです。
 紙の本の印税は普通は10%ですが、児童文学の場合は絵描きさんの分があるので高学年で8%、グレードが下がるにつれて下がり、4%とか3%といったアマゾンのアフィリエイト広告(ブログなどに載せる広告)の手数料より割が悪くなる場合もあります(短編のアンソロジーの場合はそれを頭割りしますので、ゴミみたいなパーセンテージになってしまいます)。
 しかし、KDPには以下のような参入障壁があって、一般的な児童文学者にはすぐには手が出ないと思われます。
1.印税の支払いがアメリカにあるアマゾンの関連会社からなので、アメリカの源泉徴収(30%)を避ける手続きが必要。
2.送金は円建て(1000円以上たまったら自動的に送金される)で、向こうの銀行の手数料はアマゾン負担ですが、日本の受け取り銀行でリフティング・チャージ(一件につき数千円)がかかることが多く、少額の送金だと赤字になってしまう(銀行によっては無料のところもあるようです)。
3.本の原稿ファイルを、キンドル本の仕様に変換しなければならない。
 以上の障壁は、手間暇かければ回避する方法はあります。
 それに、1と2は最初だけですし、3も二回目からは慣れるのでそんなに時間はかからなくなるでしょう(画像がなく原稿をワードで書いている人はそれほど難しくありません)。
 ただ、私が調べた限りでは、日本アマゾンのKDPに対するサポート体制が非常に悪い(英語の情報が多い。日本語の情報は自動翻訳のせいか誤訳だらけ。日本アマゾンにKDPを詳しい人がいない。電話でのサポートが受けられない)ので、一般的な児童文学者にはなかなか大変でしょう。
 キンドル上にはKDPのノウハウ本があふれていますが、どうも「釣り」っぽい感じがしますので、価格は安いですが手は出さない方がいいと思います。
 日本アマゾンの公式情報やネット上に無料の日本語情報(今までの私の経験では無料の方が信用がおける(お金目的ではないので)ことが多いですし、取捨選択が自分でできます)も、だんだんに出てきています
 しかし、私が本質的な障壁と考えているのは、KDPの最低価格です。
 35%の印税の場合の最低価格は99セント(日本では99円です)です。
 安いように感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、短編を99円で売るのは困難です(私の感覚では紙の本換算で1ページ1円以下にしないと売れないでしょう)。
 また、70%の印税を得るための最低価格は2ドル99セント(日本では250円です)です。
 薄い文庫本のキンドル版は、300円から400円で購入できるので、有名でない作家の本を250円で購入する人はほとんどいないでしょう。
 第一、キンドルをはじめとした電子書籍リーダーも、いまだに日本では十分に普及していません(ただし、アイフォンやアンドロイド用の無料の対応アプリがあるので、スマホやタブレットで読むことは可能です)。
 以上のように、現状では児童文学作家のKDPへの参入は難しいでしょうが、他の記事でも書いたように五年後ぐらいには、これらの障壁も緩和されることを期待しています。
 これは、ひとえにアマゾンの日本マーケットに対するマーケット戦略にかかっていると思われます。
 私は外資系の電子機器メーカーの新規ビジネスの開拓に長年かかわってきたので、彼らが冷徹でビジネスライクな考え方で決定するのはよく理解しているつもりです。
 でも、私がKDPのマーケティング担当者ならば、日本語のキンドル本の増加のために、日本でのKDPのサポートにもっとお金をかけるでしょう。
 それが、日本でのキンドル本体の販売の増加につながり、そうするとアマゾンにとってのビジネスの本線である一般のキンドル本の売り上げも伸びるという、正のスパイラル効果が期待できるからです。
 また、楽天やソニーの電子書籍ビジネスとの差別化にもなるでしょう。
 はっきりいって、今の日本アマゾンでKDPに関わっている人たちはビジネス的に素人なので(もしかするとアウトソーシングされているかもしれません)、現状ではまったく期待できません。
 要は、米国アマゾンが日本での電子書籍マーケットに対してどういう戦略をとるかです。
 最悪は、電子書籍ビジネスの日本からの撤退でしょう。
 その時は、楽天のコボなどで、KDPと同様のサービスを展開してくれるとありがたいのですが。

Kindle Paperwhite
クリエーター情報なし
Amazon.co.jp



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田恵理「〈宮沢賢治〉をみる中原中也の眼」

2016-11-09 08:22:26 | 参考情報
 四季派学会・宮沢賢治学会イーハトーブセンター合同研究会 ―宮沢賢治から「四季」派へ―で行われた研究発表です。
 研究発表要旨は以下の通りです。
「中原中也の宮沢賢治受容に関しては、『春と修羅』や童話からの引用や影響をさまざまに指摘されてきただけでなく、中也研究の側から賢治の思想に接近するような試みも行われてきた。近年の動向として注目すべきは、「中原中也研究」第八号(二〇〇三)における「宮沢賢治と中原中也」特集とそれ以降の先行論であろう。そこでの議論は話題を様々に取り揃えつつも、二人の〈他力〉的境地にみる共通性、賢治の〈心象スケッチ〉と中也の〈名辞以前〉の親和性と差異をめぐる問題が柱となっているように見受けられる。しかし〈心象スケッチ〉と〈名辞以前〉が近づけば近づくほど、中也が賢治を評する文の中に用いた〈民謡の精神〉なる語――「古来「寒月」だの「寒鴉」だの「峯上の松」だのと云つて来た、純粋に我々のもの」――の居心地の悪さはますます際立っていくように思われる。
ところで、賢治を評するのに〈民謡〉の語を用いたのは中也だけではない。たとえば『宮澤賢治研究 第一号』(宮澤賢治友の会、一九三五)における永瀬清子がそうである。中也の言説を、賢治没後俄かに賢治評価が高まる同時代の潮流の中に置き直すとき、他の言説との比較を踏まえて、〈民謡の精神〉が賢治を媒介にして詩壇あるいは一般に向けて発せられていること、また「未だ我が国に於て、芸術は、手段として以外に認められたことはない」という主張に目を向ける必要がある。倉橋健一氏(『深層の抒情――宮澤賢治と中原中也』)が指摘したように、ここには「中也にとって根底にあったおのれに対する地方と、方法としてあらわれた都会の問題が横たわ」っていることも見過ごせない。中也と賢治の問題とは、〈宮沢賢治〉を語る中原中也の問題でもある。
大正末年から昭和十年代にかけて、民衆詩派に対抗する新興勢力として、あるいは〈農民文学〉、〈地方主義文学〉として、さまざまな政治的力学によって要請された〈宮沢賢治〉という詩人を、中也はどのような眼を以て評したと言えるのか。中也の〈民謡の精神〉と賢治の〈イーハトヴ〉の距離の測定と具体的な詩の検討を踏まえ、自らの作品とこれからの詩が取るべき方向の構想の中で中也がどのように〈宮沢賢治〉を通過していったのか、そして同時代の〈宮沢賢治〉をめぐる問題から中也の位置はどのように照らし返されるのかを考察したい。」
 四季派学会側からの発表ですが、賢治に対する中也の発言を丹念に調べてあり、非常に興味深い内容でした。
 冒頭に、「本発表のねらい」、「発表次第」が述べられ、わかりやすくする工夫がなされています。
 各項目では、中也の発言の引用、先行研究の引用が整理されていて、その上で吉田の考察がまとめてあり、研究発表の方法として理路整然としていて参考になりました。
 また、中也の「野卑時代」、「星とピエロ」、「秋岸清涼居士」といった賢治の影響がみられる詩が全文引用されていて、吉田が見事な調子で朗読したので、詩には門外漢な私でも、中也の詩の魅力の一端を堪能できました。
 懇親会の時に、吉田に「詩の学会の研究発表では朗読するのが普通なのですか?」と尋ねたら、逆に「児童文学では朗読しないのですか?」と聞かれ、返答に窮しました。
 久しぶりに、詩集を読んでみようかという気にさせられました。

中原中也詩集 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本児童文学者協会創立70周年記念公開研究会A分科会「子どもたちの“いま”を見つめて」

