人一倍周囲に迷惑をかけてきたお前が言うなという話でもあるのだが、しかし書く。
悲しみや贖罪はどのように清算すれば良いのだろうか。
誰それに迷惑をかけたと言う話は誰にでも経験はあるだろう。
それが一般的なレベルであれば赦されることもあるだろうが、例えば致命的な損害を与えたと言う話があるのであればそれは贖罪は主体的にできることはあっても、赦されることはない。
そのような時に、人はどのように生きれば良いか。
私自身の考えであるが書いておく。
これはもう、ひたすらにその罪を負って生きるしかない。忘れてもいけない。
私は根性論が嫌いだが、しかしこればっかりは人間の最後の倫理性を保つのに捨ててはいけないものであると考える。
しかし、私が思うに、そればかりであるとその人間が潰れてしまう。贖罪意識によって人間が潰されることがあるのである。それでもその人間は健全に生きる権利があるだろうか、そうではないだろうか。
そのような時にどうすれば良いか。
ごく簡単に言えば、過去を忘れずにいて、未来に向かって生きれば良い。
これは罪を犯した人間がすがすがしく何事もなかったかのように生きると言うことを選択せよということではない。
その過去があったからこそ、できる未来がある筈なのである。
例えば、親の虐待がひどくて、そのストレスのはけ口として近所の子供を棒で叩いていた、などという時には、その事象を踏まえて、その過去と贖罪を忘れず、そうした親にならない、そうしたストレスの連鎖をさせないという前進がある。
虐待を経験していない人間がそうするよりも、虐待を経験した人間がそうした方が遥かに意味がある。
過去に置いた石と言うのはどんなに小さくとも動かすことはできない。
逆に未来に置く石と言うのはどんなに大きくとも動かし能う可能性が存在するのである。
石にけつまずいてしまった過去があるなら、未来に置かれるどでかい石も、皆の協力や個人の長期的努力で除去できるのではないか、と私は考える。
無論、それが全てにおいてできるわけではないが、過去があるからこそ未来が変えられる、と言う考え方を持っていた方が、人間社会の前進もできるのではないだろうか。
私が思うに、直接的な運動、例えば犯罪をしてしまった者がその贖罪意識から犯罪を抑止するために警らに務める、と言うのも大変に立派な話ではあるが、それをするのはなかなか難しい。
一方で、間接的な運動、例えば、自分の当時の生活状況と動機、周辺の仲間の意識はこんな感じであった、と言うような手記を残したり、現代で言えば動画や、音声だけでも残しておいて、それを公開すれば、それはその社会形態の分析がなされ、結果、犯罪抑止へとつながるはずだ。そしてこれは行動的には容易な部類に入る。また、個人の考えを整理するのに大変に役に立つ。
よって、私は自己の罪に悩まされている人間がいるのであれば、それは、手記を残したり、ユーチューブで自らの行動を反省し、その客観的事象を情報発信したりすることが結果的に人間社会への貢献へとつながるのではないかと考える。
悲しみや贖罪はどのように清算すれば良いのだろうか。
誰それに迷惑をかけたと言う話は誰にでも経験はあるだろう。
それが一般的なレベルであれば赦されることもあるだろうが、例えば致命的な損害を与えたと言う話があるのであればそれは贖罪は主体的にできることはあっても、赦されることはない。
そのような時に、人はどのように生きれば良いか。
私自身の考えであるが書いておく。
これはもう、ひたすらにその罪を負って生きるしかない。忘れてもいけない。
私は根性論が嫌いだが、しかしこればっかりは人間の最後の倫理性を保つのに捨ててはいけないものであると考える。
しかし、私が思うに、そればかりであるとその人間が潰れてしまう。贖罪意識によって人間が潰されることがあるのである。それでもその人間は健全に生きる権利があるだろうか、そうではないだろうか。
そのような時にどうすれば良いか。
ごく簡単に言えば、過去を忘れずにいて、未来に向かって生きれば良い。
これは罪を犯した人間がすがすがしく何事もなかったかのように生きると言うことを選択せよということではない。
その過去があったからこそ、できる未来がある筈なのである。
例えば、親の虐待がひどくて、そのストレスのはけ口として近所の子供を棒で叩いていた、などという時には、その事象を踏まえて、その過去と贖罪を忘れず、そうした親にならない、そうしたストレスの連鎖をさせないという前進がある。
虐待を経験していない人間がそうするよりも、虐待を経験した人間がそうした方が遥かに意味がある。
過去に置いた石と言うのはどんなに小さくとも動かすことはできない。
逆に未来に置く石と言うのはどんなに大きくとも動かし能う可能性が存在するのである。
石にけつまずいてしまった過去があるなら、未来に置かれるどでかい石も、皆の協力や個人の長期的努力で除去できるのではないか、と私は考える。
無論、それが全てにおいてできるわけではないが、過去があるからこそ未来が変えられる、と言う考え方を持っていた方が、人間社会の前進もできるのではないだろうか。
私が思うに、直接的な運動、例えば犯罪をしてしまった者がその贖罪意識から犯罪を抑止するために警らに務める、と言うのも大変に立派な話ではあるが、それをするのはなかなか難しい。
一方で、間接的な運動、例えば、自分の当時の生活状況と動機、周辺の仲間の意識はこんな感じであった、と言うような手記を残したり、現代で言えば動画や、音声だけでも残しておいて、それを公開すれば、それはその社会形態の分析がなされ、結果、犯罪抑止へとつながるはずだ。そしてこれは行動的には容易な部類に入る。また、個人の考えを整理するのに大変に役に立つ。
よって、私は自己の罪に悩まされている人間がいるのであれば、それは、手記を残したり、ユーチューブで自らの行動を反省し、その客観的事象を情報発信したりすることが結果的に人間社会への貢献へとつながるのではないかと考える。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます