引用。
<
日本人「フランスの学校で娘がテストで正解を書いたのに×だった」 仏教師「自分の考えが無い回答は無意味」
1: 足4の字固め(catv?):2014/01/05(日) 10:43:05.91 ID:9zE+WKKO0
日本の教育には「議論」がない
1996年、企業派遣生としてフランスのINSEADとグランゼコールHECへ留学。
世界のエリートと学ぶ中で、哲学的思考の重要性を強く意識する。
【田原】福原さんはフランスに留学経験がありますが、向こうでは日本のような教え方をしないのですか。
【福原】そうですね。日本人とフランス人のハーフの友人がフランスに転校になり、
日本で解いたことのある問題がテストで出たそうです。彼女は日本で習った通りの答えを書いたのですが、
結果は0点。彼女の母親が「うちの娘は正しいことを書いている」と抗議にいくと、先生は「この解答には
彼女の考え方がまったく入っていない。これでは世界に対する彼女の付加価値がゼロだ」と説明しました。
つまりフランスでは、正しい知識を得て終わりではなく、自分が知識を使って世界にどのように
貢献するのかということをつねに問われるのです。
http://president.jp/articles/-/11353?page=2
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1388884806/
4: ミドルキック(チベット自治区):2014/01/05(日) 10:45:12.31 ID:42xizb+U0
暗算は許されない
5: ムーンサルトプレス(栃木県):2014/01/05(日) 10:45:13.04 ID:lm1x67WR0
日本のは教育じゃなくて洗脳だから議論がないほうがいいの
25: フェイスロック(チベット自治区):2014/01/05(日) 10:51:08.52 ID:m0LteCyY0
>>5
条件反射力と暗記力を鍛えているんだよ
5分考えて575の17文字しかない人の心を打つ詩を作る奴より
5分で50音順の速記を10セットで500文字生産する奴が偉い
101: ドラゴンスリーパー(dion軍):2014/01/05(日) 11:24:09.37 ID:gB2lb5zi0
× 日本の教育には「議論」がない
○ 日本の教育には「議論」をさせない
教師が教える通りにやる、覚える
議論の余地は無い、言われたとおりにやれ
これが日本の教育
>
その結果が件の移民政策ですか・・・。
まあ、私は学歴で言うと低学歴なのですが、フランスのバカロレアとか好きです。ヨダレもんです。
問題見たら喜びのあまり心の中でうっひょううっひょう言ってた。
これはいい問題だ。回答しがいがある。
<
http://id.fnshr.info/2013/06/24/bac-philo-2013/
2013年に、人文系 (littéraire; L) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
1.言語は道具でしかないのか? (Le langage n’est-il qu’un outil ?)
2.科学は事実の証明に限られるのか? (La science se limite-t-elle à constater les faits ?)
3.デカルト『エリザベートへの手紙』の抜粋に対する解説 [2]
経済社会系の哲学の問題
2013年に、経済社会系 (économique et social; ES) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
1.我々は国家に対していかなる義務を負うか? (Que devons-nous à l’Etat ?)
2.認識を欠いた場合、解釈できるか? (Interprète-t-on à défaut de connaître ?)
3.アンセルムス『調和について』 (De la concorde) の抜粋に対する解説 [3]
理系の哲学の問題
2013年に、理系 (scientifique; S) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
1.政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか? (Peut-on agir moralement sans s’intéresser à la politique ?)
2.労働は自意識を持つことを容認するのか? (Le travail permet-il de prendre conscience de soi ?)
3.ベルクソン『思考と動き』(La pensée et le mouvant) の抜粋に対する解説 [4]
>
最初は、上記を引用するだけで終わりにするつもりだったが、回答をしたいという衝動が抑えられなくなった。
という訳で、私なりの回答をそれぞれ記す。
1.言語は道具でしかないのか? (Le langage n’est-il qu’un outil ?)