2016-10-18 08:55:16 | 参考情報
 四人の報告者の発言の後で、質疑応答が行われました。

石井英行
 学生時代に、脳性小児麻痺の子どもたちとのキャンプ活動をしていた。
 現在やっているクラブでは、軽い知的障害のこどもたちの遊び相手をしている。
 重い障害の子どもたちと比較すると、彼らのような目に見えない障害を持つこどもたちは、普通学級では学べないが支援学級でも難しく、子どもたちの行き場がない。
 はじめはどうしたらいいかわからなかったが、いつのまにか二十年以上たった。
 アウトドア系の活動が中心。
 子どもたちはかわいく、いじめのない世界。
 クラブには小学生か中学生で入るが、特に卒業はないので三十歳以上の人もいる。
 クラブには若いスタッフもいるので、彼らはは年下の友達を持てる。
 問題は、彼らが家庭と学校とクラブの三角形から抜けられないこと。
 自分は、彼らの友人であり、その経験の中で詩を書いている。

福田隆浩
 特別支援学級で働いている。
 現在は、知的障害の小学部の学級を担当している。
 その経験に基づいて、今は主に高学年を対象にした作品を書いている。

吉野万理子
 専業のエンターテインメント作家。
 YA が得意。
 今っぽい子どもたちを書いていると言われるが、すぐに陳腐化するスマホなどの風俗はなるべく避けている。
 取材は、作品のプロットやキャラクターが固まってから、分からないことだけを調べている。
 もっと子どもを本に誘う努力が必要。
 読みやすい文章を心掛けているが、なるべく漢字を使うようにしている。
 子どもたちの好きなコンテンツ(マンガ、アニメ、ゲームなど)をチェックしている。
 いじめる側の子どもを書きたいが、そのまま書くと児童書にならない。
村中
 取材は苦手なので、対象と一緒にすごしてしまう。
 今の子どもたちや若者風俗については、商業主義の内幕も含めて書きたい。
 大きな物語ではなく、小さな私の物語を書きたい。
 どこにでもいる子どもたちを描きたい。
 女性受刑者が自分の子どもに向けて絵本の読み聞かせをするのを録音する(オリジナルのイギリスでは読んでいる姿も録画している)プログラムを10年やっている。
 女性受刑者は、プログラムの過程でだんだん自分を見つけていく。
 受け取りを拒否する子どもたちも三割ぐらいいるが、退所時には録音したCDを女性たちに渡している。
 彼らと平地で一緒に呼吸するのが大事。

 内容はどれも興味深かったのですが、一応研究会なので報告者たちのレジュメは欲しかったです。

チャーシューの月 (Green Books)
クリエーター情報なし
小峰書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落合恵子「子どもと大人、同時代を生きる~クレヨンハウス40年の歩み~」

