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とめどもないことをつらつらと

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山本七平(イザヤ・ベンダサン)への批判

2014-07-05 23:16:05 | 国内社会批判
日本で親しまれている著述家の中で、山本七平(イザヤ・ベンダサン)がいる。
これは1970年代から日本の著作の中で「日本人とユダヤ人」などにおいてロングセラーを記録したのだった。同著者で有名な著作には「空気の研究」などがある。

この「日本人とユダヤ人」は私は未読なのであるが、どうにも賛否両論でAmazonの評価が、高評価が優勢ながらも低評価にも意見が集中している。こういった傾向は珍しい。普通、Amazonの低評価というものはつきにくい。書籍とは普通、自分が知りたいジャンルを手に取るもので、その中での新規の知識を得たり、感銘したり、次の思考に繋げたりする材料を提供したりするものだからだ。これは一体どうしたことか。

そんな中、一定の距離で突き放して評論する書評が現れた。
なかなか優れている文章なので下記に引用したい。

文藝春秋 2014 七月号 P386

ベストセラーで読む日本の近現代史
第十回 【日本人とユダヤ人】 (イザヤ・ベンダサン)

「ユダヤ人」に託した高度成長期日本への「預言書」
佐藤優(作家)

一九七〇年五月、東京市ヶ谷の山本書店から『日本人とユダヤ人』と題する本が出版された。山本書店はキリスト教関係の専門書を刊行する小さな出版社で、著者は、イザヤ・ベンダサンという無名のユダヤ人だ。ベンダサンは日本に生まれ育ち、太平洋戦争直前に米国に帰国した日本語に堪能なユダヤ人という触れ込みだった。

 山本七平ライブラリー版『日本人とユダヤ人』の解説で、向井敏氏が本書がベストセラーになる過程について記している。

 <はじめはひっそりと登場した『日本人とユダヤ人』だが、二か月とたたぬまにしきりに人の口の端にのぼりはじめ、たいして売れはしないだろうと出版部数を控えめに抑えた版元の思惑をくつがえして、つぎつぎと版を重ねだした。藤田昌司が『ロングセラー そのすべて』(初版昭和五十四年、図書新聞社)で調べたところによれば、その火付け役になったのは、外務省の地階の売店で、次いで通産省地階の売店に飛び火し、さらに丸の内界隈の書店へと広がっていったという。折から日米繊維交渉が難航し、日米互いにその言い分を譲らないという状況のなかで、日本人とユダヤ人、ひいては欧米人との思考方法の違いを説いたこの本が、まず外務通算両省の役人や貿易勝者のビジネスマンの興を誘ったということだったらしい。何だかできすぎた話だが、ありえないことではない。>

 筆者が外務省に入ったのは、一九八五年のことだ。外務省研修所の指導官から配られた日本人と外国人の文化の差について知るための参考文献一覧に『日本人とユダヤ人』が入っていた。また、先輩の外交官から、「君は同志社の神学部出身なんだってな。イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』について、どう思うか」と尋ねられたことがある。筆者は「神学も分野が細かく分かれています。私は一般の学問だと哲学に近い組織神学を専攻していたので、旧約聖書やユダヤ教についてはよくわかりません」と言って逃げた。

 旧約聖書学の基礎知識があり、現代のユダヤ教、ユダヤ人社会の現状について知っている人が「日本人とユダヤ人」を読めば、著者は旧約聖書に関する造詣が深いが、現代のイスラエル建国の理念となったシオニズムに関する知識がほとんどないことに気づく。

 筆者が大学院神学研究科一回生のときに『日本人とユダヤ人』を徹底的に批判した浅見定雄氏(当時、東北学院大学教授)の「にせユダヤ人と日本人」(朝日新聞社、一九八三年)が上梓された。筆者たち神学生は、この本を熟読した。浅見氏は、東京神学大学と大学院を卒業した後、米国のハーバード大学で旧約聖書を研究し、神学博士号を取得した専門家だ。旧約聖書学や、イスラエル事情に関する知識を用いて、本書の内容を批判する。この点に関しては、浅見氏が優勢だった。山本氏の翻訳を取り上げ、英語力が基準に達していないと非難する。山本氏の、人格、能力を全面的に否定する浅見氏のアプローチに筆者は違和感を覚えた。

 浅見氏は、イザヤ・ベンダサンこと山本七平氏を激しく批判する理由について、<このような人(中略)が気のきいた「知識人」として歓迎されている間に、日本の国が取り返しのつかない方へ持って行かれてしまうことを恐れるからである。ファシズムは、似而非(えせ)学者・文化人の言論の横行に支えられてやってくる--これは歴史の教訓である>と述べる。

 浅見氏は、左翼的イデオロギーのプリズムを通して世界を見ているので、山本氏の自由な精神を感知することができないのだ。山本氏は、日本人であり、同時にキリスト教徒であるということの意味を真摯に考え、行動した信仰者であることが、浅見氏をはじめとする「政治的に自分が絶対に正しい」と信じている一部のキリスト教徒には理解できないのである。

 浅見氏の批判書には、マサチューセッツ工科大学のハロルド・アイザックス教授の書評が収録されている。以下の指摘が興味深い。

<もしも「イザヤ・ベンダサン」氏が実際にユダヤ人だとするならば、それなら彼は、同世代の仲間のユダヤ人との接触から驚くほど遮断されて来たユダヤ人である。(中略)/イスラエルについては「ベンダサン」氏は明らかにいちばん勝手を知っており、かの地の物理的特徴、たとえば不十分な水の供給--それを彼は日本の場合と対比するのだが--を論じる。しかもそれを、大部分、古代の文脈の中で行うのである。(中略)/もし「ベンダサン」氏が実際にユダヤ人だとするならば、彼はかの横井庄一氏と同じように、その人生の大部分をどこかの洞窟でただひとり暮らして来たユダヤ人である。ただしこの「ベンダサン洞窟」には、明らかに『聖書』と、それからユダヤ人に関する聖書時代および聖書後時代の文献はたくさん蓄えられていて、彼はたしかにそれを注意深く研究したのである。>

山本氏は、ベンダサンという旧約聖書時代のユダヤ人に変装して、高度成長時代の日本が、構造的に抱える危機について預言したのである。ユダヤ教、キリスト教の伝統において、預言と予言は異なる概念だ。預言は、神の言葉を預かることだ。預言は、未来に何が起きるかについて語る予言も含まれるが、それだけではない。現実に対する鋭い批判と、思考と行動を改めるようにとの呼びかけが、預言の中心に置かれる。『日本人とユダヤ人』は山本氏による預言書なのである。

<駐日イスラエル大使館がまだ公使館であったころ、日本人に親しまれたある書記官がつくづくと言った。「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思い込んでいる」と。この言葉は面白い。生きるために、水より大切なものはないということは、何も「ユダヤ人から聞かなくたって、よくわかっている」。では、銀座のバーで「おひや」一杯で一万円請求されたらどうであろう。「ジョニ黒ですら一万円なのだから、何よりも尊くかつ不可欠の水が一万円なのは当然だ」とその人は言うであろうか。「冗談じゃない、それとこれとは別問題だ、水一杯で一万円とは何だ、暴利だ、暴力バーだ」と警察沙汰になるかもしれない。
 安全に対する態度もまさにこれと同じである。軍隊とか警察とかいうものは、国民の税金で維持しているガードマン、いわばナショナルガードマンだといった考え方は、戦前にもなかったし戦後にもない。戦前の青年将校にそんなことを言えば「無礼者!」と叩き切られるかも知れない。また戦後は、自衛隊は税金泥棒であり、「警察は敵」である。(中略)政府は、一生懸命、防衛の必要をPRする。しかしそれはまるで、朝、会社へ出勤しようとする夫をつかまえて、奥さんが「水より大切なものはないし、将来のことは予測できないのですから、是非、水筒をもっていって下さい」といって、夫の方にむりやり水筒をかけようとするのに似ている。日本は、安全も自由も水も、常に絶対に豊富だった(少なくとも過去においては)。だから、それがいかに大切だからといって、そのために金を払おうという人はいない。>

 山本氏が、この預言を行ってから四十四年経った現在、飲料水に関しては、金を払ってペットボトルのミネラルウォーターを買うことが日常的になっている。「水は無料だ」という神話はもう通用しない。それとともに「安全は無料だ」という神話を信じている人ももはやいない。安倍政権は、憲法解釈を変更することによって集団的自衛権行使を容認することを考えている。ここで問題になっているのは、集団的自衛権で、個別的自衛権については、日本の当然の権利で、行使するというのが国民的合意になっている。「自衛隊は税金泥棒である」とか、「警察は敵だ」というような批判を言う人の方が「かなり過激で、特殊な思想を持っているのではないか」と疑いの目で見られる。

 山本氏の別の預言を見てみよう。

<日本人には、「秘密-罪悪」といった意識があり、すべて「腹蔵なく」話さねば気が休まらない。と同時に、秘密を守るということがどういうことか知らない。アメリカ人はずいぶんアケッピロゲに見えるが、守るべき秘密は正確に守る。良い例が原爆製造である。日本では、造船所のまわりによしずを張ったり、軍需工場の近くに来ると汽車の窓をしめさせたりしていた--何とナイーブな! アメリカはB29の写真や設計図まで平然と公表していた。だが原爆の製造は完全に秘密を守り通していた。私は昭和十六年に日本を去り、二十年の一月に再び日本に来た。上陸地点は伊豆半島で、三月・五月の大空襲を東京都民と共に経験した。もっとも、神田のニコライ堂は、アメリカのギリシア正教徒の要請と、あの丸屋根が空中写真の測量の原点の一つとなっていたため、付近一帯は絶対に爆撃されないことになっていたので、大体この付近にいて主として一般民衆の戦争への態度を調べたわけだが、日本人の口の軽さ、言う必要までないことまでたのまれなくても言う態度は、あの大戦争の最中に少しも変わらなかった。(中略)相手を信用し切るということと、何もかも話すこととは別なのである。話したため相手に非常な迷惑をかけることはもちろんある。従って、相手を信用し切っているが故に秘密にしておくことがあっても少しも不思議でないのだが、この論理は日本人には通用しない。>

 ベンダサンが、インテリジェンス・オフィサー(情報将校)として、終戦前の日本に極秘上陸して、空襲がなされないことになっていたニコライ堂の周辺で情報収集活動をしたという話は、インテリジェンスに少しでも通じている人ならば作り話とわかる。まず、米軍が必要とする情報は、民衆の意識ではなく、政策意志決定者の意図だ。リスクを冒して、日本に秘密上陸して、戦争政策に影響のない民衆の噂話を収集するような間抜けたことを米国はしない。もちろん戦争中に米国の秘密工作員が日本に上陸したことはあると思う。そういう人たちの目的は、軍事情報収集と破壊活動だ。戦争が終わっても、この種の情報は絶対に表に出さない。「日本人は秘密を守れない」という物語の脚色として、山本氏はこういう記述をしたのであろう。

 去年十二月、特定秘密保護法が成立し、今年十二月から施行される見通しである。秘密保全体制も日本で確立されつつある。累計三百万部になる『日本人とユダヤ人』の内容は、政治エリートを含む日本人の多くに刷り込まれ、国民の意識転換に大きな役割を与えたと筆者は見ている。


さて、ここで問題である。

「累計三百万部になる『日本人とユダヤ人』」は「政治エリートを含む日本人の多くに刷り込まれ」たとあるが、上記で論評されている通り、山本氏が預言した内容と現代日本の実状には乖離が生じており、出版された当時は思想として有効であったかもしれないものだが、しかしその内容については、若干の軌道修正が必要になって来ている点、しかし、従来から日本に存在する多数の山本ファンはそれを意識していない点にある。

本来であれば、こうした思想書にジャンル分けされる書籍というものは、時代や洋の東西を問わずに普遍的に存在すべきもののはずなのであるが、しかしながら、上述のように山本氏の「預言」は外れた。
論評から引用すると、この思想・神話を信じている人は、現代日本において「通用しない」「もはやいない」「『かなり過激で、特殊な思想を持っているのではないか』と疑いの目で見られる」ということだが、しかし論者は、山本氏の言いたいことを言うためにある種の「脚色」は仕方なかった、と言っておさめる。

それでは山本氏の本当に言いたかったことは何だろうか? 
それは日本に対する危機意識への根本対策なのだろう。
その一点へ論ずるために数多の脚色をせざるを得なかったのではないかな、と想像する。

(ちなみに第二部へ続きます。。。)
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1 コメント

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Unknown (booter)
2020-02-08 00:19:14
本ページが検索に引っかかり、何やら誤解をされている方が多数いるようなので、私から補足しておきます。

佐藤氏はこの書評を通じ、山本七平に対して礼賛をしている訳ではありません。むしろ否定的態度を取る時に、同氏はこういう書き方をします。まず文章の前段で対象者のファンを傷つけないように礼賛して橋頭堡を確保してから、後段の7分目くらいで「一般的には〇〇と否定される」と自分自身の意見ではなく、世間の言葉や他者の意見で批判を加えます。

乱雑ですが、直截的に言ってしまえば、佐藤氏は山本氏を好きではなく嫌いなのです。
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