とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

否定されても良い人格の用意

2023-06-04 04:16:36 | 雑感
自分の人格を否定された時、それはとことんに落ち込むだろう。

ではその落ち込みをどう回避すればいいか。

それは「絶対に自己否定しない場所での人格」と「他人から否定される用の人格」の2つを持つことである。
これが一致していると、他者から攻撃されて粉々にされた場合は人が再起不能になるが、一方において、2つに分けていると、外部に向けた武装が壊れただけで中身が無事、と言うことになる。

人格とは主観的認識と自分の行動と、自分の「周辺環境」との相互作用によるフィードバックによって再帰的に構築される自己認識のことである。
即ち職場が自分で認識する人格形成の場になるし、究極的には職場そのものが自分の人格になる。

職場が自分の人生と一致している場合、そこでの否定は自分自身の全人格の否定につながり、最悪自分の人生を破綻させてしまう。

よって、そうではない究極的に否定されざる人格を形成する場を趣味などで用意し、そこは守る。
職場で否定されてもまあ仕方はない、それを改善することが大事、と言う形での「自分」を考え直す。


これは複数の物理的な活動場所を別々に用意し、絶対不動の自分を持てる場所を持っておくのが良い。
小麦を生産する場所と戦場は一致させてはならないのだ。
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なぜ親に問題があるのか。

2023-06-04 04:13:19 | 雑感
なぜ成人したのに、人格に問題があるのかについての雑記。

1.
親とは元々不完全である。
言わば、ごく簡単に言えば、親と言う成人は人である以上完璧な人間であるわけではないが、一方において、家庭における親というのは絶対的存在であって完全無欠の評価尺度として動かなければいけない。
親と言う人種の人間は、世間的に見て不完全であるが、家庭内のミクロ視点から見れば絶対的な完全なのである。

子供が成長することによってその齟齬が見えてきて、内外の齟齬から人格に問題があることを世間の尺度で認識する。

2.
世の中の基準が変化し、人格性を求めるようになったため。
人の評価は1つの尺度ではなく、コーンフレークの栄養表示のように、複数のパラメータ尺度によって総合的に評価される。
それまで親の人格は現代の基準での各パラメータに対し40点くらいあれば及第点だったが、
現在は現代の基準での各パラメータに対し70点くらいを求める。

従い、それに漏れる親は、毒親となるような人格を持つのに、子供を作ってしまった、と言うように捉えられる。
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社会評定の低さと人格否定

2023-06-04 04:08:43 | 雑感
私は頭が悪い。これはいい。
しかしそれに伴って、人格の否定までされる謂れはない。これはおかしい。

能力が低いならば低いなりに、その人間は生きていていいはずなのであるが、社会の方の認識はそうではなく、「こいつは芯でもいい」と言う、死亡への圧迫に関し、消極的な賛同のスタンスを取る。

人に迷惑をかけているならばまだしも、普通に生きているだけで何が悪いのであろうか。


私に悪い評価をつけて、人格や人間性まで否定し、その自己の矯正をする心理を持って上昇させようとする社会や文化の方が悪なのである。
てんかん持ちのスメルジャーシチャヤはそれなりに迫害を受けていたが、しかし社会的には聖人と言う扱いであった。
私は聖人を気取るつもりはない。しかし死ぬか死なないべきかで言えば、別に普通に生きていていいんじゃないかと思うのである。
無論社会は私に無関心で、別に生きていていいじゃないかと言うスタンスではあるが、私が数十年前の昔を思い出すに、死への圧迫を想起させるようなハラスメントの社会がそこに存在した。
今この瞬間はそうではない、と言うのが救いである。

さて、人間はそれ単体で自己改革をしようとする。それは他者に対する従属のために使用されるのではなく、自己の理念のために使用されるべきなのだ。
例えばある事業において集めた人間が優秀な働きをしなければ叱咤する。
そこに集められた人間は全て普通の人間であると言うのに。
しかし、事業運営側は、優秀にできるラインを超えない人員は、社会的に生きている意味がないとまで批判をする。

人は周囲に迷惑をかけない、犯罪をしないということをしたならば、そこに存在するだけで生きる権利があるはずなのだ。
それを否定する社会が現在の日本にある。

私自身、自分が生存する権利、自己が自己である権利だけは認められるはずだ。
他者の強制によって生活をコントロールされるのではなく、自分が生きるために自分の人生を自分でコントロールする権利があるはずなのである。
これを発展・醸成させて行く。

こちらの行動を否定する人間は、厳密に言ってこちらの存在や生存をやや脅かす存在である。
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