2016-10-18 07:41:31 | 参考情報
 日本児童文学者協会の創立70周年記念公開研究会での講演です
 彼女の基本的な考え方の話から始まりました。
 それは、ネイティブ・アメリカンに伝わる「七世代先の子どものことを考える」ということで、そこまでいかなくても、次世代あるいは孫世代のことを考えて行動しているそうです。
 それは、多くの児童文学者とも共通する考え方ではないでしょうか。
 その後は、いろいろと話が飛びましたが、以下のように分類できます。
 彼女の政治および社会活動の話(安倍政権批判、トランプ批判、石原慎太郎批判、TPP反対、反原発、戦争反対、ペットブームと殺処分、動物実験反対、新潟知事選挙など)。
 クレヨンハウスの話(児童書も含めて命にとって大事なもの、オーガニックの八百屋、クレヨンハウスのお金はどこ(男)から来てるのと言われた(実際は「スプーン一杯の幸せ」の印税)、女性の働く場所を確保する、平和と反戦の絵本、女性の一生を描いた絵本など)。
 文学の話(ボブ・ディラン、文学の範囲とはなにか、子どもの本は全ての世代のため、読まれて初めて本になるなど)。
 差別の話(子どものいない人に何ができるといわれる、子どものいる人が何をしたのか、アザー・ボイス(非主流の声)、フェミニズム(男性優位主義というナショナリズムに異議申し立てする)、一般に普通と言われる人たちとそれ以外のマイノリティの人々、女性の人権、子どもの人権、シングルマザーの子どもとして生きてきた自らの生い立ち、オリンピックは国威発揚のため(一番感動したのは1968年のメキシコオリンピックの表彰式で人種差別反対を表明した選手たち)など)。
 彼女の主張の是非は別として、観衆(特に女性)の共感を得るスピーチがうまいなと思いました。
 ただ、日本児童文学者協会の創立70周年記念公開研究会における講演ということを考えると、もっと「児童文学」に寄せた内容にすべきだったでしょう。
 特に、ラストで彼女がかかわって作った歌をCDか何かで聞かされた時は、強い違和感を覚えました。
 それは、私だけではなく、その後の分科会や懇親会の時に、他の児童文学者たちも違和感を感じたことを述べていました。
 おそらく落合のファンが多いであろういつもの講演会ではここで盛り上がるのでしょうが、今回はどこかしらけた雰囲気になっていました。
 また、「私がフェミニストなのは女性がマイノリティだからで、男性がマイノリティになったら私は男性を擁護する」と述べていましたが、完全に男性(書き手も読み手も)がマイノリティでL文学(女性の作家が、女性を主人公にして、女性の読者のために書いた文学)化している現在の日本児童文学の状況(当日も参加者の大半は女性でした)を考えると、皮肉にしか思えませんでした。

スプーン一杯の幸せ―愛を語る三つの形
クリエーター情報なし
祥伝社



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四季派学会・宮沢賢治学会イーハトーブセンター合同研究会 ―宮沢賢治から「四季」派へ―

2016-10-08 08:27:19 | 参考情報
 2012年12月15日に大妻女子大学で行われた宮沢賢治と四季派の詩人たちをめぐっての、宮沢賢治学会イーハトーブセンターと四季派学会との合同研究会です。
 1930年代という時代の中で、宮沢賢治が四季派の詩人たちにはどう受け止められたかなどをテーマにした講演、研究発表でした。
 研究発表は以下の通りでした。
 ・平澤信一「『風の又三郎』の新しい課題」 
 ・吉田恵理「中原中也と富永太郎における『春と修羅』の問題 
 ・名木橋忠大「立原道造と宮沢賢治 -われもまたアルカディアに-」
 講演は、北川透『異界からの声をめぐって― ―宮沢賢治と「四季」派の詩』でした。
 最初の研究発表を除くと、四季派学会の人たちによる発表や講演なので、普段の宮沢賢治学会とかなり毛色が違っていました。
 まず、いろいろな詩が引用されるのですが、その時発表者が詩を朗読するのです。
 おそらく彼らは詩の朗読に慣れているのでしょう。
 みんな大変上手なのに驚かされました。
 次に、先行研究の引用が非常に多かったです。
 これは、研究対象が狭い分野に集中しているので、どうしても先行研究を紹介して、その上に自分の考察を積み上げる形にならざるを得ないためだと思われました。
 そのあたりは、宮沢賢治学会と共通しているようです。
 一方、日本児童文学学会の場合は、研究対象が非常に広いので、独自の分野を開拓できる余地が広いと思われます。
 その分、今回の聴衆(特に四季派学会の人たち)は発表内容について熟知しているようで、質疑の時に活発な意見交換がみられました。
 

宮沢賢治―驚異の想像力 その源泉と多様性
クリエーター情報なし
朝文社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔡 宣静、安 智史、岡村民夫「パネルディスカッション・質疑応答」

2016-09-22 08:45:25 | 参考情報
 宮沢賢治学会イーハトーブセンター冬季セミナーin東京「宮沢賢治と映画」で、それぞれの講演後に行われたパネルディスカッション・質疑応答です。
 各発表者が他の講演に対して発言し、最後に会場からの質問に答えました。
 「映画が発明された時期の文学者への影響はどうなのか。」という発言がありましたが、これに関しては安が発表以外に資料にまとめていて、萩原朔太郎、室生犀星、谷崎潤一郎などについて述べられています。
「映画では、失われたものを引きずる者が、賢治を引用することが多い。」という点では、全員が合意していました。
 岡本によると、90年代の日本のインディペンデント系の作品には喪失した物(者)を描くことが多いとのことです。
 これは、バブル崩壊後の社会の動向の影響が表れているのでしょう。
 賢治の作品では、童話よりも詩の方がモンタージュしやすいので、映画に反映することが多いようです。
 会場からの「賢治は日本の映画は見たか?」の質問に対しては、女優が出ない1918年までの日本映画は馬鹿にしていたようだが、その後の作品は見ていたでしょうとのことでした。

宮沢賢治―驚異の想像力 その源泉と多様性
クリエーター情報なし
朝文社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平澤信一「『風の又三郎』の新しい課題」

2016-09-20 08:21:52 | 参考情報
 四季派学会・宮沢賢治学会イーハトーブセンター合同研究会 ―宮沢賢治から「四季」派へ―で行われた研究発表です。
 研究発表要旨は以下の通りです。
「宮沢賢治が晩年に執筆し、未完成のまま遺された少年小説『風の又三郎』には、よく知られた「三年生」の問題というのがある。草稿冒頭の分教場の記述に、作者は推敲時に「三年生がないだけで」という加筆をしているが、そのあとの部分では、三年生が何人もいることになっているという問題である。この問題については、最初の子供向け刊本である羽田書店版の坪田譲治編『風の又三郎』や、いまも書店に並ぶ岩波文庫版の谷川徹三編『風の又三郎』では、「三年生」を「一二年生」と読みかえたり「四年生」に直すなどのつじつま合わせをしようとして、かえって一部に新たな矛盾を生じていた。未来の『風の又三郎』本文では、これをどのように処置すべきか?
また『風野又三郎』「九月一日」の後期下書稿(賢治自筆)と「九月二日」以降の行間筆写稿(教え子の松田浩一筆写)は、これまで別の時期に書かれたものと推定されていたが、『新校本宮沢賢治全集』刊行後に、共通の綴じ穴が、天沢退二郎氏によって発見された。これは何を意味するのか?
『風の又三郎』をめぐる様々な未解決の問題について、考えてみたい。」
 宮沢賢治の「風の又三郎」の流布本において、「三年生問題」及び「登場人物の誤記問題」がどのように処理されているかを詳細に検討しています。
 宮沢賢治の本は、著作権が切れた関係で各社から様々な形で流布本が出版されていますが、ここでは三種の文庫本を取り上げています。
 結果として、岩波文庫は筑摩書房の校本が出る以前の研究に基づいており、ちくま文庫は校本に準拠していて、角川文庫は新校本を新かな表記にしたものを採用しています。
 発表は書誌学によるもので、使われた原稿用紙の違いや、その使い方(行間に文字を書いた場合もあります)や、さらには綴じ穴の位置まで、詳細に検討しています。
 一般の方にとっては非常にニッチに思える世界ですが、そのマニアックに検討する世界には惹かれるところもありました。
 また、有名な「風の又三郎」と最近注目されている初期形の「風野又三郎」との関係など、興味深い内容でした。
 発表が今回のテーマである「宮沢賢治から四季派へ」とは無関係だったせいか、質疑の時にだれも質問しなかったので、私が聞いてみました。
「「三年生問題」と「登場人物の誤記問題」を、流布本ではどのようにすべきとお考えですか?」
 平澤の回答は、「「登場人物の誤記問題」は結論が出ていると思いますが、「三年生問題」はまだ検討を続ける必要があります」とのことでした。
 宮沢賢治の多くの作品は未発表なので決定稿がなく、これからもこういった研究が続けられていくのでしょう。
 正直言って今すぐにはこういった深いが狭い世界へは進みたくないのですが、「現代児童文学」の研究に区切りがついたら、学生時代に、退職したら(その時は定年後(当時は55歳でした)の自分をもっと老成しているものと想像していました)やりたいと思っていた、「宮沢賢治」、「エーリヒ・ケストナー」、「プロレタリア児童文学」のいずれかのテーマに、どっぷり浸るのも悪くないなと思っています。

新編 風の又三郎 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする