とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

裁く→しばくにするといい感じに勢いが増してすっきりする件

2022-02-20 23:08:32 | 文章・日本語・言葉
罪を裁く→罪をしばく
人を裁く→人をしばく
大岡越前守がこの事件を裁く→大岡越前守がこの事件をしばく
裁くのは俺のスタンドだッー!! →しばくのは俺のスタンドだッー!! 
(これはパワー減か)

心の罪も神はさばく→心の罪も神はしばく
キリストが人をさばく日は近い→キリストが人をしばく日は近い
死後さばきにあう→死後しばきにあう
(これは罪が清算されなさそう)
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人間は完全でないからこそ、理想に価値がある

2022-02-20 18:42:13 | 哲学・社会
 
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思うとは何か

2022-02-20 18:29:26 | 哲学・社会
まずは辞書の説明から。


思う/想う/憶う/念う(おもう)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%80%9D%E3%81%86/

おも・う〔おもふ〕【思う/▽想う/▽憶う/▽念う】 の解説

[動ワ五(ハ四)]

1 ある物事について考えをもつ。考える。

㋐判断する。信じる。「これでよいと―・う」「そうは―・わない」「自分の―・ったとおりに行動しなさい」

㋑決心する。決意する。「新しく事業を始めようと―・う」「―・うところがあって酒を断つ」

㋒あやしむ。疑う。「変だと―・った」「そんなことがあるはずはないと―・っていた」

2 眼前にない物事について、心を働かせる。

㋐推量する。予想する。「この本はいくらだと―・うか」「―・わぬ事故」

㋑想像する。「―・ったほどおもしろくない」「夢にも―・わなかった」

㋒思い出す。追想する。回顧する。「亡き人を―・い悲しくなる」「あのころを―・えば隔世の感がある」

3 願う。希望する。「―・うようにいかない」「背が高くなりたいと―・う」

4 心にかける。心配する。気にする。「君のことを―・って忠告する」「このくらいの暑さは何とも―・わない」

5 慕う。愛する。恋する。「故郷を―・う」「心に―・う人」

6 ある感じを心にもつ。感じる。「別れは悲しいと―・う」「歓待されて心苦しく―・った」

7 表情に出す。そういう顔つきをする。

「もの悲しらに―・へりし我 (あ) が子の刀自 (とじ) を」〈万・七二三〉

→考える[用法]


これでは不足しているので私から補足する。

「思う」と言うのは個人の思慮の中での想定のことだ。
なので現実とは区別して使用する。

よく仕事で「思う」と言う言葉を使って叱られる若い人もいるだろうが(私も同じ)、これがよくないのは現実に発生した結果のみを伝えるべきであって、現場運用に当たっては個人的思慮や意見は不要であるからである。

それでも推測や推定を求められた時には、「現況は不明だが、周辺の状況から言って〇〇ではないかと想定される(これは一次報告なのであって、いずれ発生事実を突き止めて、それを追って連絡する)」と言う風に使う。
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することがないときついという状況

2022-02-20 17:16:46 | 雑感
「することがないときついという状況」と言うのを聞くと、私は信じられない、と言った感じである。
例えば横にある本を読む、問題集を解く、インターネットを見るなどなど。

本やインターネットが無ければ、自分の中で数学の定義問題をあれやこれや思い浮かべる。
ほーら二次元座標に1の面積を想定した時、どの時に素数になる? など(スーパーのレジ待ちの時はだいたいこれ)。うーんと悩んでいるとレジを打つ順番が回ってくる。

他にも今考えたのは、複素数座標に素数回の円運動で単円を構成してご覧? そうすると何回操作した時に−1になる? など。まあこれは別の場所で発表しよう。

だが、私にも、過去「することがないときついという状況」と言うのは確かにあった。
テレビもネットもなく、聞こえてくるのはラジオだけみたいな状況が・・・
あとは幼少期だな。
誰も遊び相手がおらず、薄暗い夕方の部屋で、板と本で坂を作って、そこをブルドーザーが降りるのを手で動かしたりして・・・
そうそう、あの土曜日の午後が本当に苦痛で、何もない永遠に思える時間をあのオレンジのカーテンがかかった薄暗い部屋で延々と過ごさなければならなかったと言うね・・・

今でも同じような状況になったらきついだろう。土日のテレビで日中流れるのは競馬とゴルフだけ・・・
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未来非決定論 センメルヴェイスが否定されたことを考える

2022-02-20 15:45:19 | 哲学・社会
決定論と言う哲学上の考え方がある。
簡単に言えば、未来は既に決定していて、どのような努力をしても定まるところに定まると言うのが決定論の視座だ。
一方私はこれに対して、それが間違っていると言う立場、即ち「非決定論」の立場から、短くこの文章を記載しておきたい。

題材はセンメルヴェイスである。
センメルヴェイス・イグナーツは19世紀のハンガリー人医師であり、手洗い法を推奨した。
しかし、「そんなもので産褥熱による産婦の死亡率が下がるわけがない」(=私なりに言い換えるなら、「決定された未来が変わるはずもない」)として、センメルヴェイスの存命中にその功績は認められることはなかった。
一方、手洗い法が死亡率を1パーセント未満にまで下げられる科学的手法は今日ではよく知られている通りである。

我々は皆、「そんなことで未来が変わるはずがない」とよく想念する。
一方で、それを覆した実績は歴史において度々発現する。

自転車屋を経営していた二人のアメリカ人兄弟は、世界初の有人飛行機を開発する。これで世界は変わった。
陸上競技の走り高跳びで、それまでなかった背中を沿って飛ぶことが、より高く飛べることに気づいたアメリカ人男性は、その練習をするようになった。
しかしその格好のあまりの奇妙さから、それを笑いに遠くから人が来るほどだった。
その笑いに来た人間は「それで世界が変わる訳がないだろう」と思っていただろう。
笑いに来た人間のみならず、世間一般でもそうだっただろう。
この選手が金メダルを獲得した後、世界中の走り高跳びの選手たちは、これまで考えもしなかった、あるいはそれを練習したら笑いものにされたであろう飛び方を全員がこぞってするようになり、実質上の標準(スタンダード)である走り高跳びの方式になった。
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