言語と道具の用語定義からまず行う。
まず、言語とは何か。言語とは、「意味の究極的基層の代替表現」である。まず我々人類が共通に理解しうる理念「イデア」があり、それをそれぞれの地域で表現しているのが、言語である。
次に道具とは何か。何かにものを変化作用を起こす実体が道具である。
故に、言語とはイデオロギーを潮流させ、思想を固着せしめ、そして政治決定へ連なる。極論すれば、言語が初端となり、核ミサイルのボタンを押すことが可能である。この意味において、言語は道具である。
しかし、命題は「言語は道具でしかないのか? 」つまり、道具以外の作用作も引き起こせるか否か、という点に着目して立題している。
道具とは何らかの目的、目標への変化を起こすための手段に使用される器具だ。つまり、逆に言うと「道具以外の作用作」「目的への変化を持たない作用作」を意図的に、あるいは意図せずして発生せしめうるか否か、という命題に置き換えられる。
これは可能だ。例えば、目的への変化をもたない道具、例えば絶対に命中しない銃があったとする。木に向かって打ったとして、それが外れ、その奥にいたウサギに命中した。これは立派な「目的外の作用作」だ。
論理演算とベン図の集合論で考えると分かりやすい。
a)時間的差異で見てみよう。
銃が当たる予測的範囲の集合をP
銃が当たった結果的範囲の集合をQ
とする。
通常、道具には目的を果たすことを目的にするため、通常AとBは一致する。だが、銃にはそれぞれ性能があって、AとBの集合は完全一致しない。
結果、
①P \wedge Q (意図する場所へ当たった:性能からの予測と結果が一致)
②P \not\rightarrow Q (予測する場所で誤差による判定外れがここに当たる。)
③P \not\leftarrow Q(結果。予期せず当たった場合がここに当たる。)
④P ↓ Q (上記以外)
上記の場合、④P ↓ Qが「道具足り得ない道具」の範囲だ。
上記は予測と結果で群をPとQに分けたが、時間以外にも、性能差や別の尺度でも応用可能なのでやってみるといいだろう。
さて、お題に戻る。「言語は道具でしかないのか? 」であるが、上記のようにP ↓ Qは存在する。
具体的には何であろうか。
具体的には、言語が目的外作用作を生み出す可能性は一例として次の例となる。
まず、予想と目的があって器具が存在するのであるが、これは一次作用、つまりは料理にフライパンが目的道具としてあるが、二次的、三次的作用、つまりその後の食事、消化、人の生活までは含めない定義とし、直接目的である一次作用の料理のみを目的とした器具だとすると、2以上のN次作用がP ↓ Qとなる。
言語が人への伝心を目的とするならば、それは一次利用の道具の範疇を超える。
最初のイデオロギーの例えに戻ると、例えば新聞にとある国への批判記事が載った場合、イデオロギーが形成され、世論へと固着し、政治決定がなされる。経済援助がなされるか、緊張を生むかの予期せぬ作用として繋がるのだ。
よって「言語は道具でしかない。この命題は是か否か? 」と言えば否である。その道具の二次的、三次的、あるいはN次的作用を考えると、その目的地点を突破して目的外の作用をもたらす媒体となるのだ。
他に検証方法として、人間が作り出した媒体は人間によってコントロールできないという、マルクスの言う「疎外」を考えれば、言論によって完全に社会が統制できていない現実を見れば、反証材料となりうるだろう。
以上。
****
2.科学は事実の証明に限られるのか? (La science se limite-t-elle à constater les faits ?)
科学とは自然哲理の分析、知体系への落とし込み、人間への理解、応用である。
自然宇宙が持つ法則的イデアの現象である。
その法則が組み合わさって事実となる。
それは結果として発生した事実と、発生していないけれども、発生可能な事実に分かれる。「科学は事実の証明に限られるのか? 」とは発生した結果の分析だけである。よって「科学は事実の証明に限られるのか? 」という命題に対しては否である。
人間が持つ理論体系から制作される創作物は全てそうである。
例えば、原子力発電、原子爆弾などは、理論が先行して開発されたものだ。
この他、近代哲学、あるいは現代物理学を応用したものは全てその通りで、実在の発生よりも理論が先行している。
近代建築、金管楽器、いわば、科学の力によるイデアの具象化がその反証となるだろう。
以上。
****
3.デカルト『エリザベートへの手紙』の抜粋に対する解説 [2]
※すみません。フランス語が分からないのでここはパス。
****
経済社会系の哲学の問題
2013年に、経済社会系 (économique et social; ES) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
1.我々は国家に対していかなる義務を負うか? (Que devons-nous à l’Etat ?)
国家とは富の再配分の決定機関とその範囲のことである。通常、国家は他に存在する国家との拮抗においてのみ存在しうるものであり、その国家間秩序のモデルを構成しうる強制能力(軍能力、警察能力、国家運営能力、国民気質、素質、教育、経済)が必要である。
その運営を持ってして国家を形成できるので、それに対する義務や徴税が必要である。
以上。
****
2.認識を欠いた場合、解釈できるか? (Interprète-t-on à défaut de connaître ?)
この文章の主語を「自己」とする。
認識とは脳へのインプットのことで、解釈とは脳内でのアウトプットのことだ。
簡単に料理で例えて言うと、インプット材料が食材、解釈が調理、アウトプットが出来上がった料理だ。
この回答は二つに分かれる。
まず解釈はどうやって行うかというと、思考の補助線や基準線に照らし合わせ、これは正である、これは否であると自己の内部で決定する。その一つ一つの折り重ねが解釈としてアウトプットされる。
この思考の補助線自体も認識から外部入力される為、「思考の補助線」があった場合と、無かった場合の二通りに考えて回答せねばならない。
思考の補助線がある場合はどうなるか。食材がなくて調理しているのだからアウトプットができない。つまり解釈は不能だ。
思考の補助線がない場合はどうなるか。食材がなくて更に調理する方法も道具もないのだからアウトプットができない。つまり前者と同じく解釈は不能である。但し、その解釈の不能には説明したとおりの属性が付与される。
以上。
3.アンセルムス『調和について』 (De la concorde) の抜粋に対する解説 [3]
※フランス語が分からないのでここはパス。
****
理系の哲学の問題
2013年に、理系 (scientifique; S) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
****
1.政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか? (Peut-on agir moralement sans s’intéresser à la politique ?)
※回答不可。
日本人からの立場としては可能である。
生活共同体を意識することなく、良心に従った行動が可能だからだ。
しかし欧州圏となると回答は違うのではないか。
例えば、プラトンの「国家」では、国家を論じる際、個人、人間と対比して回答された。即ち、人が持つ道徳倫理と政治は何階層かはさむとは言え、関連的に結合している存在なのである。
よってここを論じなければならないと思うのだが、私には知識が無い。回答不可。
****
2.労働は自意識を持つことを容認するのか? (Le travail permet-il de prendre conscience de soi ?)
※回答不可。
ここで言う労働という言葉に気をつけなければならない。
労働とは、計画や立案に対する実働のことであり、資本家に対する労働者、脳に対する手足、指揮命令者に関する歩兵ということになる。
自意識とは自由意識としておきかえる。
脳が下した命令に手足が反乱していいかということである。
トップが下した命令に最下部の人間が自由意志を持って拒否権発動させることは社会的倫理的に是か否かを問うている。
そのような場合に、組織の運営観点から見れば、手足の反乱や自由意志は許されない。だがこの回答ではNGだ。
例えばブラック企業が週100時間働け、残業代は出ない、というような無茶振りをした場合、それは社会倫理的に否だ。
まず、その組織が正常に運用できないし、働いている人の人権も守らなければならないからだ。
この組織運用と下位組織における労働者の人権の綱引きで、ここはこうしましょう、あそこはああしましょうと、実例を持った事例で説明して一つ一つ線を引いていかなければならない。
私はこの材料が無いので回答することができない。
****
3.ベルクソン『思考と動き』(La pensée et le mouvant) の抜粋に対する解説 [4]
※フランス語が分からないのでここはパス。
****
ここまで書いて疲れてしまった。
これ回答するのが面白いので興味ある人は是非。
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日本人「フランスの学校で娘がテストで正解を書いたのに×だった」 仏教師「自分の考えが無い回答は無意味」
1: 足4の字固め(catv?):2014/01/05(日) 10:43:05.91 ID:9zE+WKKO0
日本の教育には「議論」がない
1996年、企業派遣生としてフランスのINSEADとグランゼコールHECへ留学。
世界のエリートと学ぶ中で、哲学的思考の重要性を強く意識する。
【田原】福原さんはフランスに留学経験がありますが、向こうでは日本のような教え方をしないのですか。
【福原】そうですね。日本人とフランス人のハーフの友人がフランスに転校になり、
日本で解いたことのある問題がテストで出たそうです。彼女は日本で習った通りの答えを書いたのですが、
結果は0点。彼女の母親が「うちの娘は正しいことを書いている」と抗議にいくと、先生は「この解答には
彼女の考え方がまったく入っていない。これでは世界に対する彼女の付加価値がゼロだ」と説明しました。
つまりフランスでは、正しい知識を得て終わりではなく、自分が知識を使って世界にどのように
貢献するのかということをつねに問われるのです。
http://president.jp/articles/-/11353?page=2
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1388884806/
4: ミドルキック(チベット自治区):2014/01/05(日) 10:45:12.31 ID:42xizb+U0
暗算は許されない
5: ムーンサルトプレス(栃木県):2014/01/05(日) 10:45:13.04 ID:lm1x67WR0
日本のは教育じゃなくて洗脳だから議論がないほうがいいの
25: フェイスロック(チベット自治区):2014/01/05(日) 10:51:08.52 ID:m0LteCyY0
>>5
条件反射力と暗記力を鍛えているんだよ
5分考えて575の17文字しかない人の心を打つ詩を作る奴より
5分で50音順の速記を10セットで500文字生産する奴が偉い
101: ドラゴンスリーパー(dion軍):2014/01/05(日) 11:24:09.37 ID:gB2lb5zi0
× 日本の教育には「議論」がない
○ 日本の教育には「議論」をさせない
教師が教える通りにやる、覚える
議論の余地は無い、言われたとおりにやれ
これが日本の教育
>
その結果が件の移民政策ですか・・・。
まあ、私は学歴で言うと低学歴なのですが、フランスのバカロレアとか好きです。ヨダレもんです。
問題見たら喜びのあまり心の中でうっひょううっひょう言ってた。
これはいい問題だ。回答しがいがある。
<
http://id.fnshr.info/2013/06/24/bac-philo-2013/
2013年に、人文系 (littéraire; L) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
1.言語は道具でしかないのか? (Le langage n’est-il qu’un outil ?)
2.科学は事実の証明に限られるのか? (La science se limite-t-elle à constater les faits ?)
3.デカルト『エリザベートへの手紙』の抜粋に対する解説 [2]
経済社会系の哲学の問題
2013年に、経済社会系 (économique et social; ES) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
1.我々は国家に対していかなる義務を負うか? (Que devons-nous à l’Etat ?)
2.認識を欠いた場合、解釈できるか? (Interprète-t-on à défaut de connaître ?)
3.アンセルムス『調和について』 (De la concorde) の抜粋に対する解説 [3]
理系の哲学の問題
2013年に、理系 (scientifique; S) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
1.政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか? (Peut-on agir moralement sans s’intéresser à la politique ?)
2.労働は自意識を持つことを容認するのか? (Le travail permet-il de prendre conscience de soi ?)
3.ベルクソン『思考と動き』(La pensée et le mouvant) の抜粋に対する解説 [4]
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最初は、上記を引用するだけで終わりにするつもりだったが、回答をしたいという衝動が抑えられなくなった。
という訳で、私なりの回答をそれぞれ記す。
1.言語は道具でしかないのか? (Le langage n’est-il qu’un outil ?)
言語と道具の用語定義からまず行う。
まず、言語とは何か。言語とは、「意味の究極的基層の代替表現」である。まず我々人類が共通に理解しうる理念「イデア」があり、それをそれぞれの地域で表現しているのが、言語である。
次に道具とは何か。何かにものを変化作用を起こす実体が道具である。
故に、言語とはイデオロギーを潮流させ、思想を固着せしめ、そして政治決定へ連なる。極論すれば、言語が初端となり、核ミサイルのボタンを押すことが可能である。この意味において、言語は道具である。
しかし、命題は「言語は道具でしかないのか? 」つまり、道具以外の作用作も引き起こせるか否か、という点に着目して立題している。
道具とは何らかの目的、目標への変化を起こすための手段に使用される器具だ。つまり、逆に言うと「道具以外の作用作」「目的への変化を持たない作用作」を意図的に、あるいは意図せずして発生せしめうるか否か、という命題に置き換えられる。
これは可能だ。例えば、目的への変化をもたない道具、例えば絶対に命中しない銃があったとする。木に向かって打ったとして、それが外れ、その奥にいたウサギに命中した。これは立派な「目的外の作用作」だ。
論理演算とベン図の集合論で考えると分かりやすい。
a)時間的差異で見てみよう。
銃が当たる予測的範囲の集合をP
銃が当たった結果的範囲の集合をQ
とする。
通常、道具には目的を果たすことを目的にするため、通常AとBは一致する。だが、銃にはそれぞれ性能があって、AとBの集合は完全一致しない。
結果、
①P \wedge Q (意図する場所へ当たった:性能からの予測と結果が一致)
②P \not\rightarrow Q (予測する場所で誤差による判定外れがここに当たる。)
③P \not\leftarrow Q(結果。予期せず当たった場合がここに当たる。)
④P ↓ Q (上記以外)
上記の場合、④P ↓ Qが「道具足り得ない道具」の範囲だ。
上記は予測と結果で群をPとQに分けたが、時間以外にも、性能差や別の尺度でも応用可能なのでやってみるといいだろう。
さて、お題に戻る。「言語は道具でしかないのか? 」であるが、上記のようにP ↓ Qは存在する。
具体的には何であろうか。
具体的には、言語が目的外作用作を生み出す可能性は一例として次の例となる。
まず、予想と目的があって器具が存在するのであるが、これは一次作用、つまりは料理にフライパンが目的道具としてあるが、二次的、三次的作用、つまりその後の食事、消化、人の生活までは含めない定義とし、直接目的である一次作用の料理のみを目的とした器具だとすると、2以上のN次作用がP ↓ Qとなる。
言語が人への伝心を目的とするならば、それは一次利用の道具の範疇を超える。
最初のイデオロギーの例えに戻ると、例えば新聞にとある国への批判記事が載った場合、イデオロギーが形成され、世論へと固着し、政治決定がなされる。経済援助がなされるか、緊張を生むかの予期せぬ作用として繋がるのだ。
よって「言語は道具でしかない。この命題は是か否か? 」と言えば否である。その道具の二次的、三次的、あるいはN次的作用を考えると、その目的地点を突破して目的外の作用をもたらす媒体となるのだ。
他に検証方法として、人間が作り出した媒体は人間によってコントロールできないという、マルクスの言う「疎外」を考えれば、言論によって完全に社会が統制できていない現実を見れば、反証材料となりうるだろう。
以上。
****
2.科学は事実の証明に限られるのか? (La science se limite-t-elle à constater les faits ?)
科学とは自然哲理の分析、知体系への落とし込み、人間への理解、応用である。
自然宇宙が持つ法則的イデアの現象である。
その法則が組み合わさって事実となる。
それは結果として発生した事実と、発生していないけれども、発生可能な事実に分かれる。「科学は事実の証明に限られるのか? 」とは発生した結果の分析だけである。よって「科学は事実の証明に限られるのか? 」という命題に対しては否である。
人間が持つ理論体系から制作される創作物は全てそうである。
例えば、原子力発電、原子爆弾などは、理論が先行して開発されたものだ。
この他、近代哲学、あるいは現代物理学を応用したものは全てその通りで、実在の発生よりも理論が先行している。
近代建築、金管楽器、いわば、科学の力によるイデアの具象化がその反証となるだろう。
以上。
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3.デカルト『エリザベートへの手紙』の抜粋に対する解説 [2]
※すみません。フランス語が分からないのでここはパス。
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経済社会系の哲学の問題
2013年に、経済社会系 (économique et social; ES) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
1.我々は国家に対していかなる義務を負うか? (Que devons-nous à l’Etat ?)
国家とは富の再配分の決定機関とその範囲のことである。通常、国家は他に存在する国家との拮抗においてのみ存在しうるものであり、その国家間秩序のモデルを構成しうる強制能力(軍能力、警察能力、国家運営能力、国民気質、素質、教育、経済)が必要である。
その運営を持ってして国家を形成できるので、それに対する義務や徴税が必要である。
以上。
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2.認識を欠いた場合、解釈できるか? (Interprète-t-on à défaut de connaître ?)
この文章の主語を「自己」とする。
認識とは脳へのインプットのことで、解釈とは脳内でのアウトプットのことだ。
簡単に料理で例えて言うと、インプット材料が食材、解釈が調理、アウトプットが出来上がった料理だ。
この回答は二つに分かれる。
まず解釈はどうやって行うかというと、思考の補助線や基準線に照らし合わせ、これは正である、これは否であると自己の内部で決定する。その一つ一つの折り重ねが解釈としてアウトプットされる。
この思考の補助線自体も認識から外部入力される為、「思考の補助線」があった場合と、無かった場合の二通りに考えて回答せねばならない。
思考の補助線がある場合はどうなるか。食材がなくて調理しているのだからアウトプットができない。つまり解釈は不能だ。
思考の補助線がない場合はどうなるか。食材がなくて更に調理する方法も道具もないのだからアウトプットができない。つまり前者と同じく解釈は不能である。但し、その解釈の不能には説明したとおりの属性が付与される。
以上。
3.アンセルムス『調和について』 (De la concorde) の抜粋に対する解説 [3]
※フランス語が分からないのでここはパス。
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理系の哲学の問題
2013年に、理系 (scientifique; S) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題は以下の通りである。
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1.政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか? (Peut-on agir moralement sans s’intéresser à la politique ?)
※回答不可。
日本人からの立場としては可能である。
生活共同体を意識することなく、良心に従った行動が可能だからだ。
しかし欧州圏となると回答は違うのではないか。
例えば、プラトンの「国家」では、国家を論じる際、個人、人間と対比して回答された。即ち、人が持つ道徳倫理と政治は何階層かはさむとは言え、関連的に結合している存在なのである。
よってここを論じなければならないと思うのだが、私には知識が無い。回答不可。
****
2.労働は自意識を持つことを容認するのか? (Le travail permet-il de prendre conscience de soi ?)
※回答不可。
ここで言う労働という言葉に気をつけなければならない。
労働とは、計画や立案に対する実働のことであり、資本家に対する労働者、脳に対する手足、指揮命令者に関する歩兵ということになる。
自意識とは自由意識としておきかえる。
脳が下した命令に手足が反乱していいかということである。
トップが下した命令に最下部の人間が自由意志を持って拒否権発動させることは社会的倫理的に是か否かを問うている。
そのような場合に、組織の運営観点から見れば、手足の反乱や自由意志は許されない。だがこの回答ではNGだ。
例えばブラック企業が週100時間働け、残業代は出ない、というような無茶振りをした場合、それは社会倫理的に否だ。
まず、その組織が正常に運用できないし、働いている人の人権も守らなければならないからだ。
この組織運用と下位組織における労働者の人権の綱引きで、ここはこうしましょう、あそこはああしましょうと、実例を持った事例で説明して一つ一つ線を引いていかなければならない。
私はこの材料が無いので回答することができない。
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3.ベルクソン『思考と動き』(La pensée et le mouvant) の抜粋に対する解説 [4]
※フランス語が分からないのでここはパス。
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ここまで書いて疲れてしまった。
これ回答するのが面白いので興味ある人は是非。
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