インドでゼロと言う数字の概念が発見された。
それはどうやって発見されたのだろう? それを人はどうやって説明したのだろう?
例えば地球ってなんですか? と言うと今の我々は大体のことを説明できる。分析が済んでいるからだ。
宇宙の中での天体の一つで、地球はおおよそ球体に近く、7割が海で3割が陸地、窒素、酸素の気体が多く、自転はこの時間、公転はこの時間で行われていて、重力は大体この程度、気候が各地にあり、光合成から植物が生き、それを底辺として食物連鎖のピラミッドがある・・・。
と言うことで一言でいい切れる説明ではないが、多種多様な具体例を例示できる。
そしてそれはおおよそにおいて、「皆が暗黙に持っているだろう思考の補助線から逸脱した部分でこうですよ」と言う説明をしている。
例えば地球は球体に近いです、と言う説明だったら、いろいろな形状の内に立方体やら三角錐やらいろいろあるけれども、その中の一つで球体に近いということを言っているんですよ、と言う説明を、暗黙の内にしているということになる。
即ちそれは「何かの対比や、あるいはどこかに包摂されている概念の一部です」と言う、他の何かとの対比でないと説明ができない、そして発見ができない、と言うことになる。
ミシェル・ボーの「資本主義の世界史」によれば、当初発生した最初の資本主義には資本主義と言う名前がついていなかった。
資本主義と言う名前がついたのは、後発的に出てきた社会主義との対比の必要性から発生した言葉である。
ミシェル・ボー 資本主義の世界史 piii
<
資本主義は、存在し始めてからの最初の数世紀の間、それが一体何であるかは認識できなかった。それほど資本主義は、それ以前の巧妙な商業活動形態とほとんど区別できなかった。十九世紀において、社会主義の展望を資本主義に対置するため、資本主義と命名し、特徴づけを行ったのは、資本主義の敵対者であった。
>
それは自然の中にいると自然が当然すぎて認識できないのと同様、宇宙の中にいると、宇宙とはなにものかというのが認識できないのと同様、その大局のただなかにいると、その世界が認識できない。
しかしそれでも発見はなされるし、今の我々は地球に住みながらも、地球とは何なのかというのを説明できるし、理解できる。
対比や類比の分析を積み重ねてきたからだ。
それでは原理的発見は? そう、ゼロなどはどこにも対比要素がない。
それは直感やインスピレーションから受けねばならない、と言うのが今までの人類の社会的な理(ことわり)だった。
今後はそういう全く新しいところからの対比も何もない、原理的な「原初定義」を見つけねばならない。
そして遠い未来、それが人の仕事になるのではないか。
時間とは何か、空間とは何か、距離とは何か、位置とは何か、重力とは何か、光とは何か、資本主義とは何か、金とは何か、最外殻電子がなぜあのように決定されるのか・・・
その理論発見や、あるいは共有できる解釈が生まれたならば、後の計算と構築は、コンピュータと機械が勝手にやってくれる。
そういう時代が到来している。
そしてそれを普及するのも結構な骨のある作業となる。
ただ、人の直感とインスピレーションに頼っていた原理法則の発見とその適用を行う方法論、そしてそれを実現できる社会を実装すれば、今後の社会は更に進化するだろう。
後は余談である。
それが普及するまで、人間社会というものはゼロを必要としなかった。
これは別に原始宗教を崇めていた古代の洞窟の住人だったの頃の人類を言っているのではない。
ローマ式数字を見れば分かるように、ローマ時代はゼロを必要としなかった。
しかしそれと同時にローマは高度文明国家であり、文明そのものだった。
後の世では復元できない悪魔の橋と呼ばれるセゴビア水道橋を作ったり、あるいは現代でもその強度は再現できないというローマンセメントを生み出すなど、人類史においては高度の土木工事国家だったのである。
さてそんな時にゼロと言う数字を持ち込んでみた。
私が勝手に想像するに「なんだそんなもの、要らない」「よく分からんなあ~。第一これがなくても生活できるだろう」と言う具合で人々に変人を見る目で見られながら拒絶される。
測量にゼロが無くとも高度な土木工事ができるというのは驚愕すべきことだが、しかし当時はこれで事足りていたのだろう。
そのまま発展した当時のローマ文化は、現代の我々も継承をしている。
その内の一つに6世紀頃に出た「世紀計算」であるが、これはゼロと言う数字概念が無い時代で発生しそのまま定着してしまっただろうがゆえに、今の我々は不便を強いられている。
例えば、西暦1-100年は1世紀、西暦101-200年は2世紀・・・となるとまあ分からなくもないが、
西暦1901-2000年が20世紀、2001-2100年が21世紀と言うのは少々面倒だ。
西暦の上二桁がそのまま世紀になってくれれば我々の会話上も随分と便利になるが、今の概念であるといちいち西暦の上二桁をマイナス1にして世紀を言わなければならない。これは実生活上において大変不便である。
これはゼロと言う数字概念が無かった頃の不便の名残である。
ロンドンエコノミスト編集部は言う。人は一旦決まったものをなかなか辞められない、と。
彼らの著作「2050年の世界」によれば、「人はパソコンのキーボードでは左手の小指にaが来る配置と言う一番不便な配置を採用し、それをなかなか辞めようとしない」と言うのである。これは確かにその通りで、朝日新聞元主筆の船橋洋一さんのコメントを見てもここに着目したようだ。
私がここに考察を加える。「ものごとの変遷には学習+初期定着コスト(運用上の不便なコスト)と、新しいものに対する乗り換えコストの比較がある」と。
パソコンキーボードの配置が変わらないのは、学習した結果、運用が定着した際、他に便利なものが出てきても、運用上の不便なコストと新しいものを更に学習して定着運用させるコストを見比べた際、前者がいいだろうと判断されてしまうからだ。
世紀計算が刷新されないのは、新しい計算方法を提示しても、世界がそれを共通して使い続けてしまっているがため、乗り換えコストがかなり高くなり、かつ今の不便コストを黙殺するという状態になっているからである。
更に私が考察を加える。「それでも人々に乗り換えさせたい時はどうすればいい? 」
答えは「新しい社会ハードを作る」になる。
例えばパソコンのキーボード配列は変化しなかったが、スマホのフリック入力形式は数年の内にあっという間にスタンダードになった。それはなぜ? 「乗り換えることがなく」かつ「新しいものを学んだから」であると私は考える。
例えば、今のパソコンのキーボードの横に「フリック入力形式」のタッチパッドをつければ売れるか? おそらく答えはノー。
誰もそのような製品は購入しない。手持ちので間に合っているし(不便コストの黙殺)、新しいものを学ぶコストを払いたくないからだ(学習コストの向上)。
国連と言う社会ハードが膠着していて上手く機能しない。それではどうすればいい?
そう、答えは「新しい機関を作ればいい」。G7でもG8でも何でも、新しいものを作ればOKだ。
それはどうやって発見されたのだろう? それを人はどうやって説明したのだろう?
例えば地球ってなんですか? と言うと今の我々は大体のことを説明できる。分析が済んでいるからだ。
宇宙の中での天体の一つで、地球はおおよそ球体に近く、7割が海で3割が陸地、窒素、酸素の気体が多く、自転はこの時間、公転はこの時間で行われていて、重力は大体この程度、気候が各地にあり、光合成から植物が生き、それを底辺として食物連鎖のピラミッドがある・・・。
と言うことで一言でいい切れる説明ではないが、多種多様な具体例を例示できる。
そしてそれはおおよそにおいて、「皆が暗黙に持っているだろう思考の補助線から逸脱した部分でこうですよ」と言う説明をしている。
例えば地球は球体に近いです、と言う説明だったら、いろいろな形状の内に立方体やら三角錐やらいろいろあるけれども、その中の一つで球体に近いということを言っているんですよ、と言う説明を、暗黙の内にしているということになる。
即ちそれは「何かの対比や、あるいはどこかに包摂されている概念の一部です」と言う、他の何かとの対比でないと説明ができない、そして発見ができない、と言うことになる。
ミシェル・ボーの「資本主義の世界史」によれば、当初発生した最初の資本主義には資本主義と言う名前がついていなかった。
資本主義と言う名前がついたのは、後発的に出てきた社会主義との対比の必要性から発生した言葉である。
ミシェル・ボー 資本主義の世界史 piii
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資本主義は、存在し始めてからの最初の数世紀の間、それが一体何であるかは認識できなかった。それほど資本主義は、それ以前の巧妙な商業活動形態とほとんど区別できなかった。十九世紀において、社会主義の展望を資本主義に対置するため、資本主義と命名し、特徴づけを行ったのは、資本主義の敵対者であった。
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それは自然の中にいると自然が当然すぎて認識できないのと同様、宇宙の中にいると、宇宙とはなにものかというのが認識できないのと同様、その大局のただなかにいると、その世界が認識できない。
しかしそれでも発見はなされるし、今の我々は地球に住みながらも、地球とは何なのかというのを説明できるし、理解できる。
対比や類比の分析を積み重ねてきたからだ。
それでは原理的発見は? そう、ゼロなどはどこにも対比要素がない。
それは直感やインスピレーションから受けねばならない、と言うのが今までの人類の社会的な理(ことわり)だった。
今後はそういう全く新しいところからの対比も何もない、原理的な「原初定義」を見つけねばならない。
そして遠い未来、それが人の仕事になるのではないか。
時間とは何か、空間とは何か、距離とは何か、位置とは何か、重力とは何か、光とは何か、資本主義とは何か、金とは何か、最外殻電子がなぜあのように決定されるのか・・・
その理論発見や、あるいは共有できる解釈が生まれたならば、後の計算と構築は、コンピュータと機械が勝手にやってくれる。
そういう時代が到来している。
そしてそれを普及するのも結構な骨のある作業となる。
ただ、人の直感とインスピレーションに頼っていた原理法則の発見とその適用を行う方法論、そしてそれを実現できる社会を実装すれば、今後の社会は更に進化するだろう。
後は余談である。
それが普及するまで、人間社会というものはゼロを必要としなかった。
これは別に原始宗教を崇めていた古代の洞窟の住人だったの頃の人類を言っているのではない。
ローマ式数字を見れば分かるように、ローマ時代はゼロを必要としなかった。
しかしそれと同時にローマは高度文明国家であり、文明そのものだった。
後の世では復元できない悪魔の橋と呼ばれるセゴビア水道橋を作ったり、あるいは現代でもその強度は再現できないというローマンセメントを生み出すなど、人類史においては高度の土木工事国家だったのである。
さてそんな時にゼロと言う数字を持ち込んでみた。
私が勝手に想像するに「なんだそんなもの、要らない」「よく分からんなあ~。第一これがなくても生活できるだろう」と言う具合で人々に変人を見る目で見られながら拒絶される。
測量にゼロが無くとも高度な土木工事ができるというのは驚愕すべきことだが、しかし当時はこれで事足りていたのだろう。
そのまま発展した当時のローマ文化は、現代の我々も継承をしている。
その内の一つに6世紀頃に出た「世紀計算」であるが、これはゼロと言う数字概念が無い時代で発生しそのまま定着してしまっただろうがゆえに、今の我々は不便を強いられている。
例えば、西暦1-100年は1世紀、西暦101-200年は2世紀・・・となるとまあ分からなくもないが、
西暦1901-2000年が20世紀、2001-2100年が21世紀と言うのは少々面倒だ。
西暦の上二桁がそのまま世紀になってくれれば我々の会話上も随分と便利になるが、今の概念であるといちいち西暦の上二桁をマイナス1にして世紀を言わなければならない。これは実生活上において大変不便である。
これはゼロと言う数字概念が無かった頃の不便の名残である。
ロンドンエコノミスト編集部は言う。人は一旦決まったものをなかなか辞められない、と。
彼らの著作「2050年の世界」によれば、「人はパソコンのキーボードでは左手の小指にaが来る配置と言う一番不便な配置を採用し、それをなかなか辞めようとしない」と言うのである。これは確かにその通りで、朝日新聞元主筆の船橋洋一さんのコメントを見てもここに着目したようだ。
私がここに考察を加える。「ものごとの変遷には学習+初期定着コスト(運用上の不便なコスト)と、新しいものに対する乗り換えコストの比較がある」と。
パソコンキーボードの配置が変わらないのは、学習した結果、運用が定着した際、他に便利なものが出てきても、運用上の不便なコストと新しいものを更に学習して定着運用させるコストを見比べた際、前者がいいだろうと判断されてしまうからだ。
世紀計算が刷新されないのは、新しい計算方法を提示しても、世界がそれを共通して使い続けてしまっているがため、乗り換えコストがかなり高くなり、かつ今の不便コストを黙殺するという状態になっているからである。
更に私が考察を加える。「それでも人々に乗り換えさせたい時はどうすればいい? 」
答えは「新しい社会ハードを作る」になる。
例えばパソコンのキーボード配列は変化しなかったが、スマホのフリック入力形式は数年の内にあっという間にスタンダードになった。それはなぜ? 「乗り換えることがなく」かつ「新しいものを学んだから」であると私は考える。
例えば、今のパソコンのキーボードの横に「フリック入力形式」のタッチパッドをつければ売れるか? おそらく答えはノー。
誰もそのような製品は購入しない。手持ちので間に合っているし(不便コストの黙殺)、新しいものを学ぶコストを払いたくないからだ(学習コストの向上)。
国連と言う社会ハードが膠着していて上手く機能しない。それではどうすればいい?
そう、答えは「新しい機関を作ればいい」。G7でもG8でも何でも、新しいものを作ればOKだ。